今日は、フレデリック・ショパンがウィーンに到着し、演奏会に出演した日です(1829年)。
1810年生まれのショパンは、19歳になっていた。29年の7月に、ワルシャワの音楽院を卒業したショパンは、「際立った才能の持ち主」との評価を得、父親は息子をウィーンへと飛び立たせる。ベートーベンが亡くなってから2年、シューベルトが亡くなった翌年に当たるが、ウィーンは依然パリと並ぶ音楽の都であることには変わりなかった。ここで演奏したのは、自作の「ドン・ジョヴァンニの『お手をどうぞ』による変奏曲」と「演奏会用ロンド『クラコーヴィヤク』」の2曲で管弦楽の伴奏を持つピアノ曲だった。2回の演奏会はともに好感を持って迎えられた。幸運にも、演奏会の成功は、自作の出版を齎し、気を良くして、8月半ばウィーンを立ち、プラハ、ドレスデンを通過し、ワルシャワへと戻った。
この1829年は、ショパンにとってもポーランドにとっても大きな意味を持つ年だった。ナポレオンの敗退後、ウィーン会議により、ポーランドはロシア・プロイセン・オーストリアにより再度分割され、ワルシャワ大公国の大部分をロシアが占領し、「ポーランド王国」を立てたが、ロシア皇帝ニコライ1世が王位に就いた。ポーランドはロシアに併合されたわけだ。ロシアの支配を快く思わない愛国的ポーランド人は秘密結社を組織し、29年の春には、ワルシャワに革命の気運が起こった。そして30年になると、7月にパリで起こった七月革命とその余波を受けたベルギーのオランダからの独立があり、これらはポーランドの革命運動を激しく揺さぶった。11月蜂起がそれである。翌31年1月、議会はニコライ1世の退位を宣言するにいたり、独立したかに見えたが、秋には、ロシア軍のワルシャワ軍事占領により、ポーランド王国は廃止され、ロシアの1州となった。ショパンは、この年、ウィーンからザルツブルク、ミュンヘン、シュトゥットガルトと旅行したが、シュトゥットガルトでロシア軍によるワルシャワ陥落の報に接した。この頃、ショパンは作品10の練習曲を作曲していたが、その12のハ短調は激しい感情に見舞われ産み出された作品であることが聴く人には分かるであろう。これは一般に「革命」の名で呼ばれている。
1810年生まれのショパンは、19歳になっていた。29年の7月に、ワルシャワの音楽院を卒業したショパンは、「際立った才能の持ち主」との評価を得、父親は息子をウィーンへと飛び立たせる。ベートーベンが亡くなってから2年、シューベルトが亡くなった翌年に当たるが、ウィーンは依然パリと並ぶ音楽の都であることには変わりなかった。ここで演奏したのは、自作の「ドン・ジョヴァンニの『お手をどうぞ』による変奏曲」と「演奏会用ロンド『クラコーヴィヤク』」の2曲で管弦楽の伴奏を持つピアノ曲だった。2回の演奏会はともに好感を持って迎えられた。幸運にも、演奏会の成功は、自作の出版を齎し、気を良くして、8月半ばウィーンを立ち、プラハ、ドレスデンを通過し、ワルシャワへと戻った。
この1829年は、ショパンにとってもポーランドにとっても大きな意味を持つ年だった。ナポレオンの敗退後、ウィーン会議により、ポーランドはロシア・プロイセン・オーストリアにより再度分割され、ワルシャワ大公国の大部分をロシアが占領し、「ポーランド王国」を立てたが、ロシア皇帝ニコライ1世が王位に就いた。ポーランドはロシアに併合されたわけだ。ロシアの支配を快く思わない愛国的ポーランド人は秘密結社を組織し、29年の春には、ワルシャワに革命の気運が起こった。そして30年になると、7月にパリで起こった七月革命とその余波を受けたベルギーのオランダからの独立があり、これらはポーランドの革命運動を激しく揺さぶった。11月蜂起がそれである。翌31年1月、議会はニコライ1世の退位を宣言するにいたり、独立したかに見えたが、秋には、ロシア軍のワルシャワ軍事占領により、ポーランド王国は廃止され、ロシアの1州となった。ショパンは、この年、ウィーンからザルツブルク、ミュンヘン、シュトゥットガルトと旅行したが、シュトゥットガルトでロシア軍によるワルシャワ陥落の報に接した。この頃、ショパンは作品10の練習曲を作曲していたが、その12のハ短調は激しい感情に見舞われ産み出された作品であることが聴く人には分かるであろう。これは一般に「革命」の名で呼ばれている。