華々しいデビューだった「アベノミクス」も最近は少々色褪せてきてマイナス面が言われてきています。それでも第1の矢、第2の矢で円安になり株価は上がりデフレマインドもかなり改善してきたことも事実。もっともこれについても世界経済の中でのめぐりあわせの運が良かったという説もありますが、まあ、運も実力のうちと言えるかもしれません。
でも第1の矢、第2の矢は、落ち込んだ日本経済を立ち直らせるための緊急避難的カンフル剤で、本命は第3の矢の成長戦略ということは疑いないことです。
本書は、その成長戦略がまやかしに過ぎないと詳細に論じています。新書本ながら読み応えがあります。
ところで第3の矢として打ち出された成長戦略ですが、そもそも政権の打ち出すものは、様々な制約条件の中で利害調整を経てきたものである以上大胆なものは出て来ようがない。結果、現状維持に近いつまらないものにならざるを得ない。そして経済の離陸期ならともかく民間の持っていない知恵を政府が持っている可能性は低いことから政府がターゲッティングポリシーにより有望な産業なり地区を選んでも成功する可能性も低い。右肩上がりの高度成長期なら投資が投資を呼ぶということが期待できたけど、今となってはそれは時代錯誤の美しい幻を追っているだけ…
規制緩和にしてもそもそも規制は既得権益のためのものであり緩和しても規制は残り、秩序は維持し、既存の経済構造を守り、既存の成功企業を守ることになるだけ。これでは成長できない。
アベノミクスとは、現在の既得権益層を守り、刺激することで効率よく短期的に景気を良くする政策なのです。
第1の矢の大胆な金融緩和は円安効果によって、既存の日本の経済構造をあえて固定するものになっている。
第2の矢の機動的な財政出動は、景気を短期的に加熱させ、改革すべき現在の経済構造を固定化し、かえって成長を妨げる。機動的な財政出動による公共事業という需要は最も質の悪い需要で、やるなら現金を地方の消費者にばらまいたほうが成長につながる。財政出動頼みでは民間企業がそれに依存し、かつ付加価値を生み出さない活動に傾倒してしまい進むべき経済の方向性を過たせてしまう。
今や日本企業は設備投資依存の経済構造から脱却すべきであり、人に投資することが必要で、それによって日本という場が、新しいものを生み出す場としての意味を持ち、長期的な経済成長を生み出す場になる。
今政府の打ち出しているビジョンでは、
第1に政府が社会と経済をコントロールできるという考え方に立っているが政府の力と役割には限界があり、環境整備以上のことはできない。
第2に経済の主体が企業と考えているが、企業はあくまで箱に過ぎなく箱の中身の働き手であり消費者でありの人「個」が主役である。スポーツ、デザイン、料理などの分野での活躍によって日本人の「個」の素晴らしさを世界の人々が認識するようになっている。
第3に成長戦略は今日本が全くダメな国でありこのままでは経済が破たんするという前提に立っている。結果一発逆転のために既存のものをすべてぶっ壊せという議論が行われる。しかし経済の実態は失われた20年と言われているが、成熟国家としてそのパフォーマンスは決して悪くない。悲観論にはバブル期の日本へのイメージへの郷愁がある。かつての日本を代表したソニー、パナソニックなどの企業の不振への危機感がある。しかしバブル期の日本が世界的に見ても異常だったのだし、新しい企業も次々と出て来ている。いわば企業の世代交代が進んだのでしょう。失われた20年で失われたのは好景気ではなく供給過剰の状態に落ちいっている日本経済の実力というか潜在成長力。それを輸出なり財政出動で糊塗してきたのが実態です。
そもそも構造改革は短期的な政策ではなく、それが効果を出すにはおそらく一国の首相の任期を超えた長い時間がかかる。アベノミクスは成長戦略という名の「既存の枠組みを効率的に活用する政策」を実行しようとしているが、これは企業を守ることによって経済を弱める戦略になってしまう。
成長戦略の目玉の一つが特区戦略ですが、生産力は立地条件によって作られるのではなく、誘致された企業によって作られるのでもない。住んでいる人によって作られるのです。街や社会は生き物であり、政府は街や社会が育つための支援しかできないのであり、設計はできない。日本の魅力と力の源泉は東京などの大都市ではなく、地方にあり、地方の魅力の集積が東京の魅力です。よく引き合いに出されるシンガポールは組織としては魅力的であっても人々が生活者として暮らしている社会としては望ましいのだろうか。条件がいいというだけで移動してくる企業や人は、その地域に定着せず地域社会に価値をもたらさない。都市や地域を長期に持続可能なものにする戦略とは、地域社会に密着した人を育てていくことしかない。東京の魅力は出身地の異なる多様な地域の人々が共通の環境、価値観で生活していることにある。様々なアイデアが生まれやすく同時に受け入れやすい環境になっていることです。とすると東京を強くするためには、東京ではなくて地方を強くすることが必要なのです。
縷々述べてきましたが、人の成長こそ経済を成長させる。何やら今やるべきことは「教育」「教育」「教育」と叫んだイギリスのブレア首相のような結論になるのですが、そのためには「高専」制度の拡充と言われると議論はまたまた紛糾しそうです。
アベノミクス、リフレ派に厳しく、スタンスとしてはバブル期後世代の認識なのでしょうが、失われた20年というが実質経済成長率や失業率でみれば社会は安定していて、円高は決して悪いことではない。異次元の金融緩和によって円安にすることで日本経済が持続的に成長していくとは考えられないということだと思いますが、リチャード・クーの議論ともまた違って財政出動への反対もあり、何が正しいのかわからないというのがスカスカ頭の私の現在の認識です。とは言っても円安になり株価が上がった今だからこういう議論もできるのですが、円高に苦しみ株価も低迷していた時に円高でいいんだといっても誰も耳を傾けなかったというか猛烈なバッシングに会ったのでは。
でも第1の矢、第2の矢は、落ち込んだ日本経済を立ち直らせるための緊急避難的カンフル剤で、本命は第3の矢の成長戦略ということは疑いないことです。
本書は、その成長戦略がまやかしに過ぎないと詳細に論じています。新書本ながら読み応えがあります。
ところで第3の矢として打ち出された成長戦略ですが、そもそも政権の打ち出すものは、様々な制約条件の中で利害調整を経てきたものである以上大胆なものは出て来ようがない。結果、現状維持に近いつまらないものにならざるを得ない。そして経済の離陸期ならともかく民間の持っていない知恵を政府が持っている可能性は低いことから政府がターゲッティングポリシーにより有望な産業なり地区を選んでも成功する可能性も低い。右肩上がりの高度成長期なら投資が投資を呼ぶということが期待できたけど、今となってはそれは時代錯誤の美しい幻を追っているだけ…
規制緩和にしてもそもそも規制は既得権益のためのものであり緩和しても規制は残り、秩序は維持し、既存の経済構造を守り、既存の成功企業を守ることになるだけ。これでは成長できない。
アベノミクスとは、現在の既得権益層を守り、刺激することで効率よく短期的に景気を良くする政策なのです。
第1の矢の大胆な金融緩和は円安効果によって、既存の日本の経済構造をあえて固定するものになっている。
第2の矢の機動的な財政出動は、景気を短期的に加熱させ、改革すべき現在の経済構造を固定化し、かえって成長を妨げる。機動的な財政出動による公共事業という需要は最も質の悪い需要で、やるなら現金を地方の消費者にばらまいたほうが成長につながる。財政出動頼みでは民間企業がそれに依存し、かつ付加価値を生み出さない活動に傾倒してしまい進むべき経済の方向性を過たせてしまう。
今や日本企業は設備投資依存の経済構造から脱却すべきであり、人に投資することが必要で、それによって日本という場が、新しいものを生み出す場としての意味を持ち、長期的な経済成長を生み出す場になる。
今政府の打ち出しているビジョンでは、
第1に政府が社会と経済をコントロールできるという考え方に立っているが政府の力と役割には限界があり、環境整備以上のことはできない。
第2に経済の主体が企業と考えているが、企業はあくまで箱に過ぎなく箱の中身の働き手であり消費者でありの人「個」が主役である。スポーツ、デザイン、料理などの分野での活躍によって日本人の「個」の素晴らしさを世界の人々が認識するようになっている。
第3に成長戦略は今日本が全くダメな国でありこのままでは経済が破たんするという前提に立っている。結果一発逆転のために既存のものをすべてぶっ壊せという議論が行われる。しかし経済の実態は失われた20年と言われているが、成熟国家としてそのパフォーマンスは決して悪くない。悲観論にはバブル期の日本へのイメージへの郷愁がある。かつての日本を代表したソニー、パナソニックなどの企業の不振への危機感がある。しかしバブル期の日本が世界的に見ても異常だったのだし、新しい企業も次々と出て来ている。いわば企業の世代交代が進んだのでしょう。失われた20年で失われたのは好景気ではなく供給過剰の状態に落ちいっている日本経済の実力というか潜在成長力。それを輸出なり財政出動で糊塗してきたのが実態です。
そもそも構造改革は短期的な政策ではなく、それが効果を出すにはおそらく一国の首相の任期を超えた長い時間がかかる。アベノミクスは成長戦略という名の「既存の枠組みを効率的に活用する政策」を実行しようとしているが、これは企業を守ることによって経済を弱める戦略になってしまう。
成長戦略の目玉の一つが特区戦略ですが、生産力は立地条件によって作られるのではなく、誘致された企業によって作られるのでもない。住んでいる人によって作られるのです。街や社会は生き物であり、政府は街や社会が育つための支援しかできないのであり、設計はできない。日本の魅力と力の源泉は東京などの大都市ではなく、地方にあり、地方の魅力の集積が東京の魅力です。よく引き合いに出されるシンガポールは組織としては魅力的であっても人々が生活者として暮らしている社会としては望ましいのだろうか。条件がいいというだけで移動してくる企業や人は、その地域に定着せず地域社会に価値をもたらさない。都市や地域を長期に持続可能なものにする戦略とは、地域社会に密着した人を育てていくことしかない。東京の魅力は出身地の異なる多様な地域の人々が共通の環境、価値観で生活していることにある。様々なアイデアが生まれやすく同時に受け入れやすい環境になっていることです。とすると東京を強くするためには、東京ではなくて地方を強くすることが必要なのです。
縷々述べてきましたが、人の成長こそ経済を成長させる。何やら今やるべきことは「教育」「教育」「教育」と叫んだイギリスのブレア首相のような結論になるのですが、そのためには「高専」制度の拡充と言われると議論はまたまた紛糾しそうです。
アベノミクス、リフレ派に厳しく、スタンスとしてはバブル期後世代の認識なのでしょうが、失われた20年というが実質経済成長率や失業率でみれば社会は安定していて、円高は決して悪いことではない。異次元の金融緩和によって円安にすることで日本経済が持続的に成長していくとは考えられないということだと思いますが、リチャード・クーの議論ともまた違って財政出動への反対もあり、何が正しいのかわからないというのがスカスカ頭の私の現在の認識です。とは言っても円安になり株価が上がった今だからこういう議論もできるのですが、円高に苦しみ株価も低迷していた時に円高でいいんだといっても誰も耳を傾けなかったというか猛烈なバッシングに会ったのでは。