怪しい中年だったテニスクラブ

いつも半分酔っ払っていながらテニスをするという不健康なテニスクラブの活動日誌

呉座勇一「日本中世への招待」

2024-01-06 08:40:54 | 
著書の「応仁の乱」がベストセラーになって一躍脚光を浴びた呉座勇一さん。
日本中世(概ね平安末期から戦国時代まで)史が専門なのですが、その間には源平合戦、南北朝内乱、戦国騒乱と大きな戦いが続いた時期があって、小説、ドラマで取り上げられ大河ドラマの舞台に何回なったことか。やたら武将とか合戦に詳しい歴史ファンも多い。
しかし、そんな戦ばかりをして人々は生きていた訳ではない。中世を生きていた人々は実際にはどんな生活を営んでいただろうか。どういう心情を持ち、どういう価値観で日々の生活を営んでいたのだろうか。そこは現代のわれわれとは違った死生観があり、家族観があり、教育があった。そんな中世の生活を文献、絵画などを駆使して一般向けに詳らかにしたのがこの本。

先ずは家族の姿ですが、平安時代はよく知られているように男が女の家に訪ねていくことが多く婿取婚だったのだろうが鎌倉時代に入ると嫁取婚になってくる。ただ貴族・武士の家と百姓の家と家族形態は同じではないみたい。貴族の日記とか政治史を見てみると彼らの家継承の姿とか結婚の在り様は分かるのですが、庶民の在り様は、当時の人々にとって当たり前のことを残す必要性がなかっただけに文献が乏しくて推測するしかない。それでも戦国時代になるとキリスト教宣教師が日本で見聞きしたことを報告した文書が残っていて外国人から見た日本の姿が露になっている。もっともキリスト教から見た異文化理解へのバイアスがあり、話を盛っている面もあると思うのですが、貴重な資料ではあります。
教育についてもルイス・フロイス「日欧文化比較」に記述があるのだが、武士、百姓はお寺で勉強するとある。当時からまさに寺子屋。高等教育機関として比叡山、高野山、足利学校(他に根来、近江)が挙げられている。平仮名はかなり普及していて、女子でも文字が読み書きできるのはヨーロッパより進んでいる。もっとも当時の武士はもっぱら平かなしか使えなかったとか。一般庶民の教育を担っていたのは寺院でも主に禅宗の寺院。どうしてかは読んでみてください。
生老病死についても当時の実情を述べていますけど、出産をする産屋は通りから丸見えだったのかどうかを考察。当時の絵画では産屋は通りに面して開かれているのですけど絵画手法という説もあり不特定多数の人に公開されていたと言うのはさすがに如何なものか。当時は何歳から老人かというとどうやら60歳。惣村の構成員は60歳までで、庶民も武士も60歳を過ぎたら隠居しているみたい。私も10年前から隠居しなければいけなかった。もっとも当時の平均寿命は50歳にも満たなかったはずで60歳になればは余命わずか。平均寿命80歳とならん現在と比べても体力的にはぼーっとするしかなかったか。葬儀の在り様からお墓事情までも書いてあります。墓石を置くようにしたのは鎌倉時代以後みたいですし、その頃庶民はお墓もなくてそのまま河原とか山野に死体を置いてくる風葬。室町時代になると石塔を置くと言うことが上層農民から徐々に普及してくる。
第2部の交流の歴史学では中世の宴会、寺社巡り、誕生日会、お正月から接待、遊戯、贈答、おもてなしなどなど多方面にわたって述べてあり、適当に興味のありそうなところを拾い読みしてもいいでしょう。中世の人々も現代人とあまり変わらない心情のところもあり、あれっと思うところもあったりして、でも日本人だなと思うのです。
この本のいいところは最後に中世史に関心を持った人のために読むべき本の紹介をしていること。初心者向けから歴史に詳しい人向けまで網羅していて、私も読んでみようかなと触手が動く本が何冊かありました。もちろんごく初心者向けのものばかりですけどね。早速図書館システムのカートに入れておいた本もあります。
例年だと年末年始は図書館で10冊まで借りることが出来ることもあって5~6冊借りて読むのですが、今年は3冊だけ。
頭をクールダウンさせるために読んだのは東野圭吾の「人魚の眠る家」

3が日では読み切れずに5日にようやく読み終えました。テーマは脳死状態になった子どもへの親の思いと臓器移植。正月に読むには重すぎるテーマですが、そこはさすが東野圭吾、そんなことを深く考えたこともない門外漢の私にも考えさせながら読ませます。
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