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対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

コトバ記憶〔W・S〕の複素構造

2024-05-15 | ノート
外に表出された「論理的なもの」に複素構造を示した。「Einsteinの思考モデルと複素平面」参照。

こんどは、脳に対応する複素構造を想定してみよう。中山正和のHBCモデルは次のようだった。


中山正和は「コトバ記憶」〔W・S〕をパロールとメタ・ラングに分けた。〔I・S〕と結合した〔W・S〕がパロールである。そして、パロール同士の関連から生じた「イメージに直結しない抽象的なコトバ(概念を表わすコトバ)がメタ・ラングだった。メタ・ラングは感覚ではとらえられない。中山は「時間」や「心」を例として挙げている。また、「法則」や「論理」も上げている。

脳のモデル図において、パロールとメタ・ラングは、同じように〔W・S〕に含まれている。しかし、パロールは〔I・S〕と結ばれているのに対して、メタ・ラングは結ばれていない。細かい線につながっていない。いわばパロールの「間」に広がっている。

パロールを「実数」、メタ・ラングを「虚数」と対応させることができる。
コトバ記憶=(パロール)+(メタ・ラング)i
である(コトバ記憶=(指示表出)+(自己表出)i)。

パロールは〔I・S〕と「悟性」を通して関係している。メタ・ラングは「理性」を通して〔W・R〕(言語検索)と関係している。発生を考えてみれば、〔I・S〕との接点に「悟性」が生まれ、〔I・S〕とパロールの関係を密にしていった。また、〔W・S〕の「間」に出現したメタ・ラングの一部は「理性」として形成されて、〔W・R〕(言語検索)の機能を前頭連合野に出現させたということになるのではないだろうか。

概略的にいえば、イメージ記憶〔I・S〕は実数(指示表出)、コトバ記憶〔W・S〕は複素数(自己表出と指示表出)、言語検索〔W・R〕は虚数(自己表出)と捉えることができる。

Einsteinの思考モデルと複素平面

2024-05-13 | ノート
1 (問題解決の過程を「悟性―理性……理性―悟性」で表示する)

 「論理的なもの」は『小論理学』(ヘーゲル)の「論理的なものの三側面」の「論理的なもの」と対応させたものである。ヘーゲルの三側面論はそのまま三段階論となっていた。ヘーゲルの三側面に対して二側面(「自己表出と指示表出」)を対置し、悟性―否定的理性―肯定的理性という三段階論(正・反・合)に対して、「悟性―理性……理性―悟性」という三段階論を対置してきた。この図式は弁証法の新しい理論を提起する際に、「問題解決の過程」として要約したものである。(「ひらがな弁証法」 特に第2章 進展1――「対話」と「対立物の統一」の3「対立物の統一」の問題点4「試行錯誤」の問題点参照)

この試みは、ヘーゲル「論理的なもの」の三側面(『小論理学』)の進展を、カントの悟性と理性(『純粋理性批判』)の関係を基礎にして止揚する試みだったのではないかと、最近思うようになっている。

カントの悟性と理性の違いについていえば、悟性はカテゴリーと判断を通して現象界に関係するのに対して、理性はこの悟性の機能を統一するだけで現象界と直接かかわらないと想定されていることである。「我々は同一対象を、一方では経験にとっての感覚および知性(悟性のこと、引用者注)の対象として考察できるとともに、他方では我々が単に考えるだけの対象として、とにかく経験の限界を超え出ようと努める孤立した理性にとっての対象として、したがって、二つの異なった側面から考察することができる(内田弘訳)」(『純粋理性批判』(第2版序文)より)。

「論理的なもの」の推移を「悟性―理性……理性―悟性」の過程にみることができる。例えば、ここにアインシュタインの思考モデルを位置づけることができる。また、そこにパースの3段階論(アブダクション・ディダクション・インダクション)を読み取ることができる。

2(アインシュタインの思考モデルと複素平面)

 「論理的なもの」に複素数のモデルを想定してきた。複素数はa+bi(実部と虚部)という構造をもっている。iはimaginary の略で、「虚」というより「想像」が原意である。「論理的なもの」に
 「論理的なもの」=「指示表出」+「自己表出」i
という構造を想定する。そして、実部に指示表出を対応させ、虚部に自己表出を対応させる。また、指示表出に悟性を、自己表出には理性を対応させる。

ガウスの複素平面の実軸は水平軸(ヨコ軸)であり、虚軸は垂直軸(タテ軸)である。アインシュタインの思考モデル(1952年)は、水平におかれたE(経験の総体)を起点として、また終点として、思考の過程を位置づけたものである。複素平面を背景にアインシュタインの思考モデルを投影してみよう。
   
   アインシュタインの思考モデルと複素平面 

「論理的なもの」(白丸○)は、「悟性―理性……理性―悟性」の過程を推移する(矢線)。「悟性―理性……理性―悟性」を分解して示せば、
  悟性―理性 ―― EJA、
  理性……理性 ―― AS、
  理性―悟性 ―― SEA
である。
また、パースの探究の三段階論との対応を見ることができる。
  アブダクション(仮説)―― EJA、
  ディダクション(演繹)―― AS、
  インダクション(帰納)―― SEA
である。

3 (アインシュタインの思考モデルと2つの基準)

アインシュタインは新しい理論をつくるときの観点(基準)を二つ想定している。一つは「外的実証性」(「外からの検証」)、もう一つは「内的完全性」(「内における完成」)に関わるものである。第一の観点は「理論は経験事実と矛盾してはならないということ」である。第二の観点は「観測データヘの関係に関わるのではなく、理論の前提そのもの、すなわち前提(基本概念やそれらの間の基礎的関係のことであるが)の「自然さ」とか「論理的単純性」とかいう、簡潔ではあるが明瞭ではない言葉であらわされるものに関わっている」としている。

この観点を図に示すとすれば、「外的実証性」(「外からの検証」)は指示表出(悟性)に、「内的完全性」(「内における完成」)は自己表出〈理性〉に対応させることができる。
   
        アインシュタインの思考モデルと2つの基準
図の解説は次を参照してください。
  アインシュタインの思考モデルと2つの基準

正しく推測する本能的能力

2024-05-08 | ノート
分離された「推論(演繹・帰納)」と「発見(仮説設定)」を「推論(演繹・帰納・仮説設定)」として結合して、脳のモデルに位置づけた。

〔W・R〕⇆〔W・S〕+〔I・S〕←〔S→O〕

この位置づけは、中山正和の位置づけを排除するものではなく、止揚するものである。

中山は発見(仮説設定)〔S→O〕→〔I・S〕は、コトバによらない「仏の知恵」(いのちの知恵)として現れるという見解を示していた。
(引用はじめ)
「仏」というのは、本当は「佛」という字を書くので、これは「イ」(人)に「弗」(あらず)という意味である。自然システムに組み込まれているすべてのものや出来事のうち、人間を除いたものをいうのである。これらのものは自然システムに素直に組み込まれている故に知恵をもっているが、人間だけがコトバを操っていろいろ悪いことを考える。コトバが知恵を阻止するのである。
(引用おわり)
仏ということばを使わなければ「自然システムに素直に組み込まれているすべてのものがもっている知恵」である。これはパースがアブダクションの基礎に想定しているものと同じである。

米盛裕二『アブダクション』(第3章、アブダクションの推論の形式と特質、3節、閃きと熟慮からなるアブダクション)から引用する。
(引用はじめ)
「アブダクティブな示唆は閃光のようにわれわれに現われる」ということについてですが、パースはこの洞察の働きについて、それは何か説明不可能な「非合理的要素」とか不可解な神秘的能力というようなものではなく、それは自然に適用するために人間に本来備わっている本能的能力である、といいます。それはつまり、人類進化の過程のなかで自然の諸法則との絶えざる相互作用を通して、それらの自然の諸法則の影響のもとで育まれ発展してきた人間の精神に備わる「自然について正しく推測する本能的能力」である、というのです。そしてパースによると人間の精神には本来この「自然について正しく推測する本能的能力」が備わっているという進化論的事実を認めることが、あらゆるアブダクティブな探究の根底にある(ひいてはあらゆる科学的探究の根底にある)もっとも基本的な前提です。
(引用おわり)
米盛裕二は「正しく推測する本能的能力」を「本能的アブダクション」と形容している。

パースはアブダクションをいのちの知恵として捉えている。しかし、中山のようにそれを「発見」として「推論」から区別して、切り離すのではなく、「発見」を「洞察」として第1段階に置き(閃き)、第2段階として「洞察」を補完する「推論」(熟慮)の過程をアブダクションに含めている。

演繹・帰納・仮説設定のHBCモデル

2024-05-06 | ノート
パースは演繹(ディダクション)を分析的(解明的)推論とし、帰納(インダクション)と仮説設定(アブダクション)を拡張的推論としている。中山はパースが仮説設定を「推論」に位置づけていることに対して異論を提起した。

「推論」は理性的なものでコトバによるのに対して、「仮説設定」はコトバによらない。発見は「ハット気づく」ことに起因している。例えば、アルキメデスの「ユーレカ」(我、見つけたり)!である。それは「気づき」・「発見」なのであって、明らかに「推論」ではないと想定したのである。

パースが仮説設定を推論としたのは、西洋の刷り込みではないかと中山は推測した。「はじめにコトバがあった」という文化では、仮説設定もコトバであり、推論に分類したのではないかと想定した。

これに対して、「はじめにいのちがあった」という仏教の刷り込みを対置して、発見(仮説設定)はコトバによらない「仏の知恵」(いのちの知恵)として現れるという見解を提示したのである。

中山は推論(演繹・帰納)と発見(仮説設定)をHBCモデルで次のように位置づけた。

中山正和のHBCモデル

推論(演繹・帰納)
〔W・R〕⇆〔W・S〕+〔I・S〕
発見(仮説設定)
〔S→O〕→〔I・S〕


推論と仮説設定を分離しているのである。

発見(仮説設定)は中断されているのではないだろうか。
ケプラーの楕円軌道の発見はアブダクション(仮説設定)の例として挙げられている。これを理解できるのはコトバによって表現されているからである。仮説設定〔S→O〕→〔I・S〕は、〔I・S〕で停止するのではなく、推論〔W・R〕へと続くのである。「創造そのものはいつも無意識なものだ。その産物の証明と探究だけが、意識的な分析を呼び起こす。本能は考える方法を知らないままに思考をつくる。知能は思考の使い方を知っているが、それを作ることはできない。」(ハンス・セリエ『夢から発見へ』)

また、推論(演繹と帰納)に〔S→O〕が想定されていないことも疑問である。「発見」に演繹と帰納を排除することはできないだろう。伊東俊太郎は3つの思考を方式(帰納・演繹・発想)のうち、「発想」(仮説設定)が重要だが、帰納も演繹も発見と無縁ではないことを強調している。帰納では「ボイルの法則」(気体の圧力と体積の関係に注目したこと自体が新しい、帰納の前に1つの観点の発見が必要)や「スネルの法則(屈折の法則)」、演繹ではニュートンの逆自乗の法則(月と地球の関係に適用、天上と地上の運動法則が同じであるとい新しい観点の導入が先行)の発見をあげている。「科学的発見の論理」参照。

中山が分離した推論(演繹・帰納)と発見(仮説設定)は次のようにまとめることができる。

推論(演繹・帰納・仮説設定)
〔W・R〕⇆〔W・S〕+〔I・S〕←〔S→O〕


HBCモデルにおいて、矢印は、演繹↓・帰納↑と想定されているが、統一されたモデルでは、下向き矢印↓も上向き矢印↑もどちらも推論である。

HBCにおける推論と仮説設定の位置

2024-04-29 | ノート
最近(ここ1か月ほど)のカテゴリー「ノート」の記事は、『言語の本質』(中公新書)の中にパースのアイコンとアブダクションが取り上げられていたことがきっかけになっている。

吉本の言語の自己表出を認識論に応用して、アブダクションを自己表出に位置づける思考モデルを作っていた。

アインシュタインの思考モデルとパースの探究の三段階論の対応 アブダクション(仮説)―― EJA、ディダクション(演繹)―― AS、インダクション(帰納)―― SEA

最初、分家の自己表出はアブダクションだが本家の自己表出はどうなのかということを「自己表出はアブダクションである」で考察して、言語論においても自己表出はアブダクションと考えてもいいのではないかという見解を示した。

次に出てきた問題は、演繹法・帰納法・仮説設定法(ディクション・インダクション・アブダクション)の関係についてである。この関係も上の思考モデルで位置づけている。これはパースの位置づけを基礎にしたものである。しかし、その位置づけは中山正和とは違っているので、その関係を明確にしようと思った。中山正和はHBCモデルを提示していたので、この図を使って違いを示すのが妥当と思われた。

中山正和のHBCモデル

パースは演繹(ディダクション)を解明的推論とし、帰納(インダクション)と仮説設定(アブダクション)を拡張的推論としている。中山はパースが仮説設定を「推論」に位置づけていることに対して異論を提起している。その根拠になっているのは独特で魅力的な創造論(「いのち」の知恵、仏の知恵)である。
(引用はじめ)
「仏」というのは、本当は「佛」という字を書くので、これは「イ」(人)に「弗」(あらず)という意味である。自然システムに組み込まれているすべてのものや出来事のうち、人間を除いたものをいうのである。これらのものは自然システムに素直に組み込まれている故に知恵をもっているが、人間だけがコトバを操っていろいろ悪いことを考える。コトバが知恵を阻止するのである。
(引用おわり)
「推論」は理性的なものでコトバによるのに対して、「仮説設定」はコトバによらないので、明らかに「推論」ではないと考えられている。
中山は推論(演繹・帰納)と発見(仮説設定)をHBCモデルで次のように捉えている。
推論
〔W・R〕⇆〔W・S〕+〔I・S〕
仮説設定
〔S→O〕→〔I・S〕

(引用はじめ)
問題が解けないというのは、いのち(〔S→O〕)にとって不快なことである。W・RとW・Sという「理性」では解決できない、つまり、いままでの法則によって演繹した結果と、自分が経験した事実から帰納した結果とが対立・矛盾することであるから、ここに何かこの対立・矛盾を止揚するような仮説がほしい。それを〔S→O〕が過去の経験に求めるのである。
(引用おわり)

中山正和のHBCモデル3

2024-04-25 | ノート
イメージ記憶〔I・S〕にコトバ記憶〔W・S〕がつながる。中山正和は「メージに直結しているコトバ」を「パロール」と呼んでいる。2つを結ぶたくさんの線はイメージとコトバの対応を表している。例えば、花のイメージに「ハナ」というコトバ言葉が対応する。しかし、一対一の対応ではない。花には、サクラもバラもある。またバラもさらに細分化される。コトバ記憶のコトバには「類としての同一性と個としての差異性」が保存されるように対応していく。

コトバ記憶がつながることによって、意味の伝達が可能になる。
(引用はじめ)
コトバ記憶〔W・S〕をつけ加えることによって、人間は自分のもっているイメージを他人に伝えることができ、他人のコトバによってその人のもっているイメージを想像することができる。コミュニケーションの成立である。
(引用おわり)
イメージ記憶とコトバ記憶の特徴は、いつの記憶でも任意に取り出すことができることである。事柄の順序に拘束されない。記憶は空間配置性を特徴としている。

記憶が蓄積されてくると、それらの関連に注意が向けられるようになり、人間に独自性が現れてきた。これを中山は「自然システムに組み込まれたいのち(〔S→O〕)の工夫と考えている。
(引用はじめ)
人間(の子供)は〔W・S〕のパロールによって、〔I・S〕のイメージを出し入れしているうちに、何回か繰り返して起こる出来事からある「法則性」を見つける。目覚めたあと、ある時間がくると暗くなってねたくなるという体験(〔I・S〕上のイメージ)を繰り返すとき、目ざめたときは「アサ」といい、暗くなったときを「ヨル」というコトバ(パロール)で表わすなら、「朝のあと(ある時間がたつと)夜になる」という因果関係に気がつく。「こうすればこうなる」「ああだからこうだ」というのは、このような「時の流れ」という概念の上に立つ論理であって、これはつまり「帰納」という他ならない。
(引用おわり)
もともとのイメージ記憶〔I・S〕やコトバ記憶〔W・S〕にはなかった「時間」や「法則」や「論理」が出現してきたのである。これらは感覚(視覚や聴覚や触覚)では直接、とらえられないものであった。「時の流れ」の意識が基礎に置かれている。

中山正和はこれらのイメージに直結しない抽象的なコトバを「メタ・ラング」と呼んでいる。メタ・ラングはイメージ記憶I・Sと結ばれていないが、コトバ記憶W・Sに記録されると想定されている。
(引用はじめ)
メタ・ラングはコトバとしてやはり〔W・S〕の上に記録されるのであろうが、これは直接は〔I・S〕上のイメージには結ばれていない。図の細かい線につながってはいない。だから他人にこの概念を分からせるためには、いろいろのパロールを「探し」て、これを「組み合わせて」その人のイメージを描かせなくてはならないのである。これは一つの「言語検索」という作業である。パロールを探して、これを既知の法則によって組み立てることで、ここではじめて「論理」または「計算」ということができる。
(引用おわり)
こうして、最上位に(前頭葉)に、言語検索〔W・R〕が付け加わって、HBCモデルが完成する。

コトバ記憶〔W・S〕から言語検索〔W・R〕へ伸びている矢印↑は「いろいろな出来事からある法則性を見つける」という帰納法、反対に言語検索からコトバ記憶へと伸びる矢印↓は「ある法則によって現在の出来事を理解する」という演繹法である。これらは出来事の関連に注意することによって、必然的に身についた「法」であり、「自動的に起こる」ものとして想定されている。

新たに付け加わった言語検索〔W・R〕とコトバ記憶〔W・S〕との関連はもともと「問題への対処」として想定されていた図式であった。これが脳の構造と連結されたのである。

中山正和のHBCモデル2

2024-04-18 | ノート
HBCモデルの下半分だけを取り出した図を示せば次のようになる。

これは言葉のない状態を表す。動物の行動のモデルだが、人間でいえば、言語を発する前の人類とか、生まれてまもない赤ちゃんの状態である。

ここで、海を前にした人類なら「う」という自発的に有節音が発声されて、新しい局面になる。赤ちゃんなら「あーあー」だろう。
ここに自己表出を想定したのである。このとき、コトバ記憶W・Sと言語検索W・Rは空白で枠だけがある。イメージ記憶I・Sとコトバ記憶W・Sを結ぶ多数の線はなく、I・Sから1本の線が空白のW・S、空白のW・Rを伝わって、→計画と表示されているところ「う」や「あーあー」は出現する(と想定できる)。これを端緒として、コトバ記憶W・Sがイメージ記憶I・Sに対応して形成され、I・SとW・Sの対応が密になっていく。

中山正和のHBCモデル1

2024-04-17 | ノート
こんど中山正和『演繹・帰納 仮説設定」(1979年)を読み直していて、HBCモデル(Human Brain Computer)に着目した。自己表出の出現の背景に脳髄や神経系の発達があるからである。HBCはヒトの脳のモデルである。脳の働きを分類・整理したものである。これは大脳生理学や子どもの成長の過程との対応も考えられている。モデルの下部構造は動物と共通している。
それは次のようなものである。


記号の説明  脳との対応
S→O(Stimulus→Output、刺激→反応)  脳幹・延髄系 
I→O(Image→Output、イメージ→反応) 大脳辺縁系  
I・S(Image-Storage、イメージ記憶)   新皮質系(右半球)
W・S(Word-Storage、コトバ記憶)    新皮質系(左半球)
W・R(Word-Retrieval、言語検索)    前頭連合野系

S→Oは「いのち」と名付けられている。S→Oは自然システムに組み込まれたいのちの働きを表わす。I→Oは「肉体の学習・刷り込み」である。例えば、灯を見るという視覚的刺激が行動に結びついていくこと。そして、過去の経験を新しい事態に適応させるために記憶装置I・Sが出現して、刺激→出力に幅が出る。
(引用はじめ)
動物は刺激を受けると〔S→O〕(いのち)の働きによって、自動的に〔I・S〕の中を探し、過去の経験をイメージとして引き出し、その中に現在の状態改善に役立つものがあれば、これを〔S→O〕に返して行動に移す。
(引用おわり)
動物は、「生きていること」に「たくましく生きていくこと」が加わり、さらに「うまく生きていくこと」ができるようになる。
モデル図の下半分である。

コトバとイメージが喚起したもの

2024-04-15 | ノート
「自己表出はアブダクションである」を展開してきた。アブダクションと言語は密接に関係があると考えてきた。これまでカテゴリー「アブダクション」において、中山正和のアブダクションの理解を評価してきている。中山は「いのちの知恵」という魅力的な表現をしていた。しかし、あらためて考えてみると中山のアブダクションの理解とこちらのアブダクションの理解は両立しないことに気づいた。中山にとってアブダクションは推論ではない。「発見」や「気づき」として言語を媒介しないものと想定している。この違いをはっきりさせておきたいと思った。

中山は演繹・帰納と仮説設定の違いを自身が提起したHBCモデル(Human Brain Computer、脳のモデル)で区別している。このモデルを使って、中山との違いを明確にしたいと思う。
このモデルで強調されているのは、コトバとイメージの違いである。(モデルは後で取り上げる。)

中山との相違を明確にしようとしていたら、イメージとコトバに関連するおぼろげな記憶がよみがえってきて、何だろうと思った。それは『もうひとつのパスカルの原理』(2000年、文芸社)にあるように思えてきた。探してみると、それは6章「形成過程論」の冒頭にあった。そこは言語の自己表出と対応させて認識論を展開していく問題意識を明確にしていく箇所だった。
「表現されない認識」を印象的に記述しているものとしてJ・モノ―(『偶然と必然』)を取り上げていた。すこし長いが、引用する。
(引用はじめ)
「たしかに、すべての科学者は、かれらがものを考えているさいに、言葉よりももっと深いレベルで考えていることを自覚したことがあるに違いない。それは、視覚的な意味での映像(イメージ)を辛うじてつくり上げることしかできないような、形とか力とか相互作用とかいうものの助けを借りてシミュレートされた想像上の架空な経験なのである。私はあるとき、架空の想像上の経験に注意を集中したあまり、何ものも意識から消え去って、ただ自分が一個のタンパク質分子に同一化してしまっているのを知って驚いたことがある。しかしシミュレートされた経験の意味がはっきりしてくるのは、そのときではなくて、それが象徴的に表現されてからのことである。じっさい、シミュレートするときに使った非視覚的映像は、象徴とみなすべきではなく、むしろこういってよければ、架空の経験によって直接与えられた主観的かつ抽象的な現実とみなすべきであると私は思う。とにかく日常のことではシミュレーションを行ったすぐあとに言葉がつづき、それは思考そのものと混ざっているように見え、シミュレーションという過程は、言葉で完全に蔽い隠されてしまっている。しかし、多くの客観的観察が証明しているように、人間の認識機能は―――複雑な機能の場合でさえも―――言葉と(あるいは、他のいかなる象徴的表現手段とも)直接に結びついているわけではない。」
(引用おわり)
4章まではよく読んだが(「試行」70,71号に掲載された分)、それ以降はあまりよく書けていないという気後れがあって、読んでみようという気になれなかった。今度、読んでいて、なかなか頑張っていたじゃないかと思い、むかしの自分に元気をもらった感じがした。5章「対応論と等価変換理論」、6章まではなんとか行けていると思った。

そして、驚いたことには、5章の1対応論に、ハンス・セリエ『夢から発見へ』の引用があった。
(引用はじめ)
創造そのものはいつも無意識なものだ。その産物の証明と探究だけが、意識的な分析を呼び起こす。本能は考える方法を知らないままに思考をつくる。知能は思考の使い方を知っているが、それを作ることはできない。
(引用おわり)
ここに中山正和の「演繹・帰納・仮説設定」を止揚する契機があると思ったのである。

自己表出はアブダクションである9

2024-04-10 | ノート
吉本は3)の段階が可能になった背景として、
1器官的・生理的な次元の発達(自然としての人間存在の発達)と2意識の次元の強化・発達(自己を対象化する能力の発達)を挙げている。すなわち、有節音声を発することによって脳髄や神経系の構造が整っていく過程と並行して、音声が意識に反作用を及ぼし心的な構造が強化していった過程を想定している。
そして、次のように述べている。
(引用はじめ)
あるところまで意識は強い構造をもつようになったとき、現実的な対象にたいする反射なしに、自発的に有節音声を発することができるようになり、それによって逆に対象の像を指示できるようになる。このようにして有節音声は言語としての条件をすべて具えるにいたるのである。有節音声が言語化されていく過程は人間の意識がその本質力のみちをひらかれる過程にほかならない、といえる。
(引用おわり)ゴシックは引用者  ここまで8と重なる

有節音声は逆の対応づけによって発せられていることが明記されている。
対象→有節音声
が、逆転して
有節音声→対象(像)
になることが指摘されている(ここで「逆」を「左右」で強調すれば、右脳から左脳への信号が逆転して、左脳から右脳へと通じるようになったのである)。
自己表出は『言語の本質』で指摘されている「思考バイアス」の特徴を示している。本家の自己表出もアブダクションといってよいだろう。

言語の発生と進化の過程を整理しておこう。
まず、脳髄と神経系の構造の発達がある。次に、これと並行して、心的な構造の強化がある。有節音声の「反射」から「象徴」への変化によって、指示表出は対象を直接ではなく、対象像を媒介して、対象を指すようになった。言語の発生とともに、対象との一義的な関係をもたなくなる一方で、類似するさまざまな対象を類概念として包括できるようになった。それは人間の特異な心的構造を強化していったのである。

特異な心的構造の一つをあげれば、推論の可能性だろう。まず、アブダクション推論が端緒の自己表出として可能になった。次にディダクション(演繹)、その次にインダクション(帰納)が可能になっていったと思われる。

自己表出の導入を確認しておこう。
(引用はじめ)
この人間が何かを言わねばならないまでにいたった現実的な与件と、その与件にうながされて自発的に言語を表出することとのあいだに存在する千里の径庭を言語の自己表出(Selbstausdrückung)として想定することができる。自己表出は現実的な与件にうながされた現実的な意識の体験が累積してもはや意識の内部に幻想の可能性として想定できるにいたったもので、これが人間の言語の現実離脱の水準をきめるとともに、ある時代の言語の水準の上昇度を示す尺度となることができる。
(引用おわり)ゴシックは本文
自己表出は「与件にうながされて自発的に表出する」ものとして、また「幻想の可能性」として想定されている。幻想とは非現実的な心的現象である。自己表出は言語の現実離脱の水準を決定して、人間の本質力を拡大していくものとして想定されていたのである。
言語の発生と進化の模式図を再び提示して考察を終わることにしよう。