対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

コトバとイメージが喚起したもの

2024-04-15 | ノート
「自己表出はアブダクションである」を展開してきた。アブダクションと言語は密接に関係があると考えてきた。これまでカテゴリー「アブダクション」において、中山正和のアブダクションの理解を評価してきている。中山は「いのちの知恵」という魅力的な表現をしていた。しかし、あらためて考えてみると中山のアブダクションの理解とこちらのアブダクションの理解は両立しないことに気づいた。中山にとってアブダクションは推論ではない。「発見」や「気づき」として言語を媒介しないものと想定している。この違いをはっきりさせておきたいと思った。

中山は演繹・帰納と仮説設定の違いを自身が提起したHBCモデル(Human Brain Computer、脳のモデル)で区別している。このモデルを使って、中山との違いを明確にしたいと思う。
このモデルで強調されているのは、コトバとイメージの違いである。(モデルは後で取り上げる。)

中山との相違を明確にしようとしていたら、イメージとコトバに関連するおぼろげな記憶がよみがえってきて、何だろうと思った。それは『もうひとつのパスカルの原理』(2000年、文芸社)にあるように思えてきた。探してみると、それは6章「形成過程論」の冒頭にあった。そこは言語の自己表出と対応させて認識論を展開していく問題意識を明確にしていく箇所だった。
「表現されない認識」を印象的に記述しているものとしてJ・モノ―(『偶然と必然』)を取り上げていた。すこし長いが、引用する。
(引用はじめ)
「たしかに、すべての科学者は、かれらがものを考えているさいに、言葉よりももっと深いレベルで考えていることを自覚したことがあるに違いない。それは、視覚的な意味での映像(イメージ)を辛うじてつくり上げることしかできないような、形とか力とか相互作用とかいうものの助けを借りてシミュレートされた想像上の架空な経験なのである。私はあるとき、架空の想像上の経験に注意を集中したあまり、何ものも意識から消え去って、ただ自分が一個のタンパク質分子に同一化してしまっているのを知って驚いたことがある。しかしシミュレートされた経験の意味がはっきりしてくるのは、そのときではなくて、それが象徴的に表現されてからのことである。じっさい、シミュレートするときに使った非視覚的映像は、象徴とみなすべきではなく、むしろこういってよければ、架空の経験によって直接与えられた主観的かつ抽象的な現実とみなすべきであると私は思う。とにかく日常のことではシミュレーションを行ったすぐあとに言葉がつづき、それは思考そのものと混ざっているように見え、シミュレーションという過程は、言葉で完全に蔽い隠されてしまっている。しかし、多くの客観的観察が証明しているように、人間の認識機能は―――複雑な機能の場合でさえも―――言葉と(あるいは、他のいかなる象徴的表現手段とも)直接に結びついているわけではない。」
(引用おわり)
4章まではよく読んだが(「試行」70,71号に掲載された分)、それ以降はあまりよく書けていないという気後れがあって、読んでみようという気になれなかった。今度、読んでいて、なかなか頑張っていたじゃないかと思い、むかしの自分に元気をもらった感じがした。5章「対応論と等価変換理論」、6章まではなんとか行けていると思った。

そして、驚いたことには、5章の1対応論に、ハンス・セリエ『夢から発見へ』の引用があった。
(引用はじめ)
創造そのものはいつも無意識なものだ。その産物の証明と探究だけが、意識的な分析を呼び起こす。本能は考える方法を知らないままに思考をつくる。知能は思考の使い方を知っているが、それを作ることはできない。
(引用おわり)
ここに中山正和の「演繹・帰納・仮説設定」を止揚する契機があると思ったのである。

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