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事件記者のページ

遠い昔のTV番組を再現しようというムチャな試み

話せば長いことながら2

2020-06-08 11:24:02 | 歴史
11代垂仁天皇の后sはサホヒメ、ヒコイマス王の娘なら9代ワカヤマトネコヒコ天皇の孫ではありえない、だが孫ではなく皇女という可能性は否定されないから右側ではそういうことにした
15代応神天皇ことホムチワケ王の后jはズバリ神功皇后である、祖父がヒコイマス王ではないようだから9代天皇の曾孫という素性を全否定する理由もない、どうして仲哀天皇ではなく応神天皇の后なのかと言えば九州の海岸で皇子を生んだという記事が何ともインプレッシブで全否定するに忍びない(歴史学者という人種はこの手のエピソードをオトギ話と決めつけるのが商売なわけであるが)その時生まれた皇子は諸般の事情で応神天皇ではありえずとなれば聖帝の誉れ高い16代仁徳天皇というのが一番ありそうで(どうせなさそうだというヒトばかしだとは思うけど)応神/仁徳はマチガイなく親子なのだから(DNA鑑定はやってないけど)応神天皇の后は神功皇后しかないのである(何で誰もそう言わんのかにゃん?)
仁徳天皇の后iはソツビコsの娘イワノヒメ、ソツビコの父tはタケウチスクネである、スクネの父ヒコフツオシ王はただそのためにのみ記される名前だけの存在だから逆に8代天皇の皇子という素性を疑う理由がない(存在自体を疑う理由大ありと思うヒトが多いだろうが)、さらに日本書紀はスクネを13代成務天皇と同年と記す、天皇と全く世代数が合っていないが故に怪しくない、このヒトは古代には珍しく系譜通りの人物であるとしてマチガイないと思う(マチガイ大ありと主張するヒトの方が多いことはよーく知ってるが)
だが・・・逆にスクネとソツビコの親子関係は怪しい(これ宝賀氏は全く疑っておられないのだが)、スクネは誰と結婚したのかもわからんのに子供だけが9人もいるって何か不自然、それにこの男が成務天皇と同年ならホムチワケ王の応神天皇ともほぼ同年代のハズで仁徳天皇の「最初の」后はその孫より娘の方が年代的に合うのじゃないか、神功皇后が9代天皇の曾孫ならイワノヒメは8代天皇の曾孫、皇后として適格な女性であった、と結局さういうことになるのかにゃ

イワノヒメ又の名ノノイロメ=タケウチスクネの娘、この女性は応神天皇の后として記載があり生んだ皇子はイザノマワカ王、この皇子が実は17代履中天皇(イザホワケ)じゃなかろうかと前に思ったことがある、これなら倭王珍=履中は倭王讃=仁徳の弟ということになって向こうの記録と合うものね、ここでイワノヒメとノノイロメが実は同一人物、仁徳天皇は父天皇の若い后を自分の皇后に迎えたのであれば・・・二代の后、別にこれあってもよいのじゃない?何かしょーもないことをみつけちゃったにゃん

話せば長いことながら

2020-06-07 18:46:00 | 歴史
短くしたんじゃわからないと言ったのはひょうたん島のガバチョだったが、それはさておいて・・・
およそ矛盾だらけであるが故それなりに形をなしてる元ネタをこざかしい21世紀人が合理的に解釈しなおせるわけはない、いろんなヒトがやりかけサジ投げただろうと思う(投げておられないのが宝賀氏)
だが古事記をよく見ると2-9のうち2,3,4と8,9は比較的短命で成人した皇子を残したとは思われない、またただ一人姪と結婚したという6代オオヤマトタラシヒコ天皇(=アメタリシヒコ、わりと長寿)は婿養子の可能性が高い、つまりここでいわゆる「王朝交代」があったんじゃないかと考えるならば、まああっちこっち不自然はあってもこんな系図ができるんじゃないかにゃ?
さてこの図(前のとほとんど同じだけど一部変わってる)
婿養子に入ったという以上結婚相手の皇女(あるいは女王)がいなくてはいけないが初期の天皇家にはとにかく女の子が少ないのである、いなかったハズはないが重要じゃないので記されなかった、そらまあどこの国でもさうだわにゃ
この図にあるaという女性は3代天皇の曾孫でオオヤマトクニアレヒメという大仰な名前を与えられている、7代天皇の后(の一人)でその息子はキビツヒコ、弟と共に吉備を制圧したと記される
他にいないんだから曾孫ではなく皇女ということにして6代天皇に婿入りしてもらった
7代オオヤマトネコヒコ天皇(わりと長寿)の皇女にして10代ミマキノイリヒコ天皇(ハツクニシラススメラミコト)の后ということにした女性bは系譜上8代天皇の孫で名はミマツヒメ、ミマキノイリヒコと結婚したからミマツヒメってそこまで投げやりなネーミングあり?7代天皇の皇女にヤマトトモモソヒメの名前があって古事記では名のみの存在だけどひょっとしたら最古の巨大古墳に葬られたお方かもと言われてる、このヒトが崇神天皇のお妃だったらよいのににゃ
8,9代は早く亡くなってる(そんなん信用できんだろと白崎氏はおっしゃったのであったが)にもかかわらず子孫のことはメチャ詳しい、よく見ると10代崇神天皇(めんどうだからこれでよかろ)の治世に将軍として各地へ派遣されたオオビコ/タケヌナカワワケ(親子)、ヒコイマス/タニハノミチヌシ(これも親子)がここへ皇子として押込まれてるのだ、系譜通りなら当時はまだ子供だった(天皇の年齢を信用すればだけど)彼らが兵を率いる将軍になれるわけはない、いくら何でもこれはデッチ上げ(宝賀氏おっしゃるところの仮冒)それじゃ彼らの正体は?と言えば6代天皇といっしょに九州から来た天皇の兄弟やイトコの子孫じゃなかろうか、何せあちらにはホオリ・トヨタマヒメの他にヒコナギサ・タマヨリヒメの夫婦(彼らが系譜上は神武兄弟の両親)もいたし、だけど史書が神武天皇の兄さんたちについて全く沈黙してることを考えるとそういうことじゃない,、つまり彼らは天皇家と全く関係のない大和周辺の豪族ということ(宝賀氏はさうお考えのよう)なのかもしれないね
12代景行天皇のお后cはヤサカイリヒメ、何となく由緒のありさうな名前だし崇神天皇の孫じゃなく皇女ということで問題あるまい
まだ続くけど時間切れなので以下次号

邪馬台国の東遷

2020-06-06 23:34:52 | 歴史
昨日はあまりの衝撃に結末だけ先に書いてしまったがこの系図は上から先に説明すべきだよな
6代オオヤマトタラシヒコ天皇はあちらの記録によればたぶんアメタリシヒコで当時(西暦600年)は皇室の祖とされてたらしい、姪と結婚したと記されるにもかかわらず姪の素性がはっきりしないところを見ればムコ入りの可能性が高い、となれば・・・235年生まれと推測される邪馬台国女王トヨことトヨタマヒメの息子って可能性かなり高いのじゃないか、彼女の夫になったホオリ(-1)の父(いや祖父か)オシホミミ(-3)は倭人伝に名前の見える投馬国の官ミミ、その妻の父タカミムスビ(T)は邪馬台国(タカマガハラ)でアマテラス=卑弥呼(A)を補佐する男じゃないか
というわけでこの図ができたのである、邪馬台国が東遷したとすれば大和朝廷5-6代頃なんじゃないかなとは実は白崎昭一郎氏にも「そらあるかも」と言っていただいた一件なのである、わ、日付変わっちゃうからとりあえずアップ

追記-この図、赤の線は史書の関係をそのまま生かしたモノ、タカミムスビの娘(h=タクハタヒメ)とオシホミミ、トヨとホオリの婚姻関係は事実とみてよい、黒の線は私の勝手な妄想、オシホミミとホオリは親子ではなく祖父孫かもしれず、ましてやホオリとオオヤマトタラシヒコ(いやアメタリシヒコ)天皇が親子とは・・・書いた本人以外に賛成するヒトはまず・・・いやホントにない?

まさかのまさか・・・

2020-06-05 23:29:33 | 歴史
そらないのでは?な結末
宝賀氏の著書に応神天皇は垂仁天皇の皇子ホムチワケとして史書に登場しているがそれはない、とあった
だけど世代の水増しを圧縮すればあってもよいのである、たかが2代かそこら・・・ってさういう問題じゃないよな、この2人はイメージが違い過ぎる、それにこれじゃ怪しくなさ過ぎ、大和内部でほぼ完結してる、ホントはこういうことだったんなら何でそう書かんかったんだ、それと九州や新羅はどこへ行っちゃうんだよーーー?

これで合ってるのでは?

2020-06-04 00:31:54 | 歴史
いろいろ線を引いたがこの直線とってもよく乗ってる、これは6世紀初頭から14世紀末まで四捨五入して約900年間在位年数がほとんど変わってない、ということでよいのじゃなかろうか、いやもちろん外挿が意味ないことは知ってるけどこの場合他に裏付けとなるデータがないわけじゃない、5世紀がきれいに乗ってるし4世紀以前にも一度王朝交代があったと思われる、というかまだはっきりと安定した王朝じゃなかった可能性が高い、つまり10代以前の在位年数がそれ以後より長くなるとする根拠は特にないやうな
1 神武 228
6 孝安 286
10 崇神 333
12 景行 356
15 応神 391
16 仁徳 403
19 允恭 438
21 雄略 461
これってそうメチャクチャでもないんじゃないかにゃ?