かんじゃまのつぶやき(海の見えるチベットより)

日本一細長い四国佐田岬半島での慣れない田舎暮らしの日常や風景、
  そして感じたこと、思い出などをひとコマひとコマ

今年の休肝日

2011-08-31 11:50:48 | 田舎の生活
室伏選手が金メダルを決めた頃、
私は大いに物足りない夕食を終え、TVに向かいなんとも言えない時間を送っていた。

思えば、1か月前の7月下旬に、6月に受診した健康診査の結果が知らされ、
心配していたメタボ、γGTPの結果はまずまずだったものの、
大腸がん検査で陽性反応が出たことを知らされ、「精密検査を受けて下さい」と言われた。
そういわれれば、思い当たるふしはあった。
あれこれ想像するが、思い浮かぶのは悪い方向のことばかり。

打たれ弱い、プレッシャーに弱い私は びびった。

 その日から、今年の夏が憂鬱になった。
町の病院へ電話したところ、新患は予約ができないので一度来てくださいとのことだった。
そこで、検査結果を携えて町の病院へ行った。
が、予約者が多くて検査日は8月30日となった。
1か月チョイ先だ。
1~2週間後くらいには検査してもらえるだろうと思っていたのだが、甘かった。
その日病院で渡された土産は、
検査前日の食事セットと下剤2種類。


こんなモヤモヤな気持ちでお盆を迎えるのか。
気合が入らなかった。

こうして、やっとXデイ前日を迎えることとなった。


白がゆに梅かつおふりかけ、そして味噌汁。
これが朝食。
旨いはずがない。
それにお腹だって満たされまい。

そして、昼食。

今度もおかゆだが、こちらは紅鮭入り。
それと松茸風味のお吸い物。
うーん、おかゆの味は朝のよりはましだ。

まあ、昼食まではそれほどきつくはなかった。
そして、粉末ジュース(飲んだのは何十年ぶりだろう?)とクッキー2片を間食に。

その後しだいに空腹がきつくなってきた。
力が入らん。 
いつもならこの後は、豪華ビール定食に泡盛のデザートという夕食が待っているのに、
今夜はそれがかなわない。
そのことを考えただけで折れそうになる。 


夕食は、ポタージュスープのみ。

そそくさと食べ終え、
空腹は、奥さんのアドバイスを受けて、買っておいたコーラで紛らわす。

その後、1回目の下剤投入。


その頃だったろうか、室伏選手が金メダルを決めたのは・・。
やがて、投入後1時間ほどで最初の“お導き”がやってきた。
らしくないあれが出てきた。
そりゃそうだわな、朝からろくなもの食ってねえし、下剤で強制排出だし。
そして、1回目の下剤投入後2時間してから2回目の投入。
今度は小さな錠剤2個。

2回目の“お導き”の後は、どうやら一応落ち着いてきたようだったので、
久々に一滴のアルコールも入っていない体を横たえることにした。
   ≪つづく≫

お墓調査 その10:竿石頭頂部のバリエーション

2011-08-29 14:22:56 | 田舎の歴史
江戸時代後期から明治時代中期にかけては、頭頂部がかまぼこ型に丸みを帯びた角柱型が圧倒的に多い。
前回は、それ以前の駒形板碑型を紹介した。
ではそれ以降、つまり明治中期以降、竿石の頭頂部はどうなっていったのだろう。
これが、大幅なモデルチェンジを見せ、かまぼこの名残など全く感じられない。


頭頂部四隅が緩やかに反り上がり、中央部がこんもり盛り上がったタイプ(「香箱加工」というのだろうか?)が主流になる。
この形状のものは、明治中頃から大正前半にかけて多くみられる。

そして、大正時代の角柱では、頂部が平坦なものも時々見られる(「一文字型」というのか)。


なお、中央部がこんもり盛り上がっているけれど、四辺がフラットで四隅にとんがりのないものもある。


このタイプは数例しかみていない。
しかし、先日宮城県釜石市のある地区で、津波で流された墓石を集めてお盆供養をしている様子がニュースで流れたおり、
その地区では、頭頂部がこのタイプの墓石が大多数だったようにみえた。

それはそれとして、さらにこれらに似たタイプには、中央がとんがっているタイプがある。




このタイプの数は少なく、文化から嘉永年間(1804~1854年)の墓石にみられた。
ということは、これが進化形ではなく、先駆的だったのだろうか?
文化~嘉永年間といえば、前回示した「かまぼこ型」が主流になってくる時代であり、
これはどういうことであろうか?
当時としては、斬新的なデザインだったのではなかろうか?
同時代に全く異なるデザインの墓石があるということは、
特別な方のお墓の可能性がある。

大正後半以降は、下の写真のように、四辺が丸みをおびて中央部はフラットというお馴染みの形状(四方丸面)が多数を占める。


なお、このタイプは江戸時代末期から大正前半にかけても少数ながらみられる。
似たタイプとして、左右2辺だけが丸みをおびたタイプ(隅丸型)がわずかにあった。


なお最近では(昭和50年以降)、四隅がとんがった以下のタイプが再び増えているようだ。


この場合には、ほぼ決まって正面は額縁加工が施されている。

この四隅とんがりタイプが、より強調され・より幾何学的になった立体がこれだろうか。


これは、軍人さんの墓に見られる形で、「トキン・神道型」と呼ばれるようで、
一般の角柱よりも長く、頭部にいくにしたがい細くなっているものが多い。
天を突くような尖った四角錐は、何かを示唆しているように思える。 

8月27日

2011-08-27 14:49:24 | 田舎の生活
台風の行方が気になるところですが、
今日は、夏が ぶり返しています。 



暑いなぁ~ 

『開運!なんでも鑑定団』が別番組に組み替えられました。
ちとさみしいなあ。 


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お墓調査 その9:角柱の前は板碑

2011-08-25 14:40:01 | 田舎の歴史
前回、江戸後期から明治中期にかけては、


上の写真のように、角柱型の竿石で頭頂部がかまぼこ型に丸みを帯びたタイプが標準形だろうと紹介したが、
では、それ以前はどうだろうか。





こんな風にこれ以降のものに比べて奥行がもっと薄く、てっぺんがかまぼこ型ではなく、三角形(将棋の駒のような形)が多いようだ(以下「駒形」称す)。
地区の共同墓地では、このタイプの墓石が最も古く、元禄~宝暦年間(1688~1764)のものである。
こんな風に板状に薄いので、「角柱」というより「板碑」といった方がよいのかもしれない。
なお、このタイプでは近代のように側面に文字を彫り込むことはなく、
戒名、俗名、没年・享年などの碑文すべてが正面だけに彫り込まれている。

そして、偶然見つけたのがこれ。


これの頭頂部はややぎこちなく、かまぼこ型と駒形の中間のように見える。
この墓石の年代は、宝暦11年(1761年)である。
また、下の写真は“宝暦”のひとつ前の年号“寛延3年”のものだが、これもかまぼこ型と駒形の中間のように思える。


   【寛延3】
碑文はすべて正面に彫り込まれている。

しかし、宝暦12年でもまだ駒形の墓石もある。


しかもこの墓石は、このタイプにしては珍しく側面に没年が刻まれている。

ということで、どうやら寛延から宝暦の年代にかけて、駒形板碑からかまぼこ型角柱に変化していったようである。
そして、それまで正面にのみ文字が彫り込まれていたものが、かまぼこ型以降、側面にも文字が彫り込まれるようになっていくようである。
この時期、世の中、あるいは宗教界で何か変革があったのだろうか・・・。
 
それはそれとして、
さらに時代を遡ると、もっと薄い板碑型があるそうで、
鎌倉時代(特に武将)に多く造られたそうだ。
残念ながら、当地区の共同墓地ではそのようなに古い墓石は見られない。


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松山-那覇便復活

2011-08-24 13:50:01 | その他


わーい! わーい!  

このニュースを昨夜知った時、歓喜がはしった。
この航空路線は、これまで日本航空が運航していたのだが、
昨年10月30日に廃止となっていたものだ。

せめて、季節運航でもいいから・・・、
との願いがかなった。

新聞によると、昨年度の平均乗客率は68.5%だと。
これなら やっていけると思うのだが、日本航空め。 

それが1年のブランクを経て ふっ~か~つ
素早い対応、ありがとう 全日空さん。
貴方しかいないと願っていたんですよ。

10月30日から3月24日までの季節運航だけれど、それでもいいですよ。
松山発の時間、松山着の時間もいい時間帯です。
う~んと乗客率が伸びる、あるいは平均搭乗率70%前後を維持できれば、通年運航も夢じゃない。

愛媛のみなさ~ん!

沖縄へ行こう!

この話の前段は  こちら「沖縄が遠くなる」(2010年4月29日)

へくそかずら

2011-08-23 14:18:27 | 草花・樹木


いやはや なんともな
やけくそでつけられたような名前だ。 
確かにいい匂いではないけれど、そこまで言わなくても・・、
と可哀そうになってくる。



別名“ヤイトバナ”、“サオトメバナ”とあるにもかかわらず。 


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暑さも和らぎ

2011-08-21 14:40:40 | 田舎の生活
昨日少し、そして今日は午前中ずっと の久しぶりの雨。
おかげで涼しくなり、すっかり秋モードになった。



庭の石畳の間に自生したコリウス。
傍らに昇天したセミ。
植物は強し。


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お墓調査 その8:額縁加工

2011-08-19 14:10:28 | 田舎の歴史
近代の「角柱型」墓石では、下の写真のように竿石表面が平面のものが多い。



これが最も見慣れたスタイルであるが、
正面に額縁加工(位牌に擬した形の額縁の輪郭)を施したものも時々見られる。



この方が手間がかかるだろうし、風格があるように思える。

ところが、明治・江戸後期の墓石をみると、額縁加工タイプが圧倒的に多い。





この写真はそれぞれ明治後期と明治末期の墓石である。

これがもう少し時代を遡って、明治初期あるいは江戸時代では、

こんな風に、左右の幅に比べ奥行(前後の厚み)がやや薄い(水平断面が長方形)のが多い。
そして、竿石頭頂部が現代のものと大きく異なり、かまぼこ型に丸みを帯びたもの(「丸兜」というのだろうか?)が圧倒的に多い。

もう少し時代を遡ると、頭頂部は同じであるが、奥行きがさらに薄いものが多い。



     
なぜこういう形状変化が起こったのかはわからない。



このように、江戸後期から明治中期にかけては、正面の戒名部分は額縁加工・頭頂部はかまぼこ型、というのが標準形のようである。


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過ぎ行くお盆に物思い

2011-08-17 14:52:26 | 田舎の生活
お盆が過ぎて行った。

子供の頃、自分なりに“死”ということを理解しようとしたことがある。
たかだか10歳前後のガキんちょが、どう理解しようとしたのか。

例えば友達同士でゲームをしているとする。
人数が多いので、ビリになった人は次のゲームで「1回休み」というルールにする。
そんなある日、“死”とは、この1回休みが永遠に続くことなのだろうと、子供心に理解しようとした。
ゲームでの1回休みであれば、休んでいる間も他の友達がゲームをしている成り行きを眺めていられるし、次には自分も参加できる。
ところが、“死”はその「次に出場できるチャンス」がなくなることだ。
それよりもっと怖いのは、「他の友達がゲームをしている成り行きも観戦できない」ことなのだろうと・・・。
眼も見えず、意識もなくなる。そういう事態が理解できなかった。
そのうち、暗くて、とてつもなく広い宇宙みたいな中に意識のない塵のような自分を想像したようにも思う。
暗闇の中でそれを子供心に思い至った時、身体全体がそれまで感じたことのない何か寒いものに襲われるのを感じた。

それ以来、そのことを想像するたびに結果は同じだった。
やがて、できるだけそのことを考えないようにしてきたように思う。
“死”を理解するのは難しい、いや無理かもしれない・・・と。

今年もたくさんの方々の葬儀・告別式に参列した。
各地で送り火が行われたであろう日に、そんな子供の頃の記憶をふと思い出した。
大人の知恵では、
色即是空 空即是色 ・・ 不生不滅 不垢不浄 であろうし、
千の風になるのかもしれない。
もしかしたら、彷徨っているのは・・、
         定まっていないのは・・・
亡くなった方々の魂ではなく、残された自分たちのような気がする。
そのために“供養”があるように思える。


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ねこじゃらし

2011-08-16 14:50:21 | 草花・樹木


夏から秋にかけて道端や畑のあちこちで見かける光景。 
別名 えのころぐさ
この畑ではこんなにたくさん繁茂しているけれど、
我が家の菜園には1本も生えていない。

これでさすると・・・




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