怪しい中年だったテニスクラブ

いつも半分酔っ払っていながらテニスをするという不健康なテニスクラブの活動日誌

1月7日鶴舞公園テニスコート

2024-01-09 14:33:36 | テニス
明けましておめでとうございます。
今年のテニス初めは1月7日。若かりし頃は1月1日からテニスをしていた時もあるのですが、歳を重ね孫の相手をしなければいけないメンバーも増えて正月は家でおとなしくすることに。
穏やかな正月でしたが、元旦には能登大地震が発生し、名古屋も震度4。揺れ始めは眩暈がしたのかと思っていたのですが、やがて植木鉢や電灯が揺れ出してこれは地震だ!揺れは結構長く続いて慌ててテレビをつけたら能登は大変なことになっているみたい。交通途絶で絡付かない地域も多くて被災者は日を追って増えていく。
追い打ちのように羽田の滑走路で事故があり、2024年は波乱の新しい年になりました。
正月のテレビ番組もかなり変更になったのですが、テレビ東京だけはすぐに戻したのはある意味立派。
それでも7日の朝は晴れて、日の出前の6時30分は東の空に宵の明星が見え明るくなりかけ月が残っていますが雲は少ない。

冬型の気圧配置で気温は低く風が冷たそうです。
支度をして9時に家を出て雁道バス停へ。交差点の手前でバスが走り去っていき次のバスまで10分待つ羽目に。
バス停にはカラスに注意の張り紙が。

カラスがバス停で待っている人を襲う?どうも状況がよくわからないのですが、ゴミをあさりつつ人間にもつついてくるのか?
バスに乗れば10分ほどで鶴舞公園へ。
鶴舞公園公会堂では丁度昭和区の成人式で、昭和区は学区ではなく区全体の式を公会堂で行うので、晴れ着姿の若人が集まり華やかです。

でも男性は北九州のように奇抜な服装の人はいなくて背広姿。通りすがりながら若いエキスを吸い込むべく深呼吸していきます。
結局9時30分にコートに着いたのですが、既にヤッターマン、えみちゃん、はげ親父が乱打をしていてベンチには森の熊さんもいます。
準備運動をして早速5人でボレーとストロークに分かれて乱打を始めます。
そのうちに飲めない飲むと1059さんが来て、今回は7人です。
入れ替わり乱打を一回りして休憩します。
天気は雲の流れによって太陽が隠れ突然曇ったり晴れ間がのぞいたりと変わっていきます。細かい雨が降ってきた時もあって太陽が隠れている時は風も冷たく寒い。
休んでいても寒いので早々にじゃんけんして試合にします。
最初はヤッターマンと組んで森の熊さん、飲めない飲む組と対戦。最初の私のサービスゲームは体が温まっていないこともあり(言い訳ですけど)ミスを重ねて落としましたが、後はヤッターマンの働きで3ゲーム連取して3:1の勝利。
休憩中にさすがにビールを飲む輩はいなくて、この日は私の持参したお菓子とヤッターマンのチョコで糖分補給。

次の試合はえみちゃんと組んで森の熊さん、ヤッターマンの強力コンビと対戦。1ゲームでも取れればと思っていたらラッキーパンチもあって2:2の引き分けに持ち込めました。
続いて1059さんと組んでえみちゃん、ヤッターマン組と対戦したのですが、ヤッターマンに歯が立たず、こちらの自爆もあって0:4の完敗。ラブゲームが2回と奪えたポイントが2ポイントという惨敗でした。
太陽が出てくると気温は低くてもそれなりに暖かく,お日様の偉大さが分かります。

最後の試合ははげ親父と組んで飲めない飲む、森の熊さん組と対戦。一進一退の展開だったのですが、最後のゲームに思わぬ飲めない飲むのスーパーショットを食らいブレークされて2:2の引き分け。同じようなボールを何回もミスしていたのに最後の最後にスーパーショットが出るとは…
11時40分でしたがこれ以上やることなくコート整備して終了します。
この日私は4年ぶりに東京へ行った二男が帰って来ると言うので直帰することに。寒いのでみんなはいつもの紫禁城で火鍋を食べると言っていました。
今年1年の無事を祈るテニス初めでした。
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呉座勇一「日本中世への招待」

2024-01-06 08:40:54 | 
著書の「応仁の乱」がベストセラーになって一躍脚光を浴びた呉座勇一さん。
日本中世(概ね平安末期から戦国時代まで)史が専門なのですが、その間には源平合戦、南北朝内乱、戦国騒乱と大きな戦いが続いた時期があって、小説、ドラマで取り上げられ大河ドラマの舞台に何回なったことか。やたら武将とか合戦に詳しい歴史ファンも多い。
しかし、そんな戦ばかりをして人々は生きていた訳ではない。中世を生きていた人々は実際にはどんな生活を営んでいただろうか。どういう心情を持ち、どういう価値観で日々の生活を営んでいたのだろうか。そこは現代のわれわれとは違った死生観があり、家族観があり、教育があった。そんな中世の生活を文献、絵画などを駆使して一般向けに詳らかにしたのがこの本。

先ずは家族の姿ですが、平安時代はよく知られているように男が女の家に訪ねていくことが多く婿取婚だったのだろうが鎌倉時代に入ると嫁取婚になってくる。ただ貴族・武士の家と百姓の家と家族形態は同じではないみたい。貴族の日記とか政治史を見てみると彼らの家継承の姿とか結婚の在り様は分かるのですが、庶民の在り様は、当時の人々にとって当たり前のことを残す必要性がなかっただけに文献が乏しくて推測するしかない。それでも戦国時代になるとキリスト教宣教師が日本で見聞きしたことを報告した文書が残っていて外国人から見た日本の姿が露になっている。もっともキリスト教から見た異文化理解へのバイアスがあり、話を盛っている面もあると思うのですが、貴重な資料ではあります。
教育についてもルイス・フロイス「日欧文化比較」に記述があるのだが、武士、百姓はお寺で勉強するとある。当時からまさに寺子屋。高等教育機関として比叡山、高野山、足利学校(他に根来、近江)が挙げられている。平仮名はかなり普及していて、女子でも文字が読み書きできるのはヨーロッパより進んでいる。もっとも当時の武士はもっぱら平かなしか使えなかったとか。一般庶民の教育を担っていたのは寺院でも主に禅宗の寺院。どうしてかは読んでみてください。
生老病死についても当時の実情を述べていますけど、出産をする産屋は通りから丸見えだったのかどうかを考察。当時の絵画では産屋は通りに面して開かれているのですけど絵画手法という説もあり不特定多数の人に公開されていたと言うのはさすがに如何なものか。当時は何歳から老人かというとどうやら60歳。惣村の構成員は60歳までで、庶民も武士も60歳を過ぎたら隠居しているみたい。私も10年前から隠居しなければいけなかった。もっとも当時の平均寿命は50歳にも満たなかったはずで60歳になればは余命わずか。平均寿命80歳とならん現在と比べても体力的にはぼーっとするしかなかったか。葬儀の在り様からお墓事情までも書いてあります。墓石を置くようにしたのは鎌倉時代以後みたいですし、その頃庶民はお墓もなくてそのまま河原とか山野に死体を置いてくる風葬。室町時代になると石塔を置くと言うことが上層農民から徐々に普及してくる。
第2部の交流の歴史学では中世の宴会、寺社巡り、誕生日会、お正月から接待、遊戯、贈答、おもてなしなどなど多方面にわたって述べてあり、適当に興味のありそうなところを拾い読みしてもいいでしょう。中世の人々も現代人とあまり変わらない心情のところもあり、あれっと思うところもあったりして、でも日本人だなと思うのです。
この本のいいところは最後に中世史に関心を持った人のために読むべき本の紹介をしていること。初心者向けから歴史に詳しい人向けまで網羅していて、私も読んでみようかなと触手が動く本が何冊かありました。もちろんごく初心者向けのものばかりですけどね。早速図書館システムのカートに入れておいた本もあります。
例年だと年末年始は図書館で10冊まで借りることが出来ることもあって5~6冊借りて読むのですが、今年は3冊だけ。
頭をクールダウンさせるために読んだのは東野圭吾の「人魚の眠る家」

3が日では読み切れずに5日にようやく読み終えました。テーマは脳死状態になった子どもへの親の思いと臓器移植。正月に読むには重すぎるテーマですが、そこはさすが東野圭吾、そんなことを深く考えたこともない門外漢の私にも考えさせながら読ませます。
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門松はもはや絶滅危惧種?

2024-01-04 11:21:32 | Weblog
正月には歳神様をお迎えするために門に門松をたてる風習。私の子どもの頃はあちこちにたっていました。
門のある様な立派なお屋敷では必ずでしたし、公設市場とかちょっとした商店でもあったような記憶です。
でももはや門松をたてているようなところは少なくなっている。
年末年始に散歩しながらどのくらいあるのか見てみました。
最初は白鳥庭園。

ここは門松の本場?なので当然入口に立っています。
実は熱田区に旗屋地区だけに独特の門松があって、それは清羽亭の入り口に飾ってあります。

竹の葉をつけてたてているものでこの地域独特のものとか。なぜか帰宅の料亭しらたまはこの門松だそうです。
ついでに熱田神宮公園にも行ってみたら管理事務所にも小振りですけどちゃんと門松がたっていました。

因みに熱田土木事務所は何の愛想もなし。公共機関は宗教性のあることには経費を支出できないのでスルーと言うことでしょうかね。
日本ガイシ本社とか東邦ガス本社にも見当たらなかったのですが、一昔前なら必ずあったような気がするんですけど。
もっとも東邦ガスの隣の関連会社の山田商会にはありました。

神宮前のパレマルシェにもなかったのですが、もはや商店でも門松をたてるところはほとんどないか…
そう思って見渡すと中京眼科には門松が。

さらに道路の向かい側の整体にも門松が。

医療機関が歳神様を迎える理由はないような気がしますが、利用者が高齢者が多いのでこういうことは大事にする?
いまだに門松がたっているところはどういうところかと気になりだして、散歩しながら見てみると高齢者の利用繋がりなんでしょうか老人施設にはちゃんと立っていました。


商業施設では熱田イオンにはたっていないと思っていたのですが、いつも私が使う南側入口にはないのですが、正面玄関にはちゃんと門松がありました。

鶴舞公園では緑化センターでは門松があったのですが、ここは指定管理だから問題ない?

都会生活では歳神様をお迎えすると言うようなこともなく、もはや門松も造園関係のところだけのものになってしまったのか。
まあ、イオンは元旦も営業だし、コンビニは年中無休なのだから正月気分もないか。
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養老孟司「養老先生再び病院に行く」

2024-01-02 20:07:17 | 
東大医学部の教授をしていて当然医師である養老先生ですが、医者嫌い。
健康診断とかがん検診とかは受診したことがないのだが、2020年6月に体重が激減(何と15キロ減)して、さすがにこれは尋常ではないと思い東大医学部の中川さんに頼んで受診。
中川先生としては体重の激減としてはがんを疑い、この際ばかりにいろいろ検査を行ったのだがのだが、結果は心筋梗塞。すぐにステントを入れる手術をして2週間ほど入院しています。痩せたのは糖尿病が原因で入院時のヘモグロビンA1Cは10.2!。いろいろ検査しても幸いなことにがんは見つからず、大腸にポリープは見つかったのですがほかっておけばいいと切除はせず。それでも白内障の手術は受けています。
入院時は養老先生曰く俎板の鯉でわがままを言うことなく懸念していた禁煙もきちんと守って無事退院します。
この辺のいきさつは「養老先生病院に行く」に詳しく書いてあるのですが、これはその続編。

基本的に病院嫌いの養老先生は退院後の通院は適当にスルーして薬(一日9錠)だけは服用している状況でしたが、あまり受診しないのも中川先生に悪いと思ったのか、1年数か月ぶりに東大病院に受診することに。糖尿病は血糖値の管理が大切なのですが、養老先生は自己流(一応青木厚「空腹こそ最強のクスリ」という根拠はあり)の一週間1日16時間絶食でヘモグロビンA1Cまで下げて糖尿病医師を黙らせている。中川先生もこの爺さんに何を言っても無駄かもしれないと思いつつ自分なりの健康法をしていることに苦笑しているのが目に浮かびます。
退院後2年ほどの経験を踏まえて、老い、医療、健康、死などをの養老先生が縦横無尽に語っています。中川先生はそんな養老先生に全面的には賛同できないとしても、一理ある面もあるかとフォローしつつ語っています。
それにしても齢85歳になる養老先生には怖いものなし。その主張は小気味よく、都合のいい点だけはうまみ食い的に取り入れたい気分です。最近ベストセラー連発の和田秀樹が主張しているところとも重なります。因みに和田秀樹は中川先生と東大医学部の同級生とか。先日心筋梗塞で亡くなった近藤誠さんの主張とも重なっています。近藤誠さんは中川先生の先輩で、その主張に首肯できないところは多くても考慮すべき観点は多々あると言っています。近藤誠さんは死ぬのならがんがいいと言っていましたが、その点では中川先生も同感。でも近藤先生、心筋梗塞で急死したんですよね。
養老先生、大腸ポリープが見つかったのですが、そんなものは調べなければ存在しないし、ポリープからがんになるのには20年かかるのだから80過ぎの自分には関係ない。かゆみが強いので内科の教え子に相談したらかいちゃダメ、かゆみで死んだ人はいないのだからよほどひどくならない限り我慢しろというのは如何なものか。
愛煙家で入院中こそ禁煙していたのですが、退院すれば吸いたい時にはたまに吸っている。肺気腫があるそうですけど歩けば気持ちいいのでそんなに肺は壊れていない。これまでタバコが普及してきたのはメリットもたくさんあったからで、脳に溜まっている無秩序を清算してスッキリさせていると言う。さらに言えばタバコをやめて発がんリスクが吸わない人と同じになるのは20年かかるので85歳の自分には意味がないと言うのは、納得します。
養老先生は死とは自分ではどうしようも出来ないことなので「気が付いたら死んでいる」でいいと言う。いろいろ物をため込んでは残された家族に迷惑かけると言うけれど何事も順送りで残された者は大変だけどそう言うことが順送りに繰り返されるのが人生というものなんです。死んだ後も自分の思い通り世界を動かそうと言うつもりなのかと言われると一言もありません。
中川先生も言っていますが、「老い」と「加齢」は違い、加齢による身体的能力は衰えても老いによる経験値は的確な判断に資している。
加齢による連続的な体調変化は恐れることではないが不連続な体調変化には気を付けなければいけない。
認知症の発症リスクの一番多いのは難聴で8%とか。聞こえにくくなったら迷わず補聴器をつけましょう。口腔ケアも大切で日本では欧米と比べて遅れていて、中川先生は月1回歯垢歯石除去のケアをしてもらっていると言うのですが、私は歯医者に3月に一度と言われていて、言われると律儀な性格なのでそれは守っています。
血糖値の管理についても脳が使うエネルギー源は基本的にブドウ糖なので血糖値が下がりすぎると脳が働かなくなる。下げればいいと言うものではないみたいです。そう言えば和田秀樹さんも検査数値は気にするじゃないと言っていましたよね。
胃癌の原因と言われているピロリ菌ですが、除菌すると胃がんのリスクは減っても逆流性食道炎になるリスクがあり、元々全員持っているものを強制的に除菌した場合長期的にどうなるのエビデンスはない。まあ、ピロリ院を除菌しても85歳の養老先生にはがんのリスクを減らすメリットはないのでしないと断言。血圧についても薬は絶対飲まない。血圧というのは体の方で勝手に調整しているのだから外から余計なことをするんじゃないと思っていると言われると最近血圧が高めの身としては、まあ、いいかと勇気づけられる。
養老先生は具合が悪くなったら1週間様子を見ると医者に行くべきかどうかが分かると学生時代に習っているのですが、今でもその教えを守っているみたいで、自分の体の声を聴いてみることです。
病院の医師としては反論が多いと思いますけど85歳になっても活発に発言している養老先生に向かっては何も言えないのでは…
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