京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

神々の宿る神楽岡界隈をめぐる①

2022年07月13日 07時17分00秒 | 日記
 吉田神社の西側にはかって神官の住居である社家(しゃけ)が建ち並び、集落は構(かまえ)と呼ばれる柵や堀、土塁で囲われていて南北には"木戸"が設けられていました。





今では「重森三玲庭園美術館」など数件に当時の面影を残すのみとなっています。





東一条通の一筋南には、かっての吉田神社参道があります。

幕末期に尾張藩が現在の京都大学吉田キャンパス内に相当する敷地に下屋敷を構え、その南側の境界が今の東一条通です。

その様な事から東一条通が参道として整備されました。

地学的に吉田山は東山三十六峰のひとつに数えられますが、その成り立ちは花折断層が右横ずれを起こし、行き場を無くした地表面がその南端部で隆起したもので"末端膨隆丘"と呼ばれる山です。
(たんだか"ブラタモリ"みたいになっていますね!)



鳥居が見える左側には藤原山陰の邸宅があったと言われており、奈良の長谷寺の観音像を二躰模刻し、一躰はここ神楽岡の邸宅に、もう一躰は大阪の茨木市にある総持寺に祀りました。
藤原山陰の邸宅は後に寺となり「新長谷寺」と号したと言われています。







参道を登ると視界が開け山陰神社が鎮座されています。

ご祭神は神社名からわかるように藤原山陰卿
で吉田神社創建に貢献された方です。

日本で初めてあらゆる食物を調理、調味したと言われ、古来より"包丁の神・料理飲食の祖神"として信仰されています。









斎宮所大元宮です。

吉田神社のご由緒は、貞観元年(859)に藤原山陰が氏神である春日四神を勧請したことに始まります。

祭祀は中臣氏(後の鈴鹿家)が勤めていましたが鎌倉時代以降は、朝廷の祭祀を司る神祇官である卜部(後の吉田家)が兼務するようになりました。

室町時代の応仁・文明の乱で一時衰退しますが吉田兼倶が出て独自の吉田神道(唯一神道)を唱え、それを具体的に実現する場所として、文明16年(1484)に卜部家邸内にあった斎場を移建し、大元宮を中心とした斎場所を造営しました。









大元宮には天神地祇(あまつかみ くにつかみ)八百万神がお祀りされ、その周囲には内宮・外宮と全国の延喜式内社3132座がお祀りされています。

2月の節分には大元宮で"疫神祭"が行われ、京都で一番賑わう"節分の日"です。



長くなるので以降は後日に書きたいと思います。




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