聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

はじめての教理問答122~123 マタイ18章21~35節「誤解の『赦し』」

2019-07-14 15:27:01 | はじめての教理問答

2019/7/14 マタイ18章21~35節「誤解の『赦し』」はじめての教理問答122~123

 

 今日も、イエスが私たちに教えてくださった「主の祈り」のお話しをします。

問122 第五の願いごとはなんですか? 

答 第五の願いごとは「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」です。

問123 「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」とはどういう意味ですか? 

答 キリストのゆえに私たちの罪を許し、また私たちがほかのひとを許せるようにしてくださいという祈りです。

 私たちの罪の赦し、ということをイエスは祈るように教えてくださいました。今日はその赦しについてイエスが教えてくださった、大事なお話、マタイの福音書の18章をお話しします。それは、王様と、家来たちのこんなお話しでした。

 王様が家来たちに、貸していたお金のことをちゃんと調べておく時が来ました。王様から借りていたお金をどう使っているか、確かめておくのです。そこで、王様の所に家来たちがひとりずつ集められることになりました。
 ところが、最初に連れて来られた家来は、一万タラントの借金がありました。一万タラントとはどれぐらいでしょう? 一タラントは20年働いたぐらいのお金だそうです。そうすると、一万タラントは…20万年働かなければ返せないような大変なお金でした。こんな大金、どうやって返すのでしょうか。
 家来に聞くと、彼は「お返しするお金は持っていません」と言うのです。そこで王様は、自分も家族も皆、身売りしてそのお金で返すようにと言いました。すると慌てた家来は、ひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』とお願いしたのです。とてももう少し待っても返せるようなお金ではないのに、必死にいう家来を、王様は見つめていました。
 そして、王様は家来を可哀想に思って、その負債を免除することにしました。そう、あの一万タラント、20万年分の借金を、王様は全部帳消しにすることにしたのです。周りもビックリしました。一番ビックリしたのは、この家来だったでしょう。驚いて、それから喜んで、王様に「ありがとうございます」と何度もお辞儀をして、出て行きました。ところが、です。

28その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った…。

 一デナリは、一日働いただけの賃金です。だとすると、100デナリはどれぐらいですか?? そう、100日分の賃金です。それぐらいを貸して上げていた別の仲間に出会ったのです。それだって、決して少しではないでしょう。この人はその仲間を捕まえて、首を絞めて

「借金を返せ」

と言ったのです。乱暴ですね。すると彼の仲間は、

29ひれ伏して『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。

30しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。

 さっき同じようなことをして、自分が赦してもらったのに、この人は仲間を赦さずに、牢屋に放り込んでしまいました。自分が赦されたのは、一万タラントです。100デナリと一万タラントは何倍ぐらい違いますか。二〇〇〇倍ですね。そんなに免除されたのに、彼は仲間を赦さずに、可哀想に思う事もなく、牢屋に入れてしまったのです。これを他の仲間たちが見ていました。彼らはとても悲しんで、王様に知らせました。

31彼の仲間たちは事の成り行きを見て非常に心を痛め、行って一部始終を主君に話した。

32そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。

 王は、家来が「返しますからもう少し待って下さい」と必死にお願いする姿に、心を動かされて、負債をすべて肩代わりしてくださいました。それなのに、彼は、仲間が懇願する言葉にも耳を貸さなかった。その事を王は、怒るのです。

33私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』

34こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。

 王は家来の借金を免除しただけではなく、家来の生き方に変わって欲しかったのです。それなのに、自分だけ赦されて良かった、人の借金は赦してやらない、では王は怒ります。だから、彼は牢屋に入れられて、働かされることになってしまったのです。このお話しをした後、イエスはこう仰って、私たちに赦す事を教えました。

35あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」

 「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」と祈るのも同じです。私たちは神に赦されている。だから私たちも人を罰したり虐めたりせず、赦す。憎しみや恨みや懲らしめてやりたい思いを捨てて赦すのです。

 でも誤解しないでください。赦しは、すべて帳消しにするだけではなく、新しい関係を造ることでしたし、それを踏みにじる家来は懲らしめられたのです。問題に目を瞑ったり、大目に見たりすることではありません。このマタイ18章の直前、15節では、誰かが罪を犯した時には、その人の所に言って指摘しなさい、それがダメなら、何人かで一緒に行きなさい、と厳しく向き合うことが言われています。決して、赦しは「許可」ではありません。赦しは、憐れみが生み出せるもので、相手の心にも本当の関係を回復させていくものなのです。

 ここに「赦しとは何で無いか」が七つあげられているリストがあります。

  1. 赦しとは我慢ではありません。
  2. 怒らないことでもありません(怒って良いのです。)
  3. 結果をする無視することでもありません。(やったことに伴う結果の責任も引き受けさせます)。
  4. 信頼関係が元通りになったということでもありません。
  5. 諦めることでもありません。
  6. 忘れてあげるという上辺の約束でもありません。
  7. それは一度赦せばいいということではありません。生涯掛けて、赦し続けること、怒りや痛みがありつつも、それでも相手との関係の修復を望む、生き方なのです。

 主の祈りで「私たちの負い目をお赦しください」と祈るごとに、私たちは赦してくださる父の愛に立ち戻ります。また、赦しがなければ、今ここにいることは出来ない程、沢山の問題や神様に対する罪もある事実に、素直にならされます。それでも、赦されている以上、私たちも他の人を赦さないではおられません。生きていれば、人とのすれ違いや衝突は絶えません。だからこそ、怒りや悲しみを素直に現しながら、問題を越えて、すべての人との関係が、憎しみや恨みから自由にされ、回復されるよう祈りましょう。

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出エジプト記20章1~17節「十のことばに生かされる 聖書の全体像20」

2019-07-14 15:20:47 | 聖書の物語の全体像

2019/7/14 出エジプト記20章1~17節「十のことばに生かされる 聖書の全体像20」

 聖書の物語の全体像をお話しして来て、今日は

「十のことば」

を取り上げます。神はこの世界に大きくて深いご計画を持っています。神に背いた人間を回復するために、神は一つの民族を選びました。それがアブラハムの一族であり、その子孫のイスラエルの民でした。今から三千五百年ほど前、エジプトで奴隷のように扱われていたイスラエル人を、神は救い出してくださって、エジプトから海を渡って、約束の地へと旅立たせました。その時に与えられたのが、今日読みました「十のことば」(十戒)です[1]。この「十戒」は契約そのものと言われます。

申命記4:13主はご自分の契約をあなたがたに告げて、それを行うように命じられた。十のことばである。主はそれを二枚の石の板に書き記された。[2]

 二枚の石の板にかき込まれた「十のことば」がそのまま「主…の契約」と言われています。ここには、主がイスラエルの民に与えられた新しい関係、契約のエッセンスがあるのです。

 これはただの戒めや規則ではありません。「この言葉を守らなければ救われない、一つでも破れば神の怒りを買う」というような規則ではありません。何しろこの言葉が与えられたのはエジプトでの苦しみから解放された後です。エジプト軍が追いかけてきても、神は海に道を開いて、彼らを救って、エジプト軍を海に投げ込んでしまう、大いなる救出が行われた後でした。既に彼らは自由にされて、神のものとなっていたのです。ですから、2節の序文が肝心です。

「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。

 主が先に奴隷の家から導き出してくださり、「あなたの神、主」となってくださった。この恵みの出来事が土台となって、その上で生き方が語られていきます。「人が律法を守ることが土台となって、神の恵みが約束される-人の生き方が揺らげば、神の恵みも取り上げられる」ではないのです。神の一方的な恵みによる解放が先にありました。そして、それに続く十の約束も、規則や禁止という以上に解放の言葉、驚くべき主の宣言でもあるのです。例えば、

あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない

はどうでしょう。人を奴隷とする社会から連れ出された神、主。この方は、ご自分の他に神はいないと強く言われます。翻って、エジプトでは、ファラオや高官たちが神の名を借りて、イスラエルや外国人を働かせていました。その苦しみの叫びを封じ込めていました。神である主はそのようなエジプトで用いられる「神々」が無力であることを、あの葦の海の奇蹟で示しました。そして、これからもイスラエルの民の中には、ご自分以外に神があってはならないと言われます。国家や集団の指導者が、神のように振る舞って、人を奴隷のように従わせることはよく起こります。神はそのような在り方を厳重に禁じます。王や大祭司も、牧師や長老も、親や教師も、神の名を騙って人を踏みつけることが厳しく禁じられるのです。

 またこの「十の言葉」の中で一番長いのは、8節から11節の

「安息日」

です。六日は働いて、週に一度は休むことが言われます。あれをせよ、役に立て、怠けるな、より「休みなさい」が一番強調されています。それも自分が何もしない、というだけでなく、奴隷や家畜や外国人もともに休んで息をつき、解放感を味わい、神が造られた世界を全身で喜ぶ。これも、「十の言葉」の持っているメッセージが、人間社会の陥る思考やシステムを引っ繰り返す事実です。

 12節以下の

「父と母を敬え。殺してはならない」

も無条件です。エジプトでは、親子の関係にファラオの命令が介入して、生まれた子どもをナイルに捨てよと言われていました。主は、そういう関係を禁じます。父と母との関係を重んじる。勿論、父母を神だと思って従え、ではありませんが、父と母より神を敬え、とも言われません。主は親子関係に尊敬を回復させます。殺してはならない、も革命的です。日本の士農工商、インドのカースト制度、身分が低ければ、命の重みなどないも同然という中で、神は殺人を無条件に禁じました。また、

姦淫してはならない

と言われて、結婚を聖別しました。引いては、一切の性的虐待や性の商品化を禁止します。

 こうして少し考えただけでも、「十のことば」が束縛どころか、人間が本当に人間らしく生きる国を示していると分かります。ただの道徳ではなく、神が神である国、人を解放してくださる神だけが神とされる国のビジョンです。言い換えれば、これが神の契約なのです。

 「十のことば」は「してはならない」というより、元々は「○○しない」と言い切る文です。

他の神がない。
偶像を造らない。
御名をみだりに口にしない。
安息日を覚える。
父と母を敬う。
殺さない。
姦淫しない。
盗まない。
偽りの証言をしない。
隣人の家を欲しがらない

 そういう神の国の自由な生き方を神は示して下さいました。だからといって、イスラエルの民はこれに従えず、逆らいました。欲に流されて、奴隷やバベルの塔を再建するような生き方をしてしまいました。私たちも今、主の愛を戴いて、それに憧れながら、まだ見えるものに流されたり、見慣れない人や出来事に脅威を抱いたりして、恵みとは真逆の言葉を言ってしまうものです。律法が束縛なのでは無くて、罪が私たちの心も考えも縛って、神の恵みから遠ざけているのです。そういう私たちに、御言葉は正反対の生き方を照らします。ですから、ダビデは詩篇で、度々、御言葉を賛美すると言います。御言葉、つまり十戒が私を生かすと言います。

詩119:50これこそ悩みのときの私の慰め。まことに あなたのみことばは私を生かします。

 主の言葉は、灯火、光[3]、金銀や蜂蜜[4]と歌うのです。私たちが神の戒めを守らなければならない、という以上に、神の言葉が私たちを守って、誘惑や絶望から、罪や愚かさから救い出してくれる。本来は、それが「十の言葉」という契約の祝福だったのです。

 この時から一千五百年ほど後、イエス・キリストがおいでになった頃、当時のユダヤ教社会では律法が丸きり逆の規則として扱われていました。それを守れば永遠のいのちをもらえる、という苦行やエリートだけが守れる規則だと考えられていました。ですから民衆はイエスに、律法を廃棄することを期待しました。しかしイエスはご自分が律法を「廃棄するためではなく成就するために来た」と仰いました。そして、律法の中で一番大事な戒めを問われて、

『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』

『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』[5]

 律法の肝が愛することなら、それは、救われるためにとか神に認められるためにの手段ではありえません。救いは、最初から神の一方的な恵みでした。そして、それは私たちが神を愛し、隣人を自分自身のように愛する生き方への救いでした。やがて御子イエスを地上に人として遣わす予定でした。最初から、神の契約はイエスによる新しい生き方を目標としていたのです。

律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。[6]

 新改訳第三版では「キリストが律法を終わらせられたので」でした。この「テロス」はゴールという意味での終わりなのです。十戒の序言が「わたしはあなたを奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主」という土台であるように、キリストは律法の目指すもの、ゴールです。イエスは私たちを愛し、ご自分のいのちをもって私たちを救ってくださいました。その恵みが目指す新しい生き方を「十のことば」や御言葉が豊かに教えてくれます。それは私たちの努力とか頭の中での作業ではありません。イエスが、私たちのうちに神の国を造り、導いて、今ここでも、神を愛し、互いに愛し合う生き方を造っておられる。そのために、私たちが御言葉を開いたり、互いに教え合ったり、失敗しては傲慢に気づかされて謙虚にさせられて、それをも包む主の恵みを戴いて、ますますイエスを仰がせてくださっている。そして、やがては必ず、神だけが神とされて、お互いが上下も嘘偽りもなく、一切妬むことのない御国を来たらせてくださる。そう信じて今ここでも、御言葉に守られて、神の国の民として歩んでいるのです。

「世界の王なる主よ。あなたが一方的な恵みによって私たちを救い、戒めによっても私たちを守って、教え諭してくださることを感謝します。あなたの恵みの力で、私たちを新しくしてください。御言葉により私たちを守り、あなただけを心から崇め、人も自分も同じように愛する心をお恵みください。私たちを通して、あなたの祝福を、希望を、この地に表してください」



[1] 聖書には「十戒」という言葉ではなく「十のことば」という表現が出て来ます。出エジプト記34:28「モーセはそこに四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、石の板に契約のことば、十のことばを書き記した。」、申命記10:4「主はそれらの板に、あの集まりの日に、山で火の中からあなたがたに告げた十のことばを、前と同じ文で書き記された。主はそれを私に与えられた。」

[2] 他に、申命記9:9、11「私が石の板、すなわち、主があなたがたと結んだ契約の板を受け取るために山に登ったとき、私は四十日四十夜、山にとどまり、パンも食べず水も飲まなかった。…11こうして四十日四十夜の終わりに、主はその二枚の石の板、すなわち契約の板を私に授けてくださった。」

[3] 詩篇119:105「あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。」

[4] 詩篇19:10「それらは 金よりも  多くの純金よりも慕わしく 蜜よりも 蜜蜂の巣の滴りよりも甘い。」、119:72「あなたの御口のみおしえは 私にとって 幾千もの金銀にまさります。」

[5] マタイ伝22:37-39。

[6] ローマ書10:4。

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