何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

宝命寺(小城観音) (国東)

2015年05月16日 | 寺社巡り-大分

【大分・国東市】奈良時代の養老元年(717)、国東六郷満山の開祖・仁聞菩薩によち開山された、六郷満山末山本寺。 平安時代末期の仁安年間(1166~1169)や鎌倉時代の安貞年間(1227~1229)と弘安年間(1278~1288)の記録には「小城寺」として両子寺や神宮寺と肩を並べる勢いで各種行事を行っていた。
その後、寺号を宝命寺に改称....戦国時代の天正八年(1580)、六郷満山の寺々を襲った大友の兵乱で伽藍を焼失、その後再建されたが、まもなく起こった関ヶ原戦で徳川方の将黒田如水(中津城主)の国東半島侵攻の戦火の犠牲となり、慶長五年(1600)に焼失した。
江戸時代の正保二年(1645)に杵築城主となった松平英親が荒廃した神社仏閣の保護を開始し、慶安元年(1648)、中興開山に奔走した慈眼院盛賢大和尚により再建された。
昭和五十七年(1982)の失火で観音堂と仏像を焼失したが、子安観音だけが難を逃れ「不焼の子安観音」として祀られ、御堂は昭和五十九年、二千数百人の浄財により再建された。 天台宗で本尊は六観世音菩薩像。 <六郷満山霊場第18番札所 (六郷満山末山本寺)>

国東半島案内マップには宝命寺はなく「小城観音」と記されているが、寺院を訪問して小城山宝命寺の奥の院である観音堂が有名で「小城観音」と呼ばれていることを知った。
本堂と境内を拝観後、標高254mの小城山の8合目あたりに建つ観音堂に向かうべく30段ほどの参道の石段を上る....石段上の鳥居の脇に仁王像が鎮座し、こちらを睨みつけながらまるで「たいへんだが、頑張れよ!」と励ましてくれているような魅力ある顔に心が和んだ。
鳥居をくぐって参道を暫く進んだところで、唖然たる面持ちになった。 途中から自然石を累々と積み重ねた険しい急坂の石段が樹林の奥まで続いているのだ。 ふと熊野磨崖仏の石段を思い出したが、小城観音の自然石を乱積みした石段は数百メートルにも及び、あえぎながら登ってやっと観音堂に辿り着いた。 樹林の中にひっそりと建つ観音堂....宝形造りの屋根の流れが美しいお堂だが、何か物足りなさが....。
境内には幾つかの石造物が佇むが、中でも約650年前に造られた国東塔は古を感じさせる姿だ。 また、観音堂近くの参道の途中の覆屋の中に大きな一石五輪塔が鎮座....「古代一宇一石」とあり、印象に残った。

参道から眺めた全景
 
切妻造桟瓦葺の山門(薬医門)..袖塀を設けている

山門から眺めた本堂
 
入母屋造桟瓦葺の本堂..観音堂と同じ昭和五十九年(1984)再建か/質素な造りの向拝

前庭の池と石橋(あまり手入れがなされていないようだ)

本堂左手の庫裡だか無住のようだが..

境内の片隅に佇む2基の庚申塔..右は珍しい笠付型
  
阿弥陀如来の忿怒形といわれる水牛に乗る6面6臂6足の大威徳明王像/供養塔か/石殿(右側には合掌する仏像が鎮座)
 
山中に鎮座する小城観音への参道..石段の上に石造りの台輪鳥居と仁王像と石燈籠が立つ

六所権現社の鳥居に「大権現」の額..鳥居の柱には「天保」の刻(1830~1844年)
  
凛々しい顔の吽阿形仁王像..江戸時代延享元年(1744)造立/鳥居近くに佇む風化が激しい宝篋印塔
 
自然石を累々と積み重ねた険しい参道が数百メートル続く/観音堂近くの参道に立つ石燈籠(新しいようだ)..まだまだ自然石の石段が続く

..「古代一宇一石」とある大きな一石五輪塔..珍しいのではないかな
  
境内への石段下の覆屋の中の石塔の上に鎮座する観音石仏/参道脇の石殿

観音堂(小城観音)..昭和五十九年(1984)再建 (江戸時代天明八年(1788)建立のお堂は昭和五十七年に焼失)
 
露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の観音堂/仁聞菩薩彫刻の6観世音菩薩像を安置
 
境内の崖の岩龕に鎮座する2体の石仏(菩薩像)/右の石仏の台座に「北辰妙見」とあるので妙見菩薩か

鎌倉時代末~南北朝時代作の 国東塔(総高約4m)..歴史を感じさせる姿だ
コメント
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