goo blog サービス終了のお知らせ 

対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

自己表出はアブダクションである8

2024-04-08 | ノート
『言語の本質』では、言語の起源・進化の基礎に「アブダクション推論」が挙げられている。このきっかけは、チンパンジー「アイ」の実験の動画だったようである(著者のうち今井むつみの気づき)。動画は次のようなものだった。
(引用はじめ)
アイは訓練を受けて、異なる色の積み木にそれぞれ対応する記号(絵文字)を選ぶことができる。黄色の積み木なら△、赤の積み木なら◇、黒の積み木なら○を選ぶという具合である。アイはこれをほぼ完璧にできるという。訓練のあと、時間が経ってもその対応づけの記憶は保持されていた。/しかし動画後半の展開は衝撃的だった。今度はアイに記号から色を選ぶように指示した。(中略)アイは訓練された方向での対応づけなら難なく正解できるのに、逆方向の対応づけ、つまり異なる記号にそれぞれ対応する積み木の色を選ぶことがまったくできなかったのである。
(引用おわり)

人間の子供なら、逆方向の対応づけはできる。異なる記号にそれぞれ対応する積み木の色を選ぶことは難なくできる。アイはどうしてできないのだろう。人間にとって当たり前のことが動物にとっては当たり前ではない。この断絶は本質的なのではないだろうか。ここに着目するようになった。

逆方向の対応づけが可能なのは、ことばの形式(音や文字)と対象の間の双方向の関係があるという洞察が人間には備わっているからではないか。「逆方向への一般化こそが、特定の音が対象の名前なのだという理解を支えている」という理解にたどり着く。

しかし、翻って考えてみると、これは論理的には正しくない。「AならばX」は「XならばA」ではないからである(「吉本隆明は詩人である」は「詩人は吉本隆明である」ではない)。逆方向への一般化は、前提と結論をひっくりかえしてしまう推論(「対称性推論」)であり、アブダクションと関係のある非論理的な推論である。

アイが対象→記号を学習しても、記号→対象を選べないのは、論理的には正しく、子どもが選べるのは論理的には正しくないのである。そこで対称性推論を、ヒトと動物を分かつ思考バイアスと特徴づけ、これをアブダクション推論と想定した。それまでは対称性推論に着目した実験はなかった。

そこで、
1動物はアブダクション推論をするのか、
2乳児は生まれたときからアブダクション推論をするのか
を、実験(生後8か月のヒト乳児33人と成体のチンパンジー7個体)を考案して、確認した。1は否定的、2は肯定的な結果となり、言語を持つヒトと持たない動物を区別する契機としてアブダクション推論が決定的であることを実証し、子どもの言語習得の過程としても、言語の進化・起源としてもアブダクション推論を想定できると考えた。

言語の起源と進化にはアブダクション推論がある。その目印は「逆方向の対応づけ」、「逆方向への一般化」である。自己表出はアブダクション推論なのだろうか。

吉本隆明の三段階論の3)の段階は、「音声はついに眼の前に対象をみていなくても、意識として自発的に指示表出ができるようになる段階である。」

吉本は3)の段階が可能になった背景として、
1器官的・生理的な次元の発達(自然としての人間存在の発達)と2意識の次元の強化・発達(自己を対象化する能力の発達)を挙げている。すなわち、有節音声を発することによって脳髄や神経系の構造が整っていく過程と並行して、音声が意識に反作用を及ぼし心的な構造が強化されていった過程
を想定している。
そして、次のように述べている。
(引用はじめ)
あるところまで意識は強い構造をもつようになったとき、現実的な対象にたいする反射なしに、自発的に有節音声を発することができるようになり、それによって逆に対象の像を指示できるようになる。このようにして有節音声は言語としての条件をすべて具えるにいたるのである。有節音声が言語化されていく過程は人間の意識がその本質力のみちをひらかれる過程にほかならない、といえる。
(引用おわり)ゴシックは引用者

つづく

自己表出はアブダクションである7

2024-04-03 | ノート
表出論のブートストラップモデル

3)の段階で、言語は現実的な対象との一義的な関係を持たなくなった。有節音声は今、目の前に見ている海であるとともに、またどこか他の海を象徴するようになる。現実の海はそれぞれ違いがある対象だが、類として同じとみる特性が出現する。その一方で目の前の海を具体化するには、類としての〈海〉から差別化することば(指示)が必要となった(海→海の原→蒼き海の原→さざなみのたつ蒼き海の原→…)。
吉本隆明は言語のこれらの特性(「類としての同一性と個性としての差別性」)を言語の対自と対他の側面、いいかえれば自己表出と指示表出に対応させた。

そして、対象の類概念の広がりに言語の拡大を見ている。
(引用はじめ)
「有節音声は自己表出されたときに現実的な対象との一義的な結びつきをはなれ言語としての条件を完備した。表出された有節音声はある水準の類概念をあらわすとともに自己表出はつみかさねられて意識の構造をつよめ、それはまた逆に類概念のうえにまたちがった類概念をうみだすことができるようになる。おそらく長い年月のあいだこの過程はつづくのである。
(引用おわり)
そして次のような図を提示している。

この図が『言語の本質』で提示されていたブートストラッピングサイクルに対応すると考える。

次に、自己表出がアブダクションかどうか見てみよう。

自己表出はアブダクションである0

2024-04-01 | ノート
新聞の広告に『言語の本質』(中公新書、今井むつみ/秋田喜美著)が載っていた。「オノマトペ」と「アブダクション」という言葉が目に留まり、興味を持った。

オノマトペは、これまでは言語学では周辺に位置づけられていたが、これを中心に据えて考察していく姿勢に感心した。また、言語がオノマトペから離れて、その世界を拡大して過程に「アブダクション」推論が位置づけられて、ブートストラッピングサイクルが提示されていた。こちらにも感心した。

『言語の本質』のアブダクションに興味がわいた。それは以前吉本の「自己表出」を認識論に応用して、その「自己表出」に対して「アブダクション」を想定していたからである。例えば、次のように、アインシュタインの思考モデルに対して、自己表出と指示表出を設定していたのである。

これはアインシュタインの思考モデルとパースの探究の三段階論の対応を提示したものである。アブダクション(仮説)―― EJA、ディダクション(演繹)―― AS、インダクション(帰納)―― SEAである。
これはいまも追究しようとしているものである。この図をブートストラップモデルと名付けてもいいのではないかと思った。くつ(ブーツ)の履き口にあるつまみ(ストラップ)、J(アブダクション)がストラップである。

分家の「自己表出」はアブダクションだが、ひるがえって、本家の「自己表出」はどうなのだろうかと思った。言語の自己表出もアブダクションといえるのではないかと考えた。そこで『言語にとって美とはなにか』を見直すことにした。

自己表出はアブダクションである6

2024-03-26 | ノート
吉本隆明の三段階論

1)第一段階は次のように図示されている。

この図の「音声」→「現実界」がマリーノスキーの第一段階である。
「音声は現実界(自然)をまっすぐに指示し、その音声のなかにまだ意識とはよべないさまざまな原感情が含まれることになる。

2)「音声がしだいに意識の自己表出として発せられるようになり、それとともに現実界におこる特定の対象にたいして働きかけをその場で指示するとともに、指示されたものの象徴としての機能をもつようになる段階である。

1)の1次元の「反射」が、2)では「自己表出と指示表出」に2次元化される。自己表出の矢印↑の先端にある有節(半有節)音声と現実対象を結ぶ右下がりの線分がマリノウスキーの第2段階にあたる。
「ここではじめて現実界は立体的な意識過程にみたされるのである。この自己表出性が生まれるとともに、有節(半有節)音声は、たんに眼前にある特定の対象をその場で指示するのではなく、類概念を象徴する間接性とともに指定のひろがりや厚さを手に入れることになる。」

3)「音声はついに眼の前に対象をみていなくても、意識として自発的に指示表出ができるようになる段階である。たとえば狩猟人が獲物をみつけたとき発する有節音声が、音声体験としてつみかさねられ、ついに獲物を眼のまえにみていないときでも、特定の有節音声が自発的に表出され、それにともなって獲物の概念がおもいうかべられる段階である。

ここではじめて有節音声は言語としてのすべての最小条件をもつことになる。」
右側の「有節音声」・「現実対象」・「対象像」を結ぶ三角形がマリノウスキーの第三段階にあたる。
「有節音声が自己表出として発せられるようになったとき、いいかえれば言語としての条件をもつようになったとき、言語は現実的な対象との一義的な関係をもたなくなった。たとえば、原始人が海をみて、自己表出として〈海(う)〉といったとき、〈う〉という有節音声は、いま眼のまえにみえている海であるとともに、また他のどこかの海をも類概念として抽出していることになる。そのために、はんたいに眼の前にある海は〈海(う)〉ということばでは具体的にとらえつくせなくなり、ひろびろとしているさまを〈海(う)の原〉なら〈うのはら〉といわざるをえなくなった。」

自己表出はアブダクションである5

2024-03-25 | ノート
マリノフスキーの三段階論

オグデン・リチャーズの三角形は、三角形の底辺に象徴と指示物、その頂点に「思想あるいは指示」が配置されているものである。

マリノフスキーの三段階論の1段階と2段階は、オグデン・リチャーズの三角形の底辺だけ、線分(1次元)の図示である。
1段階
音声反応と場が直接に結合する。
2段階
分節的な言語の発端。指示物が場から遊離し始めるが、音声は象徴ではない。行動的音声と指示物が相関する。
3段階
音声は象徴となる。1)行動的、2)物語的、3)儀式的が区別されている。1)行動としての言語(操るために用いられる)の図示は、三角形の底辺だけで、行動的象徴と指示物が結ばれている。
2)3)ではじめて三角形で表示され、底辺はどちらも象徴と指示物。頂点はそれぞれ、物語言語(比喩行動)、儀式的魔術の言語(儀式動作)である。
次に4段階目としてオグデン・リチャーズの三角形が来る。

吉本はマリノウスキーの第三段階で、「行動としての言語」と「物語言語、儀式言語」の区別に、言語の指示表出性と自己表出性との類似を見る。しかし、次のように表出論を対置する。
(引用はじめ)
しかしその意味はまったくちがっている。マリノウスキーはいわば言語がこの段階で、あるばあいに実用的につかわれ、あるばあいには儀式的、物語的につかわれるといっているので、言語の本質が対自であることによって、対他(ここでいう儀式的、物語的に相当する)か、対他であることによって対自(ここでいう行動としての言語)かの構造としてみるべきだと云っているわけではない。言語の本質はマリノフスキーのいうように、行動としての言語と儀式、物語としての言語にわけられるのではなく、ただ指示表出の面を拡大するか、自己表出の面を拡大するかによって、行動としての言語、祭式または物語としての言語があらわれることになるのだ。
(引用おわり)
この後、表出論による発達の段階が提示される。

自己表出はアブダクションである4

2024-03-22 | ノート
カッシラーの三段階論(1擬態的・2類推的・3象徴的)

2進化の特性では、まず、言語が現実から離れてゆく過程(言語成立の過程)に着目した2つの三段階論を紹介し検討している。カッシラーとマリノウスキーの三段階論である。そしてこの後に、表出論の図解を提示している。

カッシラーの三段階論(1擬態的・2類推的・3象徴的)は、音声と対象との関係で言語成立の過程を見ているものである。
1擬態的
擬声的と同じで、ニャーンで猫を指すたぐい。音声の意識は特定のものと離れられず、対象とつるんでいる。「この段階では意識から見られた世界はまだなにもない薄明である。」
2類推的
音声形式と事象の関係形式との間に類推が成り立つ段階。多くの言語で、母音a・o・uが遠方、e・iが近くを表わすたぐい。『言語の本質』第二章「アイコン性――形式と意味の類似性」ではさまざまな例が挙げられている。「音声と対象とが面をつきあわせている段階」
3象徴的 
いわば比喩的で、抽象的な前置詞後置詞のかわりに具体的な身体部分の名詞が空間表現として用いられる。「前に、後に、上に、中に」のかわりに「眼、背、頂、腹」が使われるたぐい。(音声が空間のなかに対象を見ている段階)

カッシラーの三段階論の意義は認めるが、その当否を実証することは難しいし、また言語の進化の過程には法則性は想定できない。だから、もっと確実にあとづけるには、ある「原理」に身をよせてその移行をみたほうがよいと吉本は考えた。そこで検討されるのがオグデン・リチャーズの三角形を原理として適用したマリノウスキーの三段階論である。

「カッシラーが擬声的、類推的、象徴的とよんでいる三段階は、マリノフスキーの象徴、指示、指示物の関係がオグデン・リチャーズの三角形としてなりたっていく過程とおきかえことができる。」

自己表出はアブダクションてある3

2024-03-21 | ノート
『言語にとって美とはなにか』は、これまでも何度か見直している。1章2節の冒頭、「二枚の画布」の比喩は、以前見直したときに着目した箇所だった。そのころ定式化していた「弁証法」の実例がここにもあると感動したものである。

これを記事にして、投稿しているはずだったが、ブログを探しても見つからなくて、不思議な気がした。調べてみる(記憶をたどる)と、これはOCNやso-netのサービススペースに投稿していたもので、いまのFC2には移行していないことがわかった。これは最初のホームページ「弁証法試論」の補論5「表出論の形成と複合論」だった。2005年の記事である。

「弁証法」は、まだ「ひらがな弁証法」となっていないし、自己表出はアブダクションと関連づけられていないが、基本は今も持続しているので紹介します。

    表出論の形成と複合論


自己表出はアブダクションである2

2024-03-19 | ノート
『言語にとって美とはなにか』の第一章「言語の本質」は次の3つの節からなっている。
  1発生の機構
  2進化の特性
  3音韻・韻律・品詞
今回は1発生の機構において、オノマトペの位置づけを考えてみよう。
『言語の本質』に〈オノマトペは基本的に物事の一部分を「アイコン的」に写し取り、残りの部分を換喩的な連想で補う点〉とある。吉本隆明はオノマトペを意識の「しこり」・「さわり」において見ているといえる。〈言語は、動物的な段階では現実的な反射であり、その反射がしだいに意識のさわりを含むようになり、それが発達して自己表出として指示性をもつようになったとき、はしめて言語とよばれるべき条件を獲取した。)

次は、ひろびろとした海、ザーザーと波が打ち寄せる音を背景に読んみるといいのではないかとおもう。
(引用はじめ)
たとえば狩猟人が、ある日はじめて海岸に迷いでて、ひろびろと青い海をみたとする。人間の意識が現実的反射の段階にあったとしたら、海が視覚に反映したときある叫びを〈う〉なら〈う〉と発するはずである。また、さわりの段階にあるとすれば、海が視覚に映ったとき意識はあるさわりを〈う〉なら〈う〉という有節音を発するだろう。このとき〈う〉という有節音は海を器官が視覚的に反映したことにたいする反映的な指示音声であるが、この指示音声の中に意識のさわりがこめられることになる。また狩猟人が自己表出のできる意識を獲取しているとすれば〈海(う)〉という有節音は自己表出として発せられて、眼前の海を直接的にではなく象徴的(記号的)に指示することとなる。このとき、〈海(う)〉という有節音は言語としての条件を完全にそなえることになる。
(引用おわり)傍点をゴシックて表示


自己表出はアブダクションである

2024-03-18 | ノート
新聞の広告に『言語の本質』(中公新書、今井むつみ/秋田喜美著)が載っていて興味を持った。アブダクションという言葉が目に留まったからだろうか。
一読して、これまでの歩みを振り返るきっかけにしようと思った。

オノマトペは、これまでは言語学では周辺に位置づけられていたが、これを中心に据えて考察していく姿勢に感心した。また、言語がオノマトペから離れて、その世界を拡大して過程に「アブダクション」推論が位置づけられていて(ブートストラッピングサイクル)、こちらにも感心した。

「言語」に対する関心は1970年代に遡る。偏った問題意識だったと思う。吉本隆明『言語にとって美とはなにか』に強くひかれていた。そこで展開されていた表出論はその後に構想した「認識論」の基礎になった。

カテゴリー「自己表出と指示表出」や「アブダクション」の記事に表出論を展開してきたが、まず、これらの記事を見直し整理しようと思った。

次に、オノマトペが吉本の本でどのように捉えられているか確認しようと思った。そこで『言語にとって美とはなにか』を書庫から持ってきた。半世紀前の本である(吉本隆明全著作集6、昭和47年8月20日第2刷)。

第1章は、こんど買った本と同じ「言語の本質」だった。オノマトペは自己表出と指示表出の2つの側面からとらえられていると思った。

つづく

伊東俊太郎と「発見的思考の分類」

2023-09-26 | ノート

昨日(9/25)の新聞に伊東俊太郎死去(93歳)の記事が載っていた。比較文明論者、科学史家と紹介されていた。比較文明学が主だったと思うが、わたしには「科学的発見の論理――創造の科学哲学的考察」(伊東俊太郎『科学と現実』中公叢書1981所収)が伊東俊太郎と直結する。特に「発見的思考の分類」には何度も立ち返った。

「発見的思考の分類」に関連する2つのエッセイを掲げておこう。

1 楕円の発見と周期律の発見(2018-05-31)

2 「発見的思考」と「テマータ」の結合(2009-01-11)

 

1 楕円の発見と周期律の発見(2018-05-31)

ハンソンは『科学的発見のパターン』で、「ケプラーの仕事は、ティコのデータを基にしたとき、それらのデータのすべてを包含してくれるもっとも簡単な曲線は何であろうか、という問題だった」と述べている。このハンソンの指摘を見て、『科学的発見のパターン』の「パターン」は、伊東俊太郎の「システム化」と対応するのではないかと思った(「科学的発見の論理」『科学と歴史』所収)。
伊東俊太郎は「発見的思考」を、A帰納(induction)によるもの・B演繹(deduction)によるもの・C発想(abduction)によるものの三つの思考方式に大きく分け、「C発想」のなかを、さらに1類推によるもの・2普遍化によるもの・3極限化によるもの・4システム化によるものと細分している(注)。
「システム化によるもの」とは、「多くの事実を、ある観点から1つのシステムとして関係づけ、そこに法則を発見するものである。」
例えば、同じ要素・同じデータの集まり(第1図)に対して、観点によって、さまざまにシステム化できる(第2,4,5図)。

「同じものを見ていながら、そこに新たに観点を導入することにより、それらを異なったパターンないし関係において捉え直すことがシステム化による発見である。」
伊東俊太郎は、メンデレーエフによる元素の「周期律」の発見をシステム化の例として挙げている。わたしは、ケプラーの「楕円軌道」の発見を追加したいと思う。
「ティコのデータを基にしたとき、それらのデータのすべてを包含してくれるもっとも簡単な曲線」は、円でもなく卵形でもなく楕円だった。
ニュートン力学の形成過程と周期律の形成過程にはいろいろ興味深い対応があるが、ケプラーの楕円の発見とメンデレーエフの周期律の発見が同じ「システム化」というのは特に興味深い。

(注)

発見的思考の分類 (伊東俊太郎「科学的発見の論理」より)
発見的思考
A帰納 ボイルの法則、スネルの法則
B演繹 ニュートンの逆自乗の法則
C発想  1類推 ダーウィンの自然選択説、ドゥ・ブロイの波動力学
2普遍化 ニュートン力学、アインシュタインの相対性理論
3極限化 ガリレイの「慣性の法則」・「自由落下の第一法則」
4システム化 メンデレーエフの周期律

 

2 「発見的思考」と「テマータ」の結合(2009-01-11)

 「もうひとつのパスカルの原理」(『試行』№70 1991)で提起した複素過程論は、バイソシエーション(ケストラーの創造活動の理論)を、わたしなりに総括したものである。複素過程論を発展させていこうとする試みのなかで、思いがけない出来事が起こった。複素過程論が弁証法の理論と結びつくように思えてきたのである。それ以来、弁証法について考えている。

 複合論は弁証法の新しい理論である。しかし、なによりも創造活動の理論である。もちろん、複合論(弁証法)はすべての創造活動を要約するものではない。創造活動の一つの領域に位置するのである。

 複素過程論から複合論を切り離し、弁証法の理論として提起するさいに、重要な契機となったのは、「科学的発見の論理――創造の科学哲学的考察」(伊東俊太郎『科学と現実』中公叢書1981所収)だった。

 伊東俊太郎は、そのなかで「現代の主導的な科学哲学」が、「"発見"という創造の行為を通して発展してゆく科学の最もヴィヴィトな局面を、科学認識の論理的分析の対象となりえないとして切り落としてしまった」ことに対して、疑問を述べていた。

たしかに筆者もデータから法則や理論をひき出してくる一義的な機械的な方法は存在しないことは認める。この意味でそれに従えばいつでも発見が可能となるような「発見のアルゴリズム」はどこにもない。また発見には「創造的想像力」の必要なことも認める。さらにその発見者の素質や環境といった心理的・社会的要因も重要な役割を果すことも認める。それらをすべて認めた上でなお、この発見の過程を全く不合理なもの、直観や偶然に帰せしめるより他はない分析不能なものと考える必要はないと思う。新しい仮説を提起するにはそれぞれ「理由」(ラテイオ)があり、その意味でこの過程はなお合理的(ラショナル)なものと言いうる。それゆえそれはまた必然的な形式論理の意味では論理的ではないが、仮説提起の過程がけっして心理的社会的なもののみに還元できない、それ自身合理的に分析可能な構造をもつという意味では、論理的認識論的分析の対象となるのであり、それは、科学哲学や科学方法論の領域においてもとり上げらるべき問題であると考える。これを非合理な″霊感″といったような神秘の領域にとじこめてしまうべきではないのである。

 このような立場から、伊東俊太郎は「発見的思考」を提起した。その思考を、A帰納(induction)によるもの・B演繹(deduction)によるもの・C発想(abduction)によるものの三つの思考方式に分け、「C発想」のなかを、さらに1類推によるもの・2普遍化によるもの・3極限化によるもの・4システム化によるものと細分した。

発見的思考の分類 (伊東俊太郎「科学的発見の論理」より)
発見的思考
A帰納 ボイルの法則、スネルの法則
B演繹 ニュートンの逆自乗の法則
C発想  1類推 ダーウィンの自然選択説、ドゥ・ブロイの波動力学
2普遍化 ニュートン力学、アインシュタインの相対性理論
3極限化 ガリレイの「慣性の法則」・「自由落下の第一法則」
4システム化 メンデレーエフの周期律

 伊東俊太郎は「普遍化」の例として、ニュートン力学とアインシュタインの相対性理論をあげていた。わたしは弁証法を「発想」の中の「普遍化」と考えればよいのではないかと思ったのである。

 この「普遍化」というのは、与えられた既知の複数の理論を、ある観点から統一的に把握しうる、より一般的な理論をつくろうとすることを意味する。たとえばニュートンがガリレオによって与えられた地上の物体の運動法則と、ケプラーによって樹立された天体の運動法則とを、万有引力の観点から統一的に把握する、彼の古典力学をつくり上げたこと、またアインシュタインが、力学とマクスウェルの電磁気学を、ローレンツ変換という観点から統合する相対性理論をつくり上げたことなどが、この好例としてあげられよう。すなわち電磁気学の方はローレンツ変換を満足するが、ニュートン力学はこれを満足しないので、後者をガリレイ変換によって不変なものから、ローレンツ変換によって不変なものへと変え、両者を統合しようとしたことが、相対性理論を生み出す根本動機であった。

 「発見的思考」をアインシュタインの思考図式のなかに位置づけておこうと思う。

 ホルトンは「科学理論の形成に関するアインシュタインのモデル」(『アインシュタイン』岩波書店 2005 所収)のなかで、次のように述べていた。

 ここで、これまで手をつけないでおいた重要な問題点を、あらためてとりあげなければならない。問題はつぎのように立てられる――-図1の図式の出発点をなすEからAへの飛躍は、論理的に不連続であり、想像力の「自由な遊び」の表現であるから、そうして、この飛躍は結果として数限りないAをつくりだすのだから(もっとも、その大多数は、やがて、理論体系の形成には何の役にも立たないとわかるだろうが)、飛躍の成功の要因として、偶然のほかに、いったい何が期待できるのであろうか? J過程における自由とは、飛躍を行なうことが許されているのであり、どんな飛躍でも勝手に行なってよいわけではない、というあたりに答があるに違いない。公理体系はやがて、アインシュタインのいうよい理論の第二の判定基準にあうかどうかをみるために、自然性とか単純性のテストにかけられるのだから、その点だけからいっても、Jを導き方向づける何かがなければならない。

  図1

 ホルトンは、「Jを導き方向づける何か」を「テマータ」とよんでいる。伊東の「発見的思考」は、この「テマータ」と重なると思う。

 ケプラーの時代に始まり、アインシュタイン、ボーアをへて現代の最先端にいたる、数々の科学的仕事の個別研究を通じて、私が示そうとつとめてきたように、まさにこのような、正当性も虚偽性も立証できないが、まったく勝手でもない考え方の設定や使用が、たしかに存在するといえる。科学的思考の一定の段階では、存在するだけでなく、必然性さえあるのである。こういう一連の考え方を私はテマータとよんだ。

 ホルトンは例を挙げている。

 理論形成にあたってアインシュタインを導いたテマータとしては、つぎのようなものが認められる。形式的な(物質主義的でない)説明の優位、統一性(あるいは統一化)と宇宙論的な規模(諸法則の、経験の全領域にわたる平等な適用可能性)、論理的な倹約と必然性、対称性、単純性、因果性、完全性、連続性、それからもちろん、定値性と不変性がある。個々の場合にアインシュタインが、実験による検証が難しいとか入手不可能と思われるときでさえ、頑固にある方向の仕事を続けていった理由は、まさにこれらのテマータで説明されるのである。これはまた、テマータ的な前提条件が自分のものとは対立するような諸理論(たとえばボーア学派の量子力学)を、実験との相関はきわめてよいにもかかわらず、なぜ拒否したかをも説明する。

 そして、テマータの場所を図1に示している。

 こういう考え方も、EJASE過程にテマータの機能を明示するような修正をほどこすことによって、図1の図式に組み込むことができる(図7)。EからAへの飛躍にはいろいろありうるが、特定の理論家の採用した、あるいは思考過程にしみこんだテマータというフィルターを通るときに、一つか二つに濾過されてしまうのである。たとえば、アインシュタインの一九〇五年の相対論の論文の冒頭で、要請の地位にひきあげられる二つの推測も、テマータによって方向づけられている。ここでは諸法則の大規模で平等な適用可能性、不変性、論理的な倹約、形式的な説明の優位といった要求をあらかじめたてているわけである。

     図7

 伊東俊太郎の「発見的思考」は図のθと同じ場所にあり、J(飛躍)を方向づけていると思われる。
 さて、テマータは、themata と書くようである。(「パラダイム」から科学的探究の源泉としての「テマータ」へ From "Paradigm" to "Themata" as Origins of Scientific Thought 杉山 聖一郎 1愛媛大学法文学部 参照) themataは、thema(=theme)の複数形である。thema(=theme)は、テーマ(主題・主旋律など)のことである。しかし、認識の枠組みを意味する「パラダイム」が、語形変化の一覧表に基づいていることと対照すれば、テーマは、主題というよりも、語形変化において変化しない部分、すなわち「語幹」と捉えた方が根本的だと思われる。テマータ(themata)は「語幹群」である。

 「正当性も虚偽性も立証できないが、まったく勝手でもない考え方の設定や使用が、たしかに存在するといえる。科学的思考の一定の段階では、存在するだけでなく、必然性さえあるのである。こういう一連の考え方」(テマータ)と「発見的思考」は対応していると考えられる。

 しかし、上に挙げられているテマータの例(硬い訳語ばかりである)は雑然としているように思われる。すくなくとも伊東俊太郎の発見的思考の分類ほど整然とはしていない。ホルトンがテマータとして挙げている例を切り捨て、「発見的思考」のA帰納・B演繹・C1類推・C2普遍化・C3極限化・C4システム化を、テマータ(「語幹」)の例としてみた方がわかりやすいのではないかと思われる。

 ホルトンは「一九〇五年の相対論の論文の冒頭で、要請の地位にひきあげられる二つの推測」(相対性原理と光速度一定の原理)が、テマータ(諸法則の大規模で平等な適用可能性、不変性、論理的な倹約、形式的な説明の優位)によって方向づけられるとみている。

 これに対して、わたしは、二つの推測は「弁証法」によって方向づけられると主張することになる。