発芽、180日目。1メートルほどに生長したのは南側に移した3本だけ、東側の10本は30センチほどで生長は止まってしまった。1本だけが花開いて実をつけた。もう1本は花芽が出かけたが、萎えてしまった。もう1本は兆候がなかった。紅葉葵はいますべて葉を落とし茎だけになって直立している。花咲いた株だけが先端に実をつけている。
ケプラーの「遅さ」に着目した展開を確認した後、「速さ」に着目した展開を示そう。
ケプラーは離心円の弧HH´とII´が等しいとして、所要時間hh´とii´の比が、AHとAIの比に等しいことを導く。
山本義隆は次のように整理している。(弧のHTML表示はできないようである。⌒HH´は、弧の記号⌒が文字HH´の上にあるものとして読んでください。)
(引用はじめ)
図で、C(等化点)が白い円の中心、Bが黒い円(離心円)の中心でACの中点であることに注意して、
(引用おわり)
「速さ」に着目した展開を示そう。
ここでは所要時間hh´とii´が等しいとして、離心円の弧HH´とII´の比が、1/ AH と1/ AI の比に等しいことを導く。図は次のようになる。これは「遅さ」の図と比べれば、白線h´H´CをCで屈折させることなく直進させ、等化円と離心円の交点をi´、I´としたものである。
vH:vI= CH : CI
Bは離心円の中心で、ACの中点である(離心距離の二等分)から、
CH =AI 、 CI =AH だから、
ケプラーは「遅さ」に着目して、
1/vH:1/vI= AH : AI
を示した。
ここでは「速さ」に着目して、
vH:vI= 1/ AH : 1/ AI
を示した。
「遅さ」の方が「速さ」より遠まわりしているように思われるが、内容は同じである。
ケプラーの図や説明は「遅さ」を近日点と遠日点で比較している。それは、1/vIと1/vHの比較であって、vIと1/vHの比較ではない。
近日点における「速さ」、ケプラーの書き間違いだったのだろうか。それとも職人の誤植だったのだろうか。celeritatem(celeritas迅速、速さ)とtarditatem(tarditas緩慢、遅さ)。誤植の可能性は低いと思われる。ケプラーの頭のなかで一瞬だけ「速さ」と「遅さ」が重なったのである。
ケプラーは離心円の弧HH´とII´が等しいとして、所要時間hh´とii´の比が、AHとAIの比に等しいことを導く。
山本義隆は次のように整理している。(弧のHTML表示はできないようである。⌒HH´は、弧の記号⌒が文字HH´の上にあるものとして読んでください。)
(引用はじめ)
図で、C(等化点)が白い円の中心、Bが黒い円(離心円)の中心でACの中点であることに注意して、
⌒hh´/⌒HH´= Ch / CH , ⌒ii´/⌒II´= Ci / CI ,他方、等化点Cを中心とする円hh´ii´上の円弧長の比はCを中心とする角度の比であり、したがって所要時間(⊿t)の比になる。ところがこの場合、弧HH´と弧II´の長さが等しいゆえ、所要時間のこの比は「遅さ」の比、つまり「速さ(v)」の逆数の比であり、それが真太陽からの距離に等しい、
⌒HH´=⌒II´ ,Ch = Ci
∴ ⌒hh´: ⌒ii´= CI : CH = AH : AI
1/vH:1/vI=⊿tH:⊿tI=⌒hh´: ⌒ii´= AH : AIすなわち、遠日点と近日点では惑星の速さは太陽からの距離に反比例する。
(引用おわり)
「速さ」に着目した展開を示そう。
ここでは所要時間hh´とii´が等しいとして、離心円の弧HH´とII´の比が、1/ AH と1/ AI の比に等しいことを導く。図は次のようになる。これは「遅さ」の図と比べれば、白線h´H´CをCで屈折させることなく直進させ、等化円と離心円の交点をi´、I´としたものである。
⌒HH´/⌒hh´= CH /Ch , ⌒II´/⌒ii´= CI /Ci ,時間を一定にしている(⌒hh´=⌒ii´)から、左辺は「速さ」の比を表している。右辺は、等化点から惑星までの距離を表している。式は「近日点と遠日点の速さは、等化点から惑星までの距離に比例している」ことを表している。
⌒hh´=⌒ii´ ,Ch =/ Ci
∴ ⌒HH´: ⌒II´= CH : CI
vH:vI= CH : CI
Bは離心円の中心で、ACの中点である(離心距離の二等分)から、
CH =AI 、 CI =AH だから、
vH:vI= CH : CI = AI : AH = 1/ AH : 1/ AIすなわち、遠日点と近日点では惑星の速さは太陽からの距離に反比例する。
ケプラーは「遅さ」に着目して、
1/vH:1/vI= AH : AI
を示した。
ここでは「速さ」に着目して、
vH:vI= 1/ AH : 1/ AI
を示した。
「遅さ」の方が「速さ」より遠まわりしているように思われるが、内容は同じである。
ケプラーの図や説明は「遅さ」を近日点と遠日点で比較している。それは、1/vIと1/vHの比較であって、vIと1/vHの比較ではない。
近日点における「速さ」、ケプラーの書き間違いだったのだろうか。それとも職人の誤植だったのだろうか。celeritatem(celeritas迅速、速さ)とtarditatem(tarditas緩慢、遅さ)。誤植の可能性は低いと思われる。ケプラーの頭のなかで一瞬だけ「速さ」と「遅さ」が重なったのである。
山本義隆は『世界の見方の転換』第12章ヨハネス・ケプラーで、『新天文学』の第32章を引用し注をつけている。
(引用はじめ)
〔惑星の〕近日点における速さと遠日点における遅さは宇宙の中心〔太陽〕から惑星に引いた直線の長さに近似的に比例する。
(引用おわり)
山本の注は近日点における「速さ」と遠日点における「遅さ」に関連するものである。英訳はもとよりラテン語の原文も「近日点における速さ」と記されているので、そのまま直訳したが、この「速さ」は「遅さ」とすべきだろうという指摘である。
ケプラーの「遅さ」は時間÷距離で、「速さ」(距離÷時間)と逆数関係にあるものである。「速さ」では一定時間に対する弧長の長短が問題になるのに対して、「遅さ」では一定の弧長に対する時間の長短が問題になる。ケプラーが第32章で問題にしているのは「遅さ」の方である。
「速さ」を「遅さ」に訂正した「近日点における遅さと遠日点における遅さ」、まとめて「近日点と遠日点における遅さ」は太陽から惑星に引いた直線に「比例」するとしなければならない。近日点では惑星は一定の距離を進むのに「短い」時間で済むのに対して、遠日点ではそれと同じ距離を進むのに「長い」時間がかかる。近日点では太陽から惑星に引いた直線は「短い」、遠日点では太陽から惑星に引いた直線は「長い」。それゆえ、近日点と遠日点における「遅さ」は太陽から惑星に引いた直線の長さに「比例」するのである。
同じことは「速さ」を使って表すことができる。その場合は、近日点と遠日点における「速さ」は太陽から惑星に引いた直線の長さに「反比例」するのである。
いずれの場合も、近日点と遠日点の「遅さ」か「速さ」かのどちらか一方、同じものを比較しなければならない。近日点における「速さ」と遠日点における「遅さ」を比べては、意味をなさないのである。
岸本良彦訳『新天文学』では次のようになっている。
(引用はじめ)
近日点における動きの速さと遠日点における遅さは、宇宙の中心から惑星に引いた線分の長さにほぼ比例することを知るべきである。
(引用おわり)
ここでも「近日点における動きの速さと遠日点における遅さ」が「比例」となっている。この本の訳注はこれまでの研究を踏まえた膨大なものだが、ここには注がついていない。おそらく山本義隆が世界で最初に指摘したのだろう。この個所は『新天文学』でも重要なところだが、17世紀以来、間違った語句(内容)が受け継がれているのである。
(引用はじめ)
〔惑星の〕近日点における速さと遠日点における遅さは宇宙の中心〔太陽〕から惑星に引いた直線の長さに近似的に比例する。
(引用おわり)
山本の注は近日点における「速さ」と遠日点における「遅さ」に関連するものである。英訳はもとよりラテン語の原文も「近日点における速さ」と記されているので、そのまま直訳したが、この「速さ」は「遅さ」とすべきだろうという指摘である。
ケプラーの「遅さ」は時間÷距離で、「速さ」(距離÷時間)と逆数関係にあるものである。「速さ」では一定時間に対する弧長の長短が問題になるのに対して、「遅さ」では一定の弧長に対する時間の長短が問題になる。ケプラーが第32章で問題にしているのは「遅さ」の方である。
「速さ」を「遅さ」に訂正した「近日点における遅さと遠日点における遅さ」、まとめて「近日点と遠日点における遅さ」は太陽から惑星に引いた直線に「比例」するとしなければならない。近日点では惑星は一定の距離を進むのに「短い」時間で済むのに対して、遠日点ではそれと同じ距離を進むのに「長い」時間がかかる。近日点では太陽から惑星に引いた直線は「短い」、遠日点では太陽から惑星に引いた直線は「長い」。それゆえ、近日点と遠日点における「遅さ」は太陽から惑星に引いた直線の長さに「比例」するのである。
同じことは「速さ」を使って表すことができる。その場合は、近日点と遠日点における「速さ」は太陽から惑星に引いた直線の長さに「反比例」するのである。
いずれの場合も、近日点と遠日点の「遅さ」か「速さ」かのどちらか一方、同じものを比較しなければならない。近日点における「速さ」と遠日点における「遅さ」を比べては、意味をなさないのである。
岸本良彦訳『新天文学』では次のようになっている。
(引用はじめ)
近日点における動きの速さと遠日点における遅さは、宇宙の中心から惑星に引いた線分の長さにほぼ比例することを知るべきである。
(引用おわり)
ここでも「近日点における動きの速さと遠日点における遅さ」が「比例」となっている。この本の訳注はこれまでの研究を踏まえた膨大なものだが、ここには注がついていない。おそらく山本義隆が世界で最初に指摘したのだろう。この個所は『新天文学』でも重要なところだが、17世紀以来、間違った語句(内容)が受け継がれているのである。
土曜日は家族3人、バスツアーを利用して、朝熊ヶ岳のハイキングに行ってきた。朝熊ヶ岳は伊勢志摩の最高峰で、伊勢志摩スカイラインが通っている。バスは金剛證寺の駐車場午前10時半頃に着いた。午後3時まで自由行動であった。
金剛證寺参詣に始まり、朝熊山上公苑、奥之院、経塚群、八大龍王社など、案内にあるコースはほとんど歩いた。雨が心配されたが、降られなかった。しかし、風は強かった。山頂からは遠く知多半島や渥美半島が展望できた。やはり絶景である。山頂のさんぽ道にはハンモックがあって、寝そべってみると、これが思いがけず楽しかった。
「お伊勢参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り」と案内にある。わが家は内宮、外宮はすでに参っているので、これでお伊勢参りをしたことになる。
「朝熊」をほとんどの人は「あさくま」と読むだろうが、正しくは「あさま」である。地名の読みは難しい。
金剛證寺参詣に始まり、朝熊山上公苑、奥之院、経塚群、八大龍王社など、案内にあるコースはほとんど歩いた。雨が心配されたが、降られなかった。しかし、風は強かった。山頂からは遠く知多半島や渥美半島が展望できた。やはり絶景である。山頂のさんぽ道にはハンモックがあって、寝そべってみると、これが思いがけず楽しかった。
「お伊勢参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り」と案内にある。わが家は内宮、外宮はすでに参っているので、これでお伊勢参りをしたことになる。
「朝熊」をほとんどの人は「あさくま」と読むだろうが、正しくは「あさま」である。地名の読みは難しい。
今日は、不思議なことに、ほとんど鳥の鳴き声がしない。遠くでときおりヒヨドリの声がするだけだ。静かな午後である。庭に出てみる。千両の実はほとんどが赤くなっている。もう少し濃くなるとさらに美しくみえるだろう。今年、千両は豊作である。万両の実のいくつかは色づきはじめているが、ほとんどは青いままである。びわはまだつぼみの方が多いが、咲いているのもある。近づいていくと羽音が聞こえた。蜜蜂が誘われていた。
以前、朝永振一郎の「庭にくる鳥」と比較して、わが庭に来る鳥を記事にしたことがある。昨日、久しぶりに『庭にくる鳥』(みすず書房)のページをめくっていた。「武蔵野に住んで」のなかで、梅の木に柿をぶら下げるエピソードはおぼえていたが、すももにアメリカシロヒトリが発生した件は記憶になかった。抜き書きしてみよう。
柿
いつか、ニ、三年前の秋、実がなると、おむかいの柿の木にむくどりのやってくるのがうらやましく、柿を買ってきて、この梅の木にぶらさげてみたが、鳥たちは見むきもせず、近所のごいんきょさんに、ほほう、梅の木に柿がなりましたな、とひやかされたことを思い出した。
アメリカシロヒトリ
それら(庭を生活の場とする小動物のこと。猫、鳥、蝶々,とんぼ、とかげ、かなへび、みみず、おけら、こうろぎ、蟻んこ、もぐらもち、引用者注)、われらと共に住む生きとし生けるものたちすべての上に幸いあれ、などと考えながら、庭の光景を見ていたら、先日は、玄関わきのすももの木に、アメリカシロヒトリの一群が発生して、見る間に木を丸坊主にしてしまった。こうなると、生きとし生けるものの上に幸あれ、などと言っているわけにもいかず、消毒屋さんをよんできて殲滅してしまった。あわれ、おまえたち、こんど生まれかわるときは、こんりんざい、毛むしなどになってくるなよ。
いい人だったと思う。柿とアメリカシロヒトリ。この2つが目に止まったのは、今年、庭の柿の葉がアメリカシロヒトリに喰い尽されてしまったからだろう。
わが家では消毒はしなかった。調べてみると、アメリカシロヒトリはチャドクガと違って無毒だとわかり、対策は、手の届く範囲で葉(毛虫つき)の一部を枝ごと切り落とし長靴で踏みつぶす程度にした。たしかに「生きとし生けるものの上に幸あれ」などと言っているわけにはいかない。葉や枝の上でバランスを崩し地上に落ちたアメリカシロヒトリは、再び葉を求めていくようである。幹を上っていくアメリカシロヒトリを何匹か見かけた。
(9月下旬の写真)
驚いたのは、柿がアメリカシロヒトリに葉を食べつくされた後、再び葉を茂らせたことである。そして、何もなかったかのように立派に実を成熟させたことである。いま実を啄みに来ているのは、ヒヨドリ、スズメ、メジロである。ムクドリはまだ見かけない。
柿
いつか、ニ、三年前の秋、実がなると、おむかいの柿の木にむくどりのやってくるのがうらやましく、柿を買ってきて、この梅の木にぶらさげてみたが、鳥たちは見むきもせず、近所のごいんきょさんに、ほほう、梅の木に柿がなりましたな、とひやかされたことを思い出した。
アメリカシロヒトリ
それら(庭を生活の場とする小動物のこと。猫、鳥、蝶々,とんぼ、とかげ、かなへび、みみず、おけら、こうろぎ、蟻んこ、もぐらもち、引用者注)、われらと共に住む生きとし生けるものたちすべての上に幸いあれ、などと考えながら、庭の光景を見ていたら、先日は、玄関わきのすももの木に、アメリカシロヒトリの一群が発生して、見る間に木を丸坊主にしてしまった。こうなると、生きとし生けるものの上に幸あれ、などと言っているわけにもいかず、消毒屋さんをよんできて殲滅してしまった。あわれ、おまえたち、こんど生まれかわるときは、こんりんざい、毛むしなどになってくるなよ。
いい人だったと思う。柿とアメリカシロヒトリ。この2つが目に止まったのは、今年、庭の柿の葉がアメリカシロヒトリに喰い尽されてしまったからだろう。
わが家では消毒はしなかった。調べてみると、アメリカシロヒトリはチャドクガと違って無毒だとわかり、対策は、手の届く範囲で葉(毛虫つき)の一部を枝ごと切り落とし長靴で踏みつぶす程度にした。たしかに「生きとし生けるものの上に幸あれ」などと言っているわけにはいかない。葉や枝の上でバランスを崩し地上に落ちたアメリカシロヒトリは、再び葉を求めていくようである。幹を上っていくアメリカシロヒトリを何匹か見かけた。
(9月下旬の写真)
驚いたのは、柿がアメリカシロヒトリに葉を食べつくされた後、再び葉を茂らせたことである。そして、何もなかったかのように立派に実を成熟させたことである。いま実を啄みに来ているのは、ヒヨドリ、スズメ、メジロである。ムクドリはまだ見かけない。
『庭にくる鳥』(朝永振一郎著、みすず書房)のなかに、「庭にくる鳥」という庭にくる鳥をつづった短い随筆がある。これが本のタイトルになったのは編集者の提案だったと「まえがき」にある。
(引用はじめ)
それにさっそく賛成したのは、なるほどそういえばこの本にのせたそれぞれの雑文は、えさ台に残された鳥の糞からぽつぽつりと出てきた木の芽みたいなところもあるなあ、と思ったからである。
(引用おわり)
朝永にとって庭にくる鳥は、アイデアを運んでくる使いだったように思われる。
(引用はじめ)
それにさっそく賛成したのは、なるほどそういえばこの本にのせたそれぞれの雑文は、えさ台に残された鳥の糞からぽつぽつりと出てきた木の芽みたいなところもあるなあ、と思ったからである。
(引用おわり)
朝永にとって庭にくる鳥は、アイデアを運んでくる使いだったように思われる。
プトレマイオスは、第1章「金星の遠地点の証明」で、4つの観測データから遠地点と近地点の位置を定めている。第2章「金星の周転円の大きさ」では、遠地点と近地点にある金星の2つのデータから周転円の半径と離心円の離心率を求めている。そして第3章「金星の離心率の割合」で、2つのデータから等化点を導入し「離心距離の二等分」を証明している。
第3章は次のように始まっている。「しかし周転円の等速運動が点Dのまわりに行われるかどうかは不確実であるから、平均太陽が遠地点から両側に90°の所にある場合に、反対方向にある二つの最大離角を考えた。」第2章で求めた離心円の中心Dが等速運動の中心とは限らないから、水平方向のデータ(山本のD7とD8)に着目する。
さきに「2つの観測データ」の記事で引用した第3章の冒頭部分の後、プトレマイオスは次のような図を提示し、次のように説明している。
(引用はじめ)
かくて遠地点と近地点とを通る離心円の直径をABGとし、点Aは金牛宮25°、点Bは黄道中心であると仮定しよう。そのまわりに周転円の等速運動が行われるような中心を見つけよう。この中心としてDをとり、観測に於けるが如く周転円の平均位置が遠地点から1/4円周だけ離れているように直線AG上へ垂線DEをとろう。観測に従って周転円の中心Eをこの垂線上にとり、Eのまわりに周転円を描き、点Bからそれへ切線BZとBHとを引こう。さらにBEとEZ、EHとを結ぶ。
(引用おわり)
たしかにエカントではなく、「そのまわりに周転円の等速運動が行われるような中心」である。記号はDで(第2章のDとは違う、2章のDはここではTになっている。引用者注)、Eではない。Eは平均太陽の中心である。想像された架空の円の中心という意味で、等化点というよりも「虚中心」と見るのがよいと思う。プトレマイオスにおいては、エカント(equant)の語源を考慮することなく、いいかえれば「等」にこだわらず、円の「中心」をそのまま活かせばいいのだと思う。とはいえ、「等」速運動が行われる中心なので、「等」化点も不適切ではない。
さて、プトレマイオスにあって山本義隆に欠けているものとは、観測データの位置AとEを架空の円上に配置し、弧AEが正確に1/4円周だけ離れているという仮定である。図において∠ADE=90°である。ADEは正確に4分円でAD=ED、ADとEDは半径で、円の中心はDである。しかも、このDはBT=DTを満たさなければならない。なぜなら、黄道中心(離心点)Bを起点にして運動する平均太陽を「対心」Dから見れば、遠地点Aの遅さと近地点Gの速さは、正確に近地点Aの速さと遠地点Gの遅さに映つる。どの地点でもこのような相殺が起こり、一様な速さで運動しているように見えるだろうからである。
これがプトレマイオスの仮定だった。Dは等化円の中心であると同時にBT=DTを満たさなければならない。プトレマイオスは等化点Dを導入し、「離心距離の二等分」(BT=DT)を証明する。
山本義隆は次のように述べていた。「問題は(その点すなわち)等化点Eを見いだすことであるが、それは次のようになされる」。しかし、言葉とは裏腹に、等化点の導入にはあまり関心を示していない。そして、「離心距離の二等分」の説明に関心を集中させているようにみえる。それは図に表れているといえるだろう。
プトレマイオスの図の4分円ADEと対応するのはAEQである。しかし、弧AQが1/4円周という意識が薄いので、プトレマイオスの図に比べて4分円は扁平な形になっている。これに対して「離心距離の二等分」を証明する部分が拡大している。
「直線EQは長軸線ABに直交している」という指摘だけでは不十分である。EA=EQ(半径)であり、AEQは正確な4分円であるという指摘が必要である。それに加えて、「離心距離の二等分」は仮定されたもので、その仮定を検証するという姿勢を読み取ることが必要だと思われる。
これは本文で、付記に言及した後、次のように述べていることと関連しているだろう。「この結果は FE =2 FC (上の図のTE=2TCのこと、引用者注)、すなわち離心点Fと等化点Eの中点に誘導円の中心Cがあることを示している。この著しい事実は「離心距離の二等分」と呼ばれる。この事実はここでは仮定されたのではなく、導かれたものであることに注意。」しかし、ここ(金星)でも(他の惑星では仮定している)、「離心距離の二等分」はあくまでも仮定であって、最大離角のデータを使って検証しているというべきだろう。
『アルマゲスト』第10巻第3章には2つの焦点があるといえよう。1つは等化点の導入、もう1つは「離心距離の二等分」の証明である。プトレマイオスは2つの焦点を見据えている。しかし、山本義隆は「離心距離の二等分」にだけ焦点を絞っているように見える。
参考文献
『世界の見方の転換』1(山本義隆著、みすず書房、2014)
『アルマゲスト』(プトレマイオス著、薮内清訳、恒星社厚生閣、1982)
第3章は次のように始まっている。「しかし周転円の等速運動が点Dのまわりに行われるかどうかは不確実であるから、平均太陽が遠地点から両側に90°の所にある場合に、反対方向にある二つの最大離角を考えた。」第2章で求めた離心円の中心Dが等速運動の中心とは限らないから、水平方向のデータ(山本のD7とD8)に着目する。
さきに「2つの観測データ」の記事で引用した第3章の冒頭部分の後、プトレマイオスは次のような図を提示し、次のように説明している。
(引用はじめ)
かくて遠地点と近地点とを通る離心円の直径をABGとし、点Aは金牛宮25°、点Bは黄道中心であると仮定しよう。そのまわりに周転円の等速運動が行われるような中心を見つけよう。この中心としてDをとり、観測に於けるが如く周転円の平均位置が遠地点から1/4円周だけ離れているように直線AG上へ垂線DEをとろう。観測に従って周転円の中心Eをこの垂線上にとり、Eのまわりに周転円を描き、点Bからそれへ切線BZとBHとを引こう。さらにBEとEZ、EHとを結ぶ。
(引用おわり)
たしかにエカントではなく、「そのまわりに周転円の等速運動が行われるような中心」である。記号はDで(第2章のDとは違う、2章のDはここではTになっている。引用者注)、Eではない。Eは平均太陽の中心である。想像された架空の円の中心という意味で、等化点というよりも「虚中心」と見るのがよいと思う。プトレマイオスにおいては、エカント(equant)の語源を考慮することなく、いいかえれば「等」にこだわらず、円の「中心」をそのまま活かせばいいのだと思う。とはいえ、「等」速運動が行われる中心なので、「等」化点も不適切ではない。
さて、プトレマイオスにあって山本義隆に欠けているものとは、観測データの位置AとEを架空の円上に配置し、弧AEが正確に1/4円周だけ離れているという仮定である。図において∠ADE=90°である。ADEは正確に4分円でAD=ED、ADとEDは半径で、円の中心はDである。しかも、このDはBT=DTを満たさなければならない。なぜなら、黄道中心(離心点)Bを起点にして運動する平均太陽を「対心」Dから見れば、遠地点Aの遅さと近地点Gの速さは、正確に近地点Aの速さと遠地点Gの遅さに映つる。どの地点でもこのような相殺が起こり、一様な速さで運動しているように見えるだろうからである。
これがプトレマイオスの仮定だった。Dは等化円の中心であると同時にBT=DTを満たさなければならない。プトレマイオスは等化点Dを導入し、「離心距離の二等分」(BT=DT)を証明する。
山本義隆は次のように述べていた。「問題は(その点すなわち)等化点Eを見いだすことであるが、それは次のようになされる」。しかし、言葉とは裏腹に、等化点の導入にはあまり関心を示していない。そして、「離心距離の二等分」の説明に関心を集中させているようにみえる。それは図に表れているといえるだろう。
プトレマイオスの図の4分円ADEと対応するのはAEQである。しかし、弧AQが1/4円周という意識が薄いので、プトレマイオスの図に比べて4分円は扁平な形になっている。これに対して「離心距離の二等分」を証明する部分が拡大している。
「直線EQは長軸線ABに直交している」という指摘だけでは不十分である。EA=EQ(半径)であり、AEQは正確な4分円であるという指摘が必要である。それに加えて、「離心距離の二等分」は仮定されたもので、その仮定を検証するという姿勢を読み取ることが必要だと思われる。
これは本文で、付記に言及した後、次のように述べていることと関連しているだろう。「この結果は FE =2 FC (上の図のTE=2TCのこと、引用者注)、すなわち離心点Fと等化点Eの中点に誘導円の中心Cがあることを示している。この著しい事実は「離心距離の二等分」と呼ばれる。この事実はここでは仮定されたのではなく、導かれたものであることに注意。」しかし、ここ(金星)でも(他の惑星では仮定している)、「離心距離の二等分」はあくまでも仮定であって、最大離角のデータを使って検証しているというべきだろう。
『アルマゲスト』第10巻第3章には2つの焦点があるといえよう。1つは等化点の導入、もう1つは「離心距離の二等分」の証明である。プトレマイオスは2つの焦点を見据えている。しかし、山本義隆は「離心距離の二等分」にだけ焦点を絞っているように見える。
参考文献
『世界の見方の転換』1(山本義隆著、みすず書房、2014)
『アルマゲスト』(プトレマイオス著、薮内清訳、恒星社厚生閣、1982)
問題は等化点を見出すことだった。しかし山本の説明は等化点が見いだされた後の説明で、等化点を見いだす経緯にはふれられていないのではないか。
惑星Pの黄経の一般式(λ=θ-φ+ψ)や離心距離の二等分の導出( ET =2 CT )が等化点の発見に置き換えられているように思われる。また、等化点Eが架空の円の中心であることもわかりにくい。要するに、等化点の導入に焦点が当たっていないのである。
このような疑問をもっていた。それで、しばらく「金星の軌道パラメータの決定」(『世界の見方の転換』1付記)とプトレマイオス『アルマゲスト』第10巻の1、2、3章を読み比べていた。すると、山本義隆になくプトレマイオスにあるもの、いいかえれば山本に欠けているものがわかった。これを付け加えれば山本の説明が活きてくるように思われる。
惑星Pの黄経の一般式(λ=θ-φ+ψ)や離心距離の二等分の導出( ET =2 CT )が等化点の発見に置き換えられているように思われる。また、等化点Eが架空の円の中心であることもわかりにくい。要するに、等化点の導入に焦点が当たっていないのである。
このような疑問をもっていた。それで、しばらく「金星の軌道パラメータの決定」(『世界の見方の転換』1付記)とプトレマイオス『アルマゲスト』第10巻の1、2、3章を読み比べていた。すると、山本義隆になくプトレマイオスにあるもの、いいかえれば山本に欠けているものがわかった。これを付け加えれば山本の説明が活きてくるように思われる。