対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

HBCにおける推論と仮説設定の位置

2024-04-29 | ノート
最近(ここ1か月ほど)のカテゴリー「ノート」の記事は、『言語の本質』(中公新書)の中にパースのアイコンとアブダクションが取り上げられていたことがきっかけになっている。

吉本の言語の自己表出を認識論に応用して、アブダクションを自己表出に位置づける思考モデルを作っていた。

アインシュタインの思考モデルとパースの探究の三段階論の対応 アブダクション(仮説)―― EJA、ディダクション(演繹)―― AS、インダクション(帰納)―― SEA

最初、分家の自己表出はアブダクションだが本家の自己表出はどうなのかということを「自己表出はアブダクションである」で考察して、言語論においても自己表出はアブダクションと考えてもいいのではないかという見解を示した。

次に出てきた問題は、演繹法・帰納法・仮説設定法(ディクション・インダクション・アブダクション)の関係についてである。この関係も上の思考モデルで位置づけている。これはパースの位置づけを基礎にしたものである。しかし、その位置づけは中山正和とは違っているので、その関係を明確にしようと思った。中山正和はHBCモデルを提示していたので、この図を使って違いを示すのが妥当と思われた。

中山正和のHBCモデル

パースは演繹(ディダクション)を解明的推論とし、帰納(インダクション)と仮説設定(アブダクション)を拡張的推論としている。中山はパースが仮説設定を「推論」に位置づけていることに対して異論を提起している。その根拠になっているのは独特で魅力的な創造論(「いのち」の知恵、仏の知恵)である。
(引用はじめ)
「仏」というのは、本当は「佛」という字を書くので、これは「イ」(人)に「弗」(あらず)という意味である。自然システムに組み込まれているすべてのものや出来事のうち、人間を除いたものをいうのである。これらのものは自然システムに素直に組み込まれている故に知恵をもっているが、人間だけがコトバを操っていろいろ悪いことを考える。コトバが知恵を阻止するのである。
(引用おわり)
「推論」は理性的なものでコトバによるのに対して、「仮説設定」はコトバによらないので、明らかに「推論」ではないと考えられている。
中山は推論(演繹・帰納)と発見(仮説設定)をHBCモデルで次のように捉えている。
推論
〔W・R〕⇆〔W・S〕+〔I・S〕
仮説設定
〔S→O〕→〔I・S〕

(引用はじめ)
問題が解けないというのは、いのち(〔S→O〕)にとって不快なことである。W・RとW・Sという「理性」では解決できない、つまり、いままでの法則によって演繹した結果と、自分が経験した事実から帰納した結果とが対立・矛盾することであるから、ここに何かこの対立・矛盾を止揚するような仮説がほしい。それを〔S→O〕が過去の経験に求めるのである。
(引用おわり)

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