かんじゃまのつぶやき(海の見えるチベットより)

日本一細長い四国佐田岬半島での慣れない田舎暮らしの日常や風景、
  そして感じたこと、思い出などをひとコマひとコマ

僕のTシャツ(7:キナバル山編)

2007-11-17 11:04:49 | 旅行

キリマンジャロに登頂した年の5月に、今度はキナバル山へ行った。ほとんどの日本人トレッカーは、海外登山ではまずキナバル山に行って、次にキリマンジャロに挑戦するようだが、私の場合は逆だった。そんなこともあってだろうか、キナバル山はキリマンジャロほど深い印象が残っていない。
キナバル山は、ボルネオ島のマレーシア領内にあり、キナバル自然公園は、2000年ユネスコの世界遺産に登録されたようだ。成田を出発して、香港でトランジットして、コタ・キナバルに夕方到着した。
到着した翌日、バスで市内観光をして、その後パーク・ヘッドクォーター(公園本部)まで行き、入園手続きをして公園内のドミトリーに宿泊した。このドミトリーからは、目指すキナバル山がよく見えた。ドミトリーでの夕食は、なかなか豪華な中華料理で、明日から登山だという雰囲気とは少々違った。
そして、翌日登山ゲートに向かい、大きな荷物を預けてトレッキング開始。シダやランがたくさん生えた熱帯雨林のジャングルの中を歩く。急な斜面が多いが、木材で階段が作られていたり、手すりがあったりと、登山道はよく整備されている。歩き始めからしばらくして、雨が降り始めた。そのため、時々あずま屋で雨宿りを兼ねた休憩をしながら、ゆっくり上る。そんな中で、ひとつ楽しみにしていたのが、食虫植物のウツボカズラを見ることだ。想像していたよりも小ぶりであったが、登山道の脇に生えているのを、現地ガイドが教えてくれた。
徐々に高度を上げていくと、しだいに木々が低くなり、やがて前方に壁のように切り立った大岩盤が現れた。そして、その大岩盤の直下には、本日宿泊のラバンラタ・レストハウス(3,352m)が見えてきた。このレストハウスは、1階がレストランで2階が客室になっており、日本の山小屋のイメージとはかなり違っている。部屋に荷物を置き、少し休憩してから、レストハウスの周りを散歩する。眼前の大岩壁の上の方はガスっている。
       
翌日夜中3時頃に、ヘッドランプの明かりを頼りに出発する。しばらくは急な坂や階段が続く。そして、赤道直下付近だというのに、やはり寒かった。そのため、ヘッドランプの電池の消耗が早い。何度か休憩しながら少しずつ高度を上げていく。やがて、森林限界を越えたころから、足元は花崗岩の岩盤に変わった。真っ暗だった空が、徐々に明るくなってくる。高山病的な障害はないが、所々に急な斜面があるため、私の足腰はかなり疲労し、キリマンジャロの最後の登りに劣らないほどしんどかった。岩場は一枚岩状で広々としており、ルートはどこだろうと思ったが、ちゃんと登山ルートを示すロープが張られており、迷う心配はなかった。この花崗岩の岩場は、かつての氷河による浸食で岩盤表面が削られているため、表面がつるつるした感じで、滑りやすそうなのだが、意外に滑らない。
やがて、あちこちの屹立した岩場が太陽に赤く染まり始め、下界は雲海で覆われているのが見えてきた。残念ながら、私は日の出までに頂上に立つことはできなかった。どうやら、同じツアーの仲間達より随分遅れ、ほぼビリになったようだ。そして、真正面に何名かの登山者が集まっている岩場が眼に入ったので、そこが最高峰ロウズ・ピークだろうとわかった。こうして、日の出よりやや遅れて頂上に立つことができた。頂上では、ツアーの方たちと揃って記念写真に納まる。 

登頂を記念して買ったのが、今回のTシャツである。なんの変哲もない、「これぞプリントTシャツ」といった感じのものだが、これも記念だ。
我々が登った時は、頂上に4,101mの看板があったし、買ったTシャツにもそう書いてあるが、その後1997年に人工衛星を用いて測量が行われたところ、ロウズ・ピークの標高は4,095.2mに改定、正式に承認されたとのことである。聞くところによれば、雨と風によって1年に5cmずつ低くなっているらしい。
頂上で360度の雄大な景色を楽しみ、上ったルートをゆっくりと写真を撮りながら下る。上る時はしんどかったので、景色をゆっくり楽しむことができなかったが、帰路では、ロバの耳の形に切り立ったドンキーイヤーズや尖塔状のキナバルサウスなどを見ながら、足元に注意しながら慎重に下った。下りは、宿泊した小屋で小休止して、一気に登山口まで標高差約2,200mを下りた。
ところで、このキナバル山を往復するマラソンが毎年行われているらしい。標高差約2,200mの世界一過酷な山岳マラソンである。登山口付近に、昨年の優勝者達の名前が看板に書かれていた。
登山を終えてからは、コタ・キナバルの海辺のリゾートホテルに宿泊し、翌日は帰国出発時間までフリータイムだったので、すぐ沖合に浮かぶサピ島へ渡り海水浴を楽しんだ。海はとてもきれいだった。コタ・キナバルの港で買ったのが、もう1枚のTシャツである。この国の有名な人形劇をデザインしたのだろう。このTシャツは、結構気に入っているので、着る機会が多い部類に入る。


≪蛇足≫ 一つの投稿記事に1枚の写真しか載せられないと思っていたのですが、最近、複数枚載せる技があることを知り、今回初めて2枚の写真を載せてみました。 

“まなご石”の謎

2007-11-16 11:16:42 | 田舎の生活

昨日は、夕方4時過ぎに突然テレビが映らなくなった。我が家は、テレビもインターネットもCATV契約なので、その後当然インターネットも切断されてしまった。不具合の原因究明に時間がかかったようで、やっと8時過ぎに復旧した。おかげで、大相撲中継を見ることができず、久しぶりに音も映像もない中での夕食となった。 

 

それはさておき、我が地区の風習に関して、興味あるコメント(質問)を頂いた。そこで本日は、そのご質問に関する現時点での私見・想像などを書いてみることにします。

我が名取地区には、昔よりお墓に「まなご石」なるものを供える風習があります。例えば、ある方が亡くなられたとすると、葬式の日に、浜に行って「まなご石」をいくつか拾ってきて、それをお墓に供える。あるいは、母の話によると、以前は毎年旧暦の1月14日に、浜から新しい「まなご石」を拾ってきて、墓石の周りに供える、といった風習があったようだ。

この「まなご石」とは何かというと、浜辺にある小石の中で、角が取れ丸くなった真っ白な石のことです。浜には、その他黒い石や青い石がたくさんあるのに、なぜこの白い石だけを特別視して「まなご石」と呼ぶのかは、私にはわからない。たしかに、浜に数ある小石のなかでこの石の白さは目立つし、先人達がこの白い石を美しいと思い、他の地域には見られないので特別な石だ、というようなことを感じたのではないだろうかという想像はできる。ちなみに、この石は既にご紹介した梶谷鼻などにある大理石が、長い時間をかけて波に洗われて磨耗し、丸くなったものです。だから、少なくともこの半島では名取の浜にしかないと思われるので、そのことが特別視した理由かもしれません。 

ところで、私はまずなぜ「まなご石」と呼ぶのかがわからない。おそらく「真砂(まさご)」が訛ったのではないだろうかと思うのだが(または「砂子(まなご)」)、「真砂」は細かい砂のことだから、我が地区でいう「まなご石」とは大きさが違うように思う。

それとも、「愛子(まなご)」、あるいは「まなこ(眼)」のことだろうか? ちなみに、あの嫌われもの、カメムシのことを「まなご」と呼ぶ地方もあるようだが、これは違うだろうなと思う。

名前の語源・由来はさておくとして、ではなぜこの「まなご石」をお墓に供えるのだろうか。私なりにいくつか想像してみました。

お墓には、玉砂利とか化粧砂利と呼ばれるものを敷き詰めているようなので、その変形なのかもしれない。それとも、墓石を建てる習慣ができる以前の、自然石を積んで墓の目印にした習慣の名残かもしれないし、あの世とこの世を境する「結界」の役目があるのかもしれない。あるいは、墓石を柱に見立てたストーンサークルの可能性だって否定できない。 

そもそも、日本の場合、なぜ墓石を建てるのだろうか?その墓石はなぜ柱のように縦に長いのだろうか?海外に見られるように、横長でも、平板でもいいじゃないかと思う。おそらくこの形状は、天(あの世・永遠)と地(この世)を媒介する象徴、つまりは、そこに祀られた人間の霊を柱(この場合墓石)に依って天に送り届ける、という意味から生じたのではないだろうか、などと妄想してみたりする。そして、「」という色は、葬祭や霊などと密接に関係しているように思われる。だから、数ある小石の中で真っ白な「まなご石」が霊の宿る石として選ばれたのかも知れない。きっと、名取の先人達は、真っ白い「まなご石」を神聖なものだと感じたであろうことは想像に難くない。 

とはいうものの、米の御飯など、大病した時か死の間際にしか食べられなかった質素なその昔、この「まなご石」の白さと形を「米の御飯」に見立てて、お墓にお供えしたのではないだろうかとも思えてくる。いやいや、そんな美談めいたことはなく、浜で見た「まなご石」をきれいだと思った先人の一人が、たまたまそれを拾ってお墓に供えたのが始まりで、その後は集落の人たちも真似ただけ、という単純な話かもしれない。

いつ頃から、この「まなご石」の風習が始まったのだろうか?日本の他の地域でも、お墓に小石を供える風習のあるところがあるのではないかと思う。ちなみに、ユダヤ教の儀式に墓に石を供えるというのがあるようだ。

今回は、想像ばかりで明確な回答ができず、煩雑な文章になりましたが、とても興味深いご質問ですので、これからの宿題にしたいと思います。


つわぶきの花が咲いたよ

2007-11-15 14:42:33 | 草花・樹木

 我が家の庭に、つわぶきの花が咲いた。咲き始めた頃は特に気にも留めていなかったが、そのあざやかな黄色で、寂しかった庭の一角がにわかに華やいだ感じがする。 

このつわぶきは、石と石の間の隙間などに窮屈そうに生えており、なぜもっと楽な平坦なところに生えないのだろうかと思う。山でもたいてい、条件の悪そうな場所に生えている。あまり日当たりの良いところを好まないようだが、つわぶきの葉は濃い緑で、太陽に照らされつやつや光る。春には、新たに出た葉が開く前に茎を摘み取り、葉は捨てて、茎を食用にする。煮物や炒め物、そして粕漬け、味噌漬けなども美味しい。葉も薬用になると聞く。

ところが、私が茎だと思っていた部分は、実は葉の一部で、葉柄(ようへい)というのだそうだ。確かに茎にしては、1枚の葉しかついていないので変だ。葉柄とは、葉の一部で、葉と茎をつなぐ通路なのだそうだ。そして、茎と葉柄は形も違っていて、茎には表と裏の区別はないが、葉に表裏があるように葉柄にも表と裏があるとのこと。確かに、葉のついた茎もどき(葉柄)には、縦にすじ状のくぼみがある。すると、花が咲いた部分の棒状のものが茎なのだろうか?これには縦のくぼみは見当たらず、1cmほどの小さな葉のようなものがある部分から枝分かれして、その先に花がついている。うーん。そんなことを考えながら、つわぶきを見ていると、どうもこいつは変な植物に思えてきた。そもそも、1枚ずつの葉をつけた葉柄が地中まで伸びており、花をつけた柄(茎?)も別途地中まで伸びている。 

試しに1箇所掘ってみることにした。すると、花をつけている柄は、葉だけの葉柄と葉柄の間から枝分かれしたように伸びている。しかし、葉柄の付け根には、「托葉」と呼ばれる小さな葉があるそうなのだが、それが見当たらない。そして、葉柄の下には、表面がひだひだのようになった球根のようなものが2つ3つ現れた。地下茎なのだろうか?「鱗茎」というのがあるそうだが、それに相当するのだろうか。つわぶきは、キク科だそうで、葉はフキに似ているが、たしかに花はキクに似ている。しかし、キク科の植物で地下茎を持つものがあるのだろうか?それにしても、地中から水分を吸い上げ、葉で光合成を行い、生成された栄養分は葉柄を通って地下までいき、そして枝分かれした柄を通って再び上昇して花に栄養分を与える。なぜ、こんな面倒くさい構造になったのだろう。わからないことだらけだ。そもそも私は植物の基本がわかっていない。近くに図書館があれば調べに行くところだが・・・。インターネット検索してみてもよくわからない。

ご存知の方、教えていただければ幸いです。


“鉄腕”稲尾さん死去

2007-11-14 10:28:39 | 

あの大投手・稲尾和久さんが昨日、悪性腫瘍のため亡くなられた。享年70歳。

稲尾さんといえば、日本シリーズでの3連敗後の4連勝の立役者、そして、1シーズン42勝などの大記録が思い浮かぶ。西鉄ライオンズのエースとして活躍し、黄金時代を築いた方だ。残念ながら、私はその頃リアルタイムでは彼の活躍を見た記憶がないが、野球好き小僧として、それらを伝説のように聞いている。とにかく、彼の記録は驚くばかりだ。(野球に興味のない方は、何のことかお分かりにならないだろうけれど・・・)

まず、1956年に19歳でプロデビューして、いきなり21勝を挙げ、防御率1.06。翌年20連勝で、シーズン35勝。そして、1958年に2年連続MVPを獲得して、日本シリーズでは、冒頭に書いた4連勝で、とうとう「神様 仏様 稲尾様」になった。この時の日本シリーズで、稲尾投手は、7試合中6試合に登板、うち5試合に先発、4試合完投という、信じられないような活躍をしている。他に投手はいなかったのだろうか、と思ってしまうが、それほど彼は絶対的な強さを持っていたのだろう。 

そして、1961年24歳のシーズン、彼は42勝を挙げる。この年の登板試合数は78試合、投球回数は404イニングとある。これはめちゃくちゃな数字である。例えば、年間試合数を150試合として、5試合に1回登板して全て完投したとしても、登板試合数は30試合、投球回数は270イニングにしかならないので、いかにとんでもない数字かということがわかる。42勝は彼以外にはいないだろうと思っていたが、戦前、スタルヒン投手も42勝したことがあるようだ。この時代は、今のように投手の分業制がなかったので、稲尾投手が先発しなくても、勝てそうな試合だと途中からリリーフで彼が登板したことがあるのだろうが、それにしてもすごすぎる。

そして、1962年25歳の若さで、通算200勝を達成している。またこの年、月間最多勝11勝を挙げている。プロ7年間で200勝だから、とんでもないスピードだ。これだけ酷使すれば、体力の消耗も早いだろうと思ってしまう。翌年の28勝を最後に、勝ち数は下がり、そして、1969年32歳の若さで、数々の伝説を残して現役を引退する。通算276勝、通算防御率1.98。

稲尾さんのご冥福をお祈りいたします。


秋深まる

2007-11-12 14:59:53 | 田舎の生活
昨日あたりから少し寒くなってきて、しだいに秋が深まりつつあるといったところだ。そして、この半島の木々も徐々に色づいてきた。北国のほうでは、もう紅葉のピークは過ぎたのだろうけれど、こちらはこれからが本番だ。
そして、いよいよこれから暖房機器も活躍することになるのだが、今年は原油価格の高騰で、灯油もかなり値上がりしているようで、店頭価格が18リットル当たり約90円上昇したらしい。店によっては、先月に比べて約200円値上げしたところもあるとのことだ。そんなことが影響して、今年は石油燃料系暖房機器から、エアコンなどの電気系に買い替える客が増えているらしい。この状況で買い替えてどうなるのだろう。来年以降もこんな状況が続くのだろうか。うーん。

大碆と庄司太郎碆(後編)

2007-11-11 12:00:03 | 風景

そして、大碆の西方約2kmの海上には、“庄司太郎碆”という少し変わった名前の岩礁がある。これも、国土地理院の1/25,000地形図にもちゃんと載っている。このやや長たらしい名前を、子供の頃からかっこいいなあと思っていた。この名称は、人の名前から付けたような気がするので、きっと言い伝えとか伝説があるのではないだろうかと思うのだが、母に聞いてもわからないという。庄司は苗字なのだろうと思うが、庄司と太郎なのかもしれない。

庄司太郎碆は、写真中央左の烏帽子岩のような小梶谷鼻(比丘崎)から断続的に200mほど続く岩礁のさらに沖合にあり、海岸から600m離れている(写真のさらに左側)。だから、明らかに陸地から連続した岩盤だということが想像できる。この庄司太郎碆には灯浮標が設置されている。付近を航行する船舶の安全のためだろう。おそらく、かつてここに座礁した船があるのではないだろうか。灯浮標は陸上からでも肉眼で見えるが、岩礁そのものは干潮時にしか海面上に顔を出さないと思う。だから、私にとって“庄司太郎碆”は子供の頃から、まぼろし的な岩礁なのである。 

 

ところで、この“碆(ハエ)”に関連して、『八重(はえ)族について』と題する興味深いホームページを見かけた。少し長くなるけれど、概要を紹介します。 

沖縄や九州では、「南風」のことを「はえ」と言う(例えば、「南風原(はえばる)」。そこで、このHPによると、「その南風に乗って南方からやってきた人々をはえ族と呼ぶ」という。そして、「そのはえ族は上陸するや海岸ぺたを捨て、鹿児島や宮崎の100から500mの比較的高台に住まいを構え、『八重(はえ)集落』を作った」として、推論が展開する。確かに宮崎県には、「○○八重」と言う地名が多く、「○○ばえ、○○はえ」と読む。

そこで、このHPの主人は2つの疑問を抱く。1つは、船に乗ってきたのだから艘船術に長けているはずなのに、漁師になるのを避けて住みにくい高台に住んだこと。2つめは、少なくとも3千人が移動したと考えられ、南の島で何かよっぽどのことが起こったのではないか、と。そしてある日彼は(彼女かも知れないがとりあえず彼とさせていただく)、与那国島の海底遺跡らしいものをTVで見て、「はえ族」はそこに住んでいたのではないかと思い至った。海水面の上昇により、徐々に沈んでいく島を逃げ出し、海岸ぺたにいやな思い出しかないはえ族にとって、高台に住まいを構えることは常識だったであろう、と推論している。

次に彼は、読みが同じ「はえ、ばえ」の地名を探し、「碆、礁」を「はえ、ばえ」と読ませる地名が、四国太平洋岸(愛媛、高知)などにたくさんあり、瀬戸内海沿岸には少ないことをつきとめる。そして、「八重」を含む地名を名づけた人々と、「○○碆」などを名づけた人々は関係があったのではないかというのだ。では、なぜはえ族は宮崎県や鹿児島県、四国南部に住みついたのだろうか?彼の結論は次のとおりである。

喜界カルデラで6,300年前に大爆発が起こり、南九州や四国南部に火山灰が降り積もり、そこに住んでいた人々が滅んでしまう。その後、沈み行く島から逃げ出した与那国の人々は、火山噴火があったことなど知らずに、無人化していた南九州や四国南部に住みついたのだと。与那国島から逃げ出すなら、九州より台湾のほうが近いが、九州に向かった理由についても彼はいくつかの理由を挙げている。

【注:喜界カルデラとは、鹿児島南方のカルデラで、主部は海面に没しており、いくつかの島々がカルデラ縁の一部として認められるものです。6,300年前の爆発で噴出した軽石や火山灰は、九州・南西諸島・四国から本州のほぼ全域で見出されるので、火山活動や考古学編年などの主要な鍵層(指標層)の役割を果たしています。】

6,000年前の出来事の推論なので、具体的な証拠はほとんどなく、私個人的には与那国の海底遺跡存在説には否定的なのだが、一応辻褄があっていてなかなか面白い話だと思う。

国土地理院の1/25,000の地形図でみると、佐田岬半島には「○○碆」という地名が、21箇所ある。もしかしたら、この半島にも6,000年前に、南方から渡来した「はえ族」が住みついたのかも知れないと思うと、なんだか楽しくなる。  


大碆と庄司太郎碆(前編)

2007-11-10 11:06:40 | 風景

9月に本ブログで紹介した梶谷鼻の沖合に、“大碆(オオバヤ)”という大きな岩礁がある。もちろん、我が地区の人は誰でも知っている場所である。そして、国土地理院の1/25,000地形図にもちゃんと載っている。

」とは海水や樹木によって見え隠れする岩のことだそうで、「ハエ、バエ、ハヤ、バヤ」などと読まれる。まさに、漢字そのものがその「ありよう」を表している。 

この大碆は、海水面から10m近い高さがあるようで、満潮時でもほとんどの部分が顔を出している。私は、子供の頃一度だけ舟でこの大碆に連れて行ってもらったことがある。岩礁の一部に大きく割れた箇所があり、そこへ大きな音を立てて波が入り込んでくる様は、子供心に怖いくらいの迫力を感じた記憶がある。今でもしばしば、この大碆に上がっている釣り人を見かけることがある。だから、人の大きさと比べてその広さが遠目でも実感できる。

聞くところによると、ここには大きなカメノテが生息しているらしい。一度採りに行ってみたい。カメノテは、一般に3~4cmの大きさで、正に亀の手(足)に似た形をしており、岩の割れ目に固着群生しているため、道具がないと採れない。初めて見る人は、この形をグロテスクに感じるかもしれないが、茹でるととても美味しく、ビールのつまみなどに最高である。太田和彦さんの『ニッポン居酒屋放浪記・立志篇』に、「松山でカメノテをおびえ喰う」というページがあり、太田さんも初めてみたカメノテにたじろぎ、おそるおそる食べたところ、「や、こりゃうまいな」と書いてある。このカメノテは成長がとても遅いらしく、乱獲は禁物のようだ。ところで、カメノテは貝類と同じ軟体動物かと思っていたが、エビやカニなどと同じ甲殻類・節足動物とのことだ。ふーん、そうだったのか。  

“大碆”という名前はシンプルだけれど、地元では「千畳岩」と呼ばれたりもしていた(「千畳敷」とも言っていたかも知れない)。同じような名前の箇所は、和歌山県白浜の千畳敷、木曽駒ヶ岳の千畳敷など、全国にもたくさんあるのではないかと思われる。

この大碆、本当に千畳の広さがあるのだろうか?広い場所や数が多い場合、誇張してよく「千○○」という言い方をするので、そういった類ではなかろうかと以前は思っていた。ところが、この大碆は、最近手に入った1/5,000地形図でみると、70m×40mの広さがある。畳1畳は、江戸間だ、本間だ、京間だと様々あるようだが、ちなみに、我が家の畳を基準に(1畳=1.9×0.95m)この大碆の広さを計算すると、1,550畳になる。団地サイズ(1.7×0.85m)だとほぼ2,000畳だ。すごい!本当に千畳あったのだ。 

普通は、子供の頃の記憶の方が大きかったり、あるいは広かったりするものだが、なぜかこの大碆は、子供の頃見た記憶より、今のほうが広く・大きく感じる。そして、堂々としている。まさか、この数十年で隆起して広くなったわけでもあるまいし・・・。  

    ≪つづく≫


僕のTシャツ(6:キリマンジャロ後編)

2007-11-08 13:08:39 | 旅行

ひたすらじっと眠ったおかげで、夜のうちにかなり汗をかき、登山開始2日目の朝目覚めると、呼吸も楽になっており、なんとか回復の兆しが見えてきた。それでも、お腹はまだグリグリいっており調子が悪く軟便だった。朝食は出されたものは全部食べることができ、昨夜のしんどさに比べると格段の差だと感じた。そして2日目も天気は良く、“ポレポレ”と出発する。歩き始めてしばらくすると、やがて樹林帯を抜け急に視界がひろがり、目指すキリマンジャロの頂上付近も見えてきた。

私は、登山経験豊富なツアー・リーダーのアドバイスを忠実に守り、できるだけ体力を消耗しないように努め、ゆっくりゆっくりマイペースで足を進めた。写真を撮るのも体力を消耗するから、できるだけ写真は下山の時に撮りなさい、という忠告も守った。そして、2日目の宿泊地ホロンボハット(3,720m)に到着した。昨日に比べると、疲労感はなく、風邪もほとんど良くなった。また、頭痛も吐き気もなく、高山病の兆候はない。ただし、お腹は相変わらず冷たく、まだグリグリいっている。そのため、ちょくちょくトイレに駆け込む。山小屋だというのに、トイレは水洗だった。ところがこのトイレ、間欠的に水が“ゴボゴボ”っと、下から湧いてくるという仕掛けのもので、下手をするとパンツ・ズボンが濡れてしまう。「来るぞ、来るぞ」という感じで水の音が大きくなり始めるので、そのタイミングを見計らって、少し腰を上げると何とか水難を防ぐことができる。 

ホロンボハットでは高度順応のため、2日間滞在し、近くのマウェンジ峰方面、標高4,300m付近までトレッキングをしたりして身体を慣らす。聞けば、このプラス1日の滞在が、高山病対策にかなり有効だとのことである。トレッキングの後は、ロッジ周辺でのんびり過ごす。欧米人らしきお兄さんたちは、ビールを平気でラッパ飲みしている。私もビールは好きなのだが、この登山開始から、アルコールは摂らないようにした。身体に負担がかかるといけないと思ったからだ。ツアー・リーダーは、走ってはいけない、走ると息切れして、それが後でダメージになるから、というのでこれも忠実に守った。

そして、4日目登山再開だ。砂礫帯をゆっくりゆっくり登っていく。乾燥しているため、土ぼこりがすごく、靴は白っぽくなってきた。時々強い風が吹く。こうして、最後の山小屋キボハット(4,703m)に到着する。これまでの自己最高点到達だが、幸い頭痛も吐き気もなく、安心した。 

小屋のベッドは2段で、少し体調を落としているメンバーを下段にするということで、私は上段が割り当てられた。一人分のスペースがきちんと確保できるので、日本の山小屋のギュウギュウ雑魚寝状態より、格段にましである。しかし、この高度だとベッド上段への上り下りがかなり億劫に感じる。ゆっくりゆっくり身体を動かす。さらに、トイレは小屋の外にあるので、これまた、ゆっくりゆっくり歩かないとすぐに息切れしそうになる。お腹の調子がまだ本調子ではないので、回数も他の方より多くなる。さすがにもう、高所障害が出ているのだと感じた。そして、グループのうち二人の体調が悪化してきたようで、リーダーが彼らをガモウバッグに入れたりして、対処していた。ガモウバッグというのは、寝袋より大きめの円筒状の袋で、人力でポンプを踏み、袋の中の酸素分圧をあげて、平地に近い状態にする装置で、高所障害の一時的な改善を図るものである。しかし、改善が見られないようで、この後二人は今朝出発した山小屋まで下りることになった。夕方から、霰のような雪がちらちら舞い始めた。赤道直下とはいえ、やはり高度が上がると気温もぐんと下がってきた。いよいよ明日は頂上だ。 

 

4時間程度仮眠したあと、お茶とビスケットで軽く腹ごしらえをして、登山5日目夜中1時に山小屋を出発して、暗い中ヘッドランプの明かりを頼りに頂上を目指した。山は昼間だと天候が安定しないし、暑くなるので、夜中に登頂を目指すのだという。歩き始めてしばらくすると、しだいに急な坂になり、火山礫や砂のガレ地のジグザグ道になってきた。寒くて、鼻水が出る。そのため、鼻だけでは呼吸ができなくなり、喉がカラカラになる。水分が欲しい!しんどい。標高5,000m付近を過ぎた頃から、さらにしんどくなり、呼吸が速くなり、時々「キーン」というような感じで頭が鳴る。10mほど進んでは立ち止まり、肩で息をするという感じになって、ますます呼吸が苦しい。それでも吐き気はなかった。しだいに頂上が近づいてくると、先に上った人たちの中には、身体を抱きかかえられながら、フラフラ状態で下りてくる人もいる。そんな光景をみて緊張しながら、自分はなんとか持ちそうだとゆっくりゆっくり頂上を目指す。

しだいに岩場の陰に雪が多くなってきていよいよ頂上が近いことを実感し、ついに明け方、火口ふちの頂上ギルマンズポイント(5,682m)まで登りきることができた。 歩く速度の速い人たちは、もう既に最高点ウフルピーク(5,896m)を目指していた。富士山でいえば、神社のある所と真の最高点剣が峰といったところだろうか。私は、ちょっぴり残念ではあったが、頂上付近の氷河も見ることができたし(この氷河、一説には2020年までには完全に消失するという話もある)、時間的にも体力的にもほとんど余力はなく、ギルマンズポイントまで登れたことで大満足だった。グループの方たちに迷惑をかけないように、登れるところまで行ければいいや、とずっと思っていたから。

ところで、私は以前からエベレストなどに登頂した登山家は、なぜすぐに下山するのだろう。もっと頂上にいて、風景を楽しんだり、達成感に浸ったりすればいいのに、もったいないなあ、と思っていた。ところが、自分で高所に来てわかった。寒いのだ。短時間で下りないと、どんどん体力が消耗しそうだった。 

同じ標高でも、上りと下りではしんどさが全然違った。頂上から下りて、再び今朝の出発地点まで戻った時そう感じた。こうして、下山時はホロンボハットに1泊して、翌日アルーシャの町まで下りた。そしてさらに翌日、晴れやかな気持ちでンゴロンゴロ国立公園でのサファリを楽しんだ。

今回のTシャツは、登頂を記念して買ったもので、裏には「Gilmans Point(5685 meters)」とプリントされている(なぜかガイドブックなどと3mの差がある)。材質もデザインも安っぽいけれど、私にとって思い出深いTシャツです。

 

 ≪蛇足≫本日のブログが100回記念となりました。 ご訪問ありがとうございます。


赤胴鈴之助

2007-11-07 13:03:31 | その他

エイ」「ヤーッ」「ターッ

うーぬ ちょこざいな小僧め 名を 名を名乗れ

赤胴 鈴之助だあ!

で始まるラジオドラマ。家にまだテレビがなかった子供のころ、夢中でラジオに聴き入った記憶がある。その漫画「赤胴鈴之助」の復刻本が最近発売されたとのことだ。

「少年画報」に連載されたこの漫画は、当時私たち子供に大人気だった。チャンバラごっこをする時に、「真空斬り」など真似をしたものだ。手を開いて「真空斬り」の所作をするけれど、そんなことで人が斬れたりするわけもなく、あの頃「真空斬り」を仕掛けられた相手は、どうなっていたのだろう。ライバル竜巻雷之進の「稲妻斬り」で返していたのだろうか。 

ところでこの漫画、私は武内つなよしさんの作品だと思っていたが、最初は福井英一さんという方が発表したとのことで、その福井さんが第1回作品を発表した直後に亡くなり、その後武内さんが連載を続けたとのことである。ふーん、そうだったのか、どうりで知らなかったはずだ。

ラジオドラマでは、千葉周作の娘「さゆり」役で吉永小百合さんが出演していた。映画では、「竜巻雷之進」の役を林 成年(はやし・なるとし)さんがやっていたし、中村玉緒さんも出演していたように記憶している。林さんは、あの故長谷川一夫さんのご子息だ。でも、「赤胴鈴之助」の役をやっていた俳優の記憶がほとんどない(梅若正二さん)。映画版は夢中になれず、少しがっかりしたような気がする。おそらく、ラジオを聴いて自分なりに作った赤胴鈴之助のイメージに合わなかったからではないだろうか。

「ちょこざいな」とか「こしゃくな」なんて、もう死語なのだろうなあ・・・。私はこれらの言葉は結構好きで、今でも時々使っているが、きっとこのセリフは、悪役が使っていたのだろう。漫画本の復刻もいいけれど、個人的にはあのラジオドラマをもう一度聴いてみたいと思う。  

♪剣をとっては 日本一に 夢は大きな 少年剣士

 親はいないが 元気な笑顔 弱い人には 味方する

 おう! がんばれ 頼むぞ 僕らの仲間 赤胴鈴之助♪

最近の歌の歌詞はちっとも覚えられないけれど、このテーマソングは今でも歌える。


政党政治って何?

2007-11-05 13:02:04 | 政治・社会

昨日、民主党の小沢一郎代表が突然辞任表明を行った。2日に福田首相から連立を打診されたが、民主党の役員会で拒否されたことが原因のようで、「政治的混乱が生じた。党役員から不信任を受けたに等しく、けじめをつける」との理由だ。

連立を申し出たのは小沢氏の方だ、とも言われているが、密室で会談すれば、憶測も飛び交うだろう。どちらが持ちかけたのか知らないが、予定していた党首討論を延期してまで密室会談をする必要性は何なのだろう。小沢氏は、党首会談の場で、なぜ連立拒否を即座に伝えなかったのだろうか。彼は、今連立を組めば民主党の意のままにできると考えたのだろうか。有権者は、先の参議院選挙で自民党との連立を期待して、民主党に投票したのではないだろう。小沢氏は、この選挙で政権交代を使命に掲げていたではないか。国民の多くも、二大政党制時代がもうすぐ訪れる気配を感じていたのではないだろうか。小沢氏の変わりようは何なのだろう。新進党時代から同じようなことを繰り返している。自民党を離党し、その後連立を組み、また離れ、民主党に合流し、そして再び連立を組もうとする。私には理解しがたい。小沢氏は、何を目論んで民主党に合流したのだろうか。まさか、民主党を引っ掻き回すために入ったわけではあるまい。「ねじれ国会」などと言われているが、民主党も大いにねじれている。

 1955年、結成・解体を繰り返していた政党のうち、自由党と民主党が連合して「自由民主党」が結成された。そういえば、小沢氏が民主党に合同するまで、自由党があった。今の「民主党」は頭に「自由」が付かない。自由民主党より自由がない政党ということなのだろうか。もし、自公民連立になると、議会のチェック機能が働かなくなるだろう。これでは、戦前の「大政翼賛会」と同じではないか。一党独裁の中国政治とあまり変わらなくなるではないか。こんなことがまかり通るなら、国会なんて必要なくなる。政党政治って何だろう?

小沢氏は、自分自身の軽率な行為が原因で、混乱を招いたと思われるのだが、昨日の辞任会見では、残念ながら反省の弁がなかった。それどころか、「民主党は力量不足」などと言ってしまってはまずいだろう。

安倍前首相といい、小沢代表といい、なぜ二大政党の党首が、こんな無責任とも受け取れる「放り投げ」を簡単にやるのだろうか。安倍前首相の辞任即入院の本当の理由は、父からの莫大な遺産相続の脱税疑惑ではないかとささやかれているが、小沢代表も何かやましいことがあるのだろうか。この先、病院に駆け込まなければ良いが。