かんじゃまのつぶやき(海の見えるチベットより)

日本一細長い四国佐田岬半島での慣れない田舎暮らしの日常や風景、
  そして感じたこと、思い出などをひとコマひとコマ

伊能忠敬の足音(後篇)

2012-06-16 10:24:23 | 田舎の歴史
DVDを買おうか買うまいか、私の躊躇はつづきながら、県外の図書館に勤めている親戚に連絡してみた。
そして、先日封書が届いた。

残念ながら、DVDは図書館に所蔵していないが、佐久間達夫氏が清書本測量日記の全文を校定収録した本(昭和63年発行)は所蔵しているということで、私が見たい箇所のコピーを送ってくれた。
ありがたや ありがたや 
で、最も興味ある箇所を読んでみた。

「同十三日 朝曇晴。七ツ半前後三崎浦枝大久浦出立。乗船後手我等、下川辺、青木、稲生、佐助、三崎浦名取浦字屋敷浦より初、名取浦(人家山上にあり。海辺に人家なし)下を歴て三崎浦枝井野浦字長浜迄測、先手へ合測、・・(後略)」
記述は極めて短いが、
文化5年(1808)7月13日(旧暦)に名取の海岸沿いを船で移動しながら、伊能忠敬自身が測量していった様子がうかがえる。
七ツ半(午前5時頃)に、下川辺他3名と共に大久を船で出発し、名取の屋敷浦(=屋敷浜の間違いであろう。現在地元で“ウマノセ”と呼んでいるあたり)から測量を開始し、海岸沿いを西へ進み、井野浦の長浜まで測量している(長浜からは別の班が測量)。
約8キロの距離である。

切り立った岩場の多い海岸沿い、特に梶谷鼻などの難所をどうやって測量していったのだろうとの興味があったが、その記述がないのは残念だった。
とはいえ、「人家山上にあり。海辺に人家なし」という書き込みがいかにもリアルで、その光景は今も変わらない。


【伊能大図(赤文字地名は当方加筆)】

基本的に測量は2班に分かれて行ったようで、伊能忠敬とは別の班はこの日、井野浦の長浜から測量を始めて、井野浦、大佐田~三崎本浦までを担当している。
で、この別の班は、前日に川之浜~大久~名取浦の屋敷浜まで測量している。


【大久地区と屋敷浜(左下).今や半島の尾根には風車が林立する】

驚くのは、こういう具合に2手に分かれて効率よく測量していることだ。
日記には、彼らの宿舎に、ちょくちょく地元近傍の庄屋が訪ねてきている記述があるので、おそらく彼らから情報を得て、綿密な測量計画を練りながら行動して行ったのであろう。

ところで、7月13日と言えばお盆である(私が小さい頃まではこの地は旧暦でお盆をやっていた)。
13日から盆踊りが行われていたと思われるが、それは夜である。
でも昼間、新仏を弔う“もうりょう”行事が行われていたのではなかろうか。
忠敬一行は、“もうりょう”の鐘や太鼓の音を耳にしなかったのだろうか?
それとも、200年前はまだそのような行事はなかったということだろうか?
日記の後半に、「後手は八ツ頃に三崎本浦着」とあるから、午後2時頃には三崎に到着したようで、“もうりょう”が始まる前にこの日の測量を終えているようだ。


【「人家山上にあり。海辺に人家なし」 忠敬一行はこういう光景を眺めたのだろうか】


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伊能忠敬の足音(前篇)

2012-06-15 11:53:07 | 田舎の歴史
55歳になってからの大事業である。
寛政12年(1800)閏4月、伊能忠敬が江戸・深川から奥州街道と蝦夷地へ向け測量の旅に出発した。
これが日本全土測量の始まりであり、この後17年間かけて日本全土を測量することになる。
なんというバイタリティー・好奇心だろうか。

こうして、8年後の文化5年(1808)第6次測量では、淡路島を経て徳島県に入り四国の測量を行っている。
四国に上陸してからは、東側沿岸を南下し、高知、愛媛と至り、7月8日から21日(旧暦)にかけて佐田岬半島の測量を行っている。
この地・佐田岬を測量するときの彼らの見たものは、経験したことは何だったのだろうか?
“その時何が”的な 200年前の偉人の経験に興味がわく。

彼は、測量の日々を毎日克明に日記にしたためたそうだ。
測量日記は、測量しながら現場で書いた伊能忠敬先生日記51冊と、のちに清書した伊能忠敬測量日記28冊の2種類の日記があるそうだ。
その測量日記が千葉県香取市の伊能忠敬記念館に保管されているという。
そして、2010年国宝に指定された。
その国宝の清書本測量日記が、イノペディアをつくる会の方々のご尽力によって、昨年9月にDVD化されたことを知った。
約3000頁に及ぶ膨大な日記らしい。
手に入らないものかと思い、ネットを探ったら、定価2万円。
刊行にこぎつけた方々のご苦労、資料的価値からいえば安いものだと思う。
ただ私の場合は、とりあえず佐田岬半島を測量した2週間分が見たい というみみっちい了見である。
しかも、日記は江戸時代のものだから、私に文章が解読できるかどうか、という不安もある。
うーん・・・ 

とりあえず、町の図書館が所蔵しているかどうか検索してみた。
が、見事に空振り。
やはりだめか・・。
≪つづく≫


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石仏・石塔見て歩き(20:五輪塔その4)

2012-02-27 13:30:21 | 田舎の歴史
地区に残る五輪塔で概ねその全容を留めているのは3基あり、
その他には、パーツの残骸が残っているだけというのがいくつかある。
そして、この度新たな場所で残骸らしきものを見つけた。



2つとも丸い形をしており、おそらく五輪塔の「水輪」だと思われる。
左上の苔むしたのは結構大きく、33cm×24cmほどある。
岩石は安山岩のようで、山口県から運ばれたものだろうとみている。
そして、それの右下にある小ぶりなものは、質感がゴツゴツしており、こちらは火山礫凝灰岩のようだ。
こちらは片側(写真下側)がやや直線的になっていることから、五輪塔てっぺんの「空輪」の可能性もある。
ちなみに、大きい方も完全な球体ではなく、上下がやや直線的に切断されており、
片側はこんな風に、中心にかすかな突起(ほぞ)がある。


おそらく五輪塔を組み立てる際、安定性を保つための工夫だと思われる。
2つのパーツの石質が異なることから、本来は別々の五輪塔の一部であったと思われる。
きっとかなり古いものだろうと思う。
(おそらく江戸時代初期ないしそれ以前)

さらに、これらの近くには、こんな残骸もある。


すぐそばに仏像の顔があるが、それとは形が違っており、顔とは思えない。
かなり風化・破損しているものの、小さな突起があることから、
五輪塔てっぺんの宝珠=空輪だろうと思う。

そして、わからないのがこれ。 


石臼の残骸のようにも見えるのだが・・・・・?

なんといっても、自己満足的発見が これ! 


上記の残骸とは別の場所で見つけた。
しかも2基ある。
双方 使われた岩石は同じで全体の風貌も似ているのだが、
各パーツの形状や寸法が少し違っている。
ちなみに右の五輪塔は高さ37cm、左は31.5cmというかわいさである。

なぜこれが自己満足的発見かというと、
両方とも1つの岩石から彫り出された“一石五輪塔”だということだ。
岩質が同じで類似の形状のものは町内で10基ほどしか確認・報告されていないようで、当地のものでも破損して半分だけの残骸は報告されているが、この2基の報告はない。
残念ながら、かなり風化が進んでおり、2基とも上部で割れている。
文字が見当たらないので、いつの時代のものかわからないが、
かなり古いものだと思われる。
江戸時代以前の造形物の可能性がある。
ムフフ


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石仏・石塔見て歩き(19:梶谷の石仏)

2012-01-31 13:58:57 | 田舎の歴史
集落のはずれにこの石仏があることは何度も聞いていたのだが、なかなか出かける機会がなかった。
で、やっと昨日行ってみた。
まだ注連縄が残る。
石垣の祠にきちんとおさめられている。



集落から離れたこんな場所に・・・
先人たちは本当に信仰心が篤かったのだと思う。
昔はここで祭りも行われていたとも聞く。
でも、なぜこの場所にあるのだろうか? どういう神様なのだろうか?



台座には「地蔵ヶ塙」とある。
「塙」とは、「山などの突き出た所。また、土地の小高くなっている所」のようだ。
確かにこの場所は、尾根が海に向かって細く延びて、海に没する当たりの岩場を“梶谷鼻”と称している。
でも、なぜそんな地形の所にお地蔵さんが必要なのだろう?
台座の側面には「嘉永六年」、「名取若連中」と刻まれている。


【失礼して 少しの間よだれかけを外させてもらった】

そして、地蔵は海を向いている。
もしかすると、沖を航行する船の安全を祈っているのかもしれない。
海で漁をする地元民の安全を願っていたのかもしれない。


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利右エ門さまに会う

2011-11-25 13:25:55 | 田舎の歴史


3年前に一度紹介した場所である。
・・・「石仏・石塔見て歩き(9:水神観音)」(2008年6月30日)

ここの石垣を見に、時々よそから訪ねて来られる人がおられる。
整然と積み上げられた美しい石垣である。 
でもこれは見せるためではなく、生活の知恵の一部としての産物であろう。
この石垣の内部は牛小屋だった(と思う)。
そのなごりに、明かりとりの窓もみえる。
そして、傍らは湧水を溜める井戸になっている。
ただし、今はほとんど水が涸れてしまい、ここの水を利用する人はいない。

それでもその上の石垣で造られた祠には水神観音がいまも鎮座する。


右側面に慶応二寅十二月吉日と刻まれてある。
江戸最末期に作られたものだ。
そして、左側面には「地主利右エ門 世話人中地村中」ともある。
当時この場所は、利右エ門さまの所有地だったのだ。

利右エ門さまのご子孫は、私が子供の頃にはここに住んでおられたのだが、
今はこの地区を出て行かれ、この土地も他の方の所有地に代わっている。
その利右エ門さまだが、地区の共同墓地を調査していた時、そのお方の墓石を見つけた。
その場所はもう参る人もなく、ご覧のような藪になっている。


その藪に分け入って、竹や草木を少し切ってみると、かなりたくさんの江戸時代の墓石があった。
その中に「俗名利右エ門」と刻まれた墓石があった。
ただし、同じ名前のものが2つあった。
ひとつは、「天保13」とあり、この墓石は先代のもののようで、
水神観音に刻まれている地主の利右エ門さまは、明治元年に亡くなられたこのお方だろう。


戒名は「伶山善利信士」。
「伶」や「善」から人柄が偲ばれるような・・・。

見ず知らずの先達だが、ちょっとしたつながりを知っただけで何だか親近感が涌いてくる。
享年82才とあるので、当時としては相当長生きをされたようだ。


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お墓調査 その14:墓石よ永遠に

2011-11-13 09:00:00 | 田舎の歴史
自分の興味だけで、調査と称して地区の共同墓地の他人様の墓を勝手に見てきた。
当然それぞれの家の皆さんがご先祖様の供養に参られるわけだけれど、
そんな中、草木に囲まれてそこに墓石があることさえ忘れられているような墓地や、
当地区から出て行かれて墓を改葬され、竿石が撤去、あるいは横倒しにされた墓もある。
長い間草木に覆われて静かでいた墓石などは、うるさい奴がやって来たと 迷惑だったかもしれない。
しかも私に草木を切られ、墓石が露わになってしまった。


【伐採前】


【伐採後】


【伐採前】


【伐採後】

長い間草木に覆われていた墓は、えてして保存状態がよく、刻まれた文字がくっきり残っている。
しかし、私が草木を伐採したことで、今後しばらくはもろに風雨にさらされることになる。
それを思うと、罪なことをしたようにも思える。

そんな迷える自分を、せっかく建っている墓だから、太陽の光を浴び、地元の人の目にも触れた方がいいのではなかろうか、と勝手に正当化してみようかなと思ってはいる。
この墓石もそんなふうに草に埋もれていたものだ。


文字がくっきりしている。
戒名がなく、俗名が刻まれている。
ところで、この俗名は もしかすると・・・
享年が記されていないので確かなことは言えないが、亡くなったのは宝暦7年(1757)とある。
5代将軍徳川綱吉が かの悪法『生類憐みの令』を発令したのは1685年(廃止は1709年)。
ということで、このお方が50~70歳でお亡くなりになったのであれば、『生類憐みの令』の時代に生まれたことになり、そんな時代背景からこの名前が付けられたのかもしれない。

という話はおいとくとして、草木に埋もれていたこれらの墓石は、この先このまま誰もお参りする子孫がいなければ、再び草木に覆われることになるのだろう。
もう一度眠りにつくのか。

そんなふうに、もう誰もお参りすることのない墓地(跡地)から、念願の3名連記の夫婦墓を見つけた。
ひとつめは、改葬され、竿石が横たえられた墓地である。


ところが、意に反してこの墓石は旦那さんの戒名が中央にきており、先妻さん、後妻さんの戒名がその両側にある。
これはどういうことだろう?

そしてもうひとつ、草に埋もれていた墓石でも、


旦那の戒名が真ん中にある。
聞きかじった情報とは違うではないか!
※この関連記事は ⇒ こちら 「お墓調査 その7:もう少し夫婦墓をみる」(2011年8月10日)

そんなことを思いつつも、こんな墓石もあった。


戒名ではなく、俗名での「○○夫婦」とある。
なんだか微笑ましく感じる。

最後にひとつ。


この墓石も草に埋もれていたのを見つけたのだが、その瞬間「?!」となり、
なんだか少し嬉しくなった。
「元氣信男」なのである。
古い墓石では「信男・信女」というのを時々見かけるので、
今で言う「信士」と同じで、れっきとした戒名であろう。
それが「元氣」かぁ・・・。
うーん、シンプルじゃ!
というか、和尚の手抜きとも思える。

墓石には、まだまだ分からないことがたくさんあり、興味は尽きないが、地区の共同墓地を調査して、個人的には多くの発見があり、本当にたくさんのことを学ばせてもらった。
共同墓地で古くからの墓石がこんなにたくさん、しかも整然とある地域というのは、そうそうないのではなかろうか。

墓石よ 永遠に!




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お墓調査 その13:石材流通ルートの変化

2011-10-19 13:58:22 | 田舎の歴史
地区の墓地では、最近の墓石はほとんどが “御影石”と呼ばれる花崗岩が一般に使われている。
花崗岩にもいろいろ種類があるのだが、最も多いのは灰色のものだ。



アップで見るとこんな感じ。


一方、“黒御影”と呼ばれる黒っぽい色をした閃緑岩も見られる。


個人的にはこちらの方が少し高級感があるように見えるのだが、
感じ方は、人それぞれであろう。

さらには、高級石材“庵治石”ではなかろうかと思われるものも見られる。


近年は輸送手段が格段に発達してきたので、最近の墓石は外国産(主に中国産)のものが多いとも聞く。
しかし、それ以前はおそらく瀬戸内海周辺の地域から花崗岩が運ばれてきたものと思われる。

一方、大正前期より古いもので圧倒的に多いのは砂岩である。


こちらの方が、花崗岩に比べて少し柔らかく加工しやすいだろう。
この砂岩がどこからもたらされたのかは分からないのだが、松山近辺から運ばれてきた可能性がある。

そして、これらの岩石とは質感や色調が異なる次のような岩石が時折見られた。


どうやら流紋岩のようである。
地区の共同墓地を見て行ったところ、この種の岩石が使われた墓石は、
明和~文化年間(西暦1764~1818)のものである。
特に、寛政・享和・文化年間のうち20年足らずの短期間に集中して多い。

一方、安山岩あるいは安山岩質凝灰岩で作られた墓石も少ないながら見られた。


この岩石も、ほぼ流紋岩の時期と重なるのだが、流紋岩のピーク時より少し前の明和・安永・天明年間(1764~1789)に見られる。
これらの岩石は、大分県あるいは山口県から運ばれたものと思われる。
流紋岩や安山岩類が使われた期間は短く、
それ以降の墓石にも相変わらず砂岩が多く使われている。

そして、江戸時代後期から少しずつ花崗岩が登場してくる。
とはいえ、江戸時代後期から明治時代にかけてはまだまだこの半島には花崗岩はあまり持ち込まれていなかったようで、この時期の数は少なく、砂岩が主流である。

花崗岩の墓石が主流となるのは大正に入ってからである。
ところが、それ以前の江戸時代のある時期にわずかながらだが、花崗岩が入ってきたことがあるようである。



この花崗岩の特徴は、カリ長石がピンク色をしていることで、


広島県に広く分布する花崗岩によく似ている。
残念なことに、この種の花崗岩は風化に弱いようで、長い間の風雨にさらされて、
墓石に彫られた碑文がことごとく読みづらくなっている。 
これまで見たところ、この岩石の墓石はすべてやや大型の“駒形”タイプ(頭部が将棋の駒のような形状)である。
地区共同墓地の墓石では、この“駒形”タイプが最も古く、
明和年間(1764~1772)以前に限られることから、おそらくそれらと同時期、つまり江戸時代中期のものであろう。

と思っていたら、かすかに文字が読めそうな墓石があった。 


どうやら、「宝永・・・」のように読める。 
今から300年前の墓石である。
この墓地には他に10基ほど江戸時代の墓石が並んでおり、「○○家之墓」という家族墓もある。
その家族墓は昭和40年に建てられたことが記されており、「九代目○○建之(これをたつ)」とある。
すごい!  


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お墓調査 その12:墓石さまざま

2011-09-26 13:51:41 | 田舎の歴史
角柱型を中心にそれのバリエーションを見てきたが、もちろん和型にはそれ以外の墓石もある。
坐像そのもののタイプや




お墓以外でもあちこちで見かける舟形光背にレリーフ状の像を彫った、
いわゆるお地蔵さんタイプもある。




この場合、「○○童子」とか「○○童女」と刻まれている場合がほとんどなので、
幼くして亡くなった子供を供養しているようだ。

そして、お地蔵さん(石仏像)と額入りの牌型を合体したようなタイプもある(枠付き浮き彫り型)。





このほか、変わった形状の仏石がこれ。 


これは「無縫塔」(卵塔とも)というそうで、僧侶の墓石として使われることが多いそうだ。
確かに戒名の最後に「庵主」とある。
地区の共同墓地にはこのタイプが2基あった。

そして、唯一存在したクリスチャンの墓石(に間違いなかろう)。


とはいえ、この家の墓地ではそのほかの墓石はすべて仏教系である。
同じ敷地に同居しているのが不思議な感じがした。

そして、自然石をそのまま使ったものがある。


銘文など何も見当たらないが、他の墓石同様にきちんと並べられているので、これも供養のためのものであろう。

そして、



立派な“青石”を使い、彫られた文字も堂々としている。
みごと! 


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お墓調査 その11:頭にかぶりもの

2011-09-09 12:02:44 | 田舎の歴史
板碑型から角柱型への変遷、そして角柱型の様々な頭頂部を見てきたが、
角柱型のオプション形というか、豪華版として 竿石の上に笠が乗っかっているものがある。


   【天保10】

   【文政13】
これらは江戸時代の墓石である。
なんだか頭が重そうであるが、位牌にもっとも近い形かもしれない。
これは「笠付角柱型」とか「大名型」とか呼ばれているようで、
位の高いお方の墓なのであろう。

このタイプは、明治の初期に多かったが、最近また人気が出ているらしい。
とはいうものの、地区の共同墓地の最近の墓石では見られない。
前回示した「香箱加工」の中央部に小さなとんがりがあるタイプは、この笠付タイプの簡略形なのかもしれない。

そして、さらに豪華なのがこれだ! 

   【天保5】



「五輪塔型」というようで、上の3パーツは五輪塔のそれと同じである。
これもおそらくそれなりの家柄のものだろうと思われる。

このタイプの最も立派なのがこれ。


何が立派かというと、先に示した五輪塔型は砂岩でできているのに対し、
これも江戸時代後期の墓石ではあるが、てっぺんから台座まですべて花崗岩でできている。
そして堂々とした風格がある。
これは共同墓地ではなく、個人所有の墓地にある。
どうやら、江戸時代から続く「組頭」の墓地のようで、
江戸時代において、苗字を許された(公に名乗れる)地位にいた方の夫婦墓である。


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お墓調査 その10:竿石頭頂部のバリエーション

2011-08-29 14:22:56 | 田舎の歴史
江戸時代後期から明治時代中期にかけては、頭頂部がかまぼこ型に丸みを帯びた角柱型が圧倒的に多い。
前回は、それ以前の駒形板碑型を紹介した。
ではそれ以降、つまり明治中期以降、竿石の頭頂部はどうなっていったのだろう。
これが、大幅なモデルチェンジを見せ、かまぼこの名残など全く感じられない。


頭頂部四隅が緩やかに反り上がり、中央部がこんもり盛り上がったタイプ(「香箱加工」というのだろうか?)が主流になる。
この形状のものは、明治中頃から大正前半にかけて多くみられる。

そして、大正時代の角柱では、頂部が平坦なものも時々見られる(「一文字型」というのか)。


なお、中央部がこんもり盛り上がっているけれど、四辺がフラットで四隅にとんがりのないものもある。


このタイプは数例しかみていない。
しかし、先日宮城県釜石市のある地区で、津波で流された墓石を集めてお盆供養をしている様子がニュースで流れたおり、
その地区では、頭頂部がこのタイプの墓石が大多数だったようにみえた。

それはそれとして、さらにこれらに似たタイプには、中央がとんがっているタイプがある。




このタイプの数は少なく、文化から嘉永年間(1804~1854年)の墓石にみられた。
ということは、これが進化形ではなく、先駆的だったのだろうか?
文化~嘉永年間といえば、前回示した「かまぼこ型」が主流になってくる時代であり、
これはどういうことであろうか?
当時としては、斬新的なデザインだったのではなかろうか?
同時代に全く異なるデザインの墓石があるということは、
特別な方のお墓の可能性がある。

大正後半以降は、下の写真のように、四辺が丸みをおびて中央部はフラットというお馴染みの形状(四方丸面)が多数を占める。


なお、このタイプは江戸時代末期から大正前半にかけても少数ながらみられる。
似たタイプとして、左右2辺だけが丸みをおびたタイプ(隅丸型)がわずかにあった。


なお最近では(昭和50年以降)、四隅がとんがった以下のタイプが再び増えているようだ。


この場合には、ほぼ決まって正面は額縁加工が施されている。

この四隅とんがりタイプが、より強調され・より幾何学的になった立体がこれだろうか。


これは、軍人さんの墓に見られる形で、「トキン・神道型」と呼ばれるようで、
一般の角柱よりも長く、頭部にいくにしたがい細くなっているものが多い。
天を突くような尖った四角錐は、何かを示唆しているように思える。