竹内貴久雄の部屋

文化史家、書籍編集者、盤歴60年のレコードCD収集家・音楽評論家の著作アーカイヴ。ときおり日々の雑感・収集余話を掲載

ドビュッシー:交響詩(交響的素描)『海』の名盤

2010年04月02日 12時17分40秒 | 私の「名曲名盤選」




 2009年5月2日付の当ブログに「名盤選の終焉~」と題して詳しく趣旨を書きましたが、断続的に、1994年11月・洋泉社発行の私の著書『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』第3章「名盤選」から、1曲ずつ掲載しています。原則として、当時の名盤選を読み返してみるという趣旨ですので、手は加えずに、文末に付記を書きます。本日分は「第40回」です。

◎ドビュッシー:「海」
 この曲では緻密で模範的な演奏はいくつもあるが、今ひとつの魅力に欠けるものが多い。その点、マルク・スーストロ/ロワール・フィル盤は、少々粗削りながら、この曲の多面的な音構成を、分析的ではなく〈体温〉の感じられる距離で表現したユニークさが面白い。堂々と臆面もなく鳴り響くドビュッシーだが力みすぎてはいない。この曲の豊かなイメージを実によく表現している。くっきりとした旋律線を鳴らしながらポリフォニックで、かつ、ポリリズム的な、棒のよく振れた演奏だ。堂々と鳴り響かせながら力まずに、フワリとまろやかな音が出せるオケも好ましい。
 ポール・パレー/デトロイト響盤は自然な無理のない音楽の運びに、しばしば即興的なニュアンスに富んだ名人芸的自在さが紛れ込んできて、はっとさせられる。もう、こういう洒落っ気のある演奏ができる指揮者も、それに応えられるオーケストラも見当らなくなった。
 もっと行儀のよい演奏では、バルビローリ/パリ管盤の個性は、説得力がある。弦楽器群を前面に出して、スコアに書込まれた旋律をよく歌わせた演奏。異常に遅いテンポだが、それを支えるパリ管の音は、あくまでも甘くソフト。色彩感に乏しい棒さばきが少々退屈なので、最初に聴く演奏ではないが、この曲の旋律に馴んでから聴くと新たな発見がある。
 一般に模範的な演奏と言えばマルティノン/フランス国立放送管盤だろう。緻密で、しかも響きがよく摘まれ、突出した所のない美しく洗練された演奏だ。しかし、その分だけ音楽がまとまりすぎている。むしろ、ドビュッシーの作曲の発想源である葛飾北斎のデフォルメされた〈版画〉の世界のように、輪郭も鮮やかに大きな身振りで劇性を強調しているブーレーズ/ニュー・フィルハーモニア管こそが本当の模範だと思う。この曲は輪郭の曖昧な水彩画ではないのだ。


《ブログへの掲載にあたっての追記》
 この私自身が15年ほど前に執筆した「名盤選」のブログへの再掲載も、今回で40曲目となりましたが、初めて、全面改稿したくなる原稿に出くわしてしまいました。
 最近、友人から、『牧神の午後』はクリヴィヌが最も納得できる演奏だと言っているドビュッシーマニアがいる、と聞かされて、クリヴィヌ/リヨン管弦楽団のドビュッシーを集中して聴く機会を作りました。実は、『牧神』も、そして前回の曲目『夜想曲』も、「最近の録音では」と但し書きを付けての「すばらしい演奏」だと思ったのですが、今回の『海』では、すっかり考え込んでしまいました。私が15年前にうすうす気づいていたことが、このクリヴィヌ盤で達成されているのかもしれないと思ったのです。
 今思い出すと、当時の私は、おそらく、『海』という音楽が持っている「壮大な交響的性格」は、ドイツ・ロマン派的なものではなく、まったく別の地平へと向かいつつあったのだということを、どうしたら「音」として表現できるかについて、模索していたのです。
 クリヴィヌの演奏から聞こえてくる音の断片から、ずいぶん様々な発見がありました。そのうち、ゆっくりと考え直さなくてはならないテーマが出来ました。それはとりもなおさず、この曲が、西欧の音楽史上の一時期に大書されるべき「革新的な」音楽の代表だということの確認でもありました。
 「名盤選」に本気で取り組むと、たった1曲のために数ヵ月を費やしてしまうものなのですが、(いつも書いているように、そこのところを、お手軽に現行カタログから、世評の高いものを順にチョイスして無難に並べてしまう人もたくさん居ますが)、じっくりと腰を据えて、取り組んでみようかと思いました。こうした思いは久しぶりのことです。今は、例の「大正・昭和初期の日本人の西欧音楽受容史」の研究など、他に私自身のテーマが山積されているので、かなり時間がかかりそうですが、いつか必ず「ご報告」します。