聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

出エジプト記20章1~17節「十のことばに生かされる 聖書の全体像20」

2019-07-14 15:20:47 | 聖書の物語の全体像

2019/7/14 出エジプト記20章1~17節「十のことばに生かされる 聖書の全体像20」

 聖書の物語の全体像をお話しして来て、今日は

「十のことば」

を取り上げます。神はこの世界に大きくて深いご計画を持っています。神に背いた人間を回復するために、神は一つの民族を選びました。それがアブラハムの一族であり、その子孫のイスラエルの民でした。今から三千五百年ほど前、エジプトで奴隷のように扱われていたイスラエル人を、神は救い出してくださって、エジプトから海を渡って、約束の地へと旅立たせました。その時に与えられたのが、今日読みました「十のことば」(十戒)です[1]。この「十戒」は契約そのものと言われます。

申命記4:13主はご自分の契約をあなたがたに告げて、それを行うように命じられた。十のことばである。主はそれを二枚の石の板に書き記された。[2]

 二枚の石の板にかき込まれた「十のことば」がそのまま「主…の契約」と言われています。ここには、主がイスラエルの民に与えられた新しい関係、契約のエッセンスがあるのです。

 これはただの戒めや規則ではありません。「この言葉を守らなければ救われない、一つでも破れば神の怒りを買う」というような規則ではありません。何しろこの言葉が与えられたのはエジプトでの苦しみから解放された後です。エジプト軍が追いかけてきても、神は海に道を開いて、彼らを救って、エジプト軍を海に投げ込んでしまう、大いなる救出が行われた後でした。既に彼らは自由にされて、神のものとなっていたのです。ですから、2節の序文が肝心です。

「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。

 主が先に奴隷の家から導き出してくださり、「あなたの神、主」となってくださった。この恵みの出来事が土台となって、その上で生き方が語られていきます。「人が律法を守ることが土台となって、神の恵みが約束される-人の生き方が揺らげば、神の恵みも取り上げられる」ではないのです。神の一方的な恵みによる解放が先にありました。そして、それに続く十の約束も、規則や禁止という以上に解放の言葉、驚くべき主の宣言でもあるのです。例えば、

あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない

はどうでしょう。人を奴隷とする社会から連れ出された神、主。この方は、ご自分の他に神はいないと強く言われます。翻って、エジプトでは、ファラオや高官たちが神の名を借りて、イスラエルや外国人を働かせていました。その苦しみの叫びを封じ込めていました。神である主はそのようなエジプトで用いられる「神々」が無力であることを、あの葦の海の奇蹟で示しました。そして、これからもイスラエルの民の中には、ご自分以外に神があってはならないと言われます。国家や集団の指導者が、神のように振る舞って、人を奴隷のように従わせることはよく起こります。神はそのような在り方を厳重に禁じます。王や大祭司も、牧師や長老も、親や教師も、神の名を騙って人を踏みつけることが厳しく禁じられるのです。

 またこの「十の言葉」の中で一番長いのは、8節から11節の

「安息日」

です。六日は働いて、週に一度は休むことが言われます。あれをせよ、役に立て、怠けるな、より「休みなさい」が一番強調されています。それも自分が何もしない、というだけでなく、奴隷や家畜や外国人もともに休んで息をつき、解放感を味わい、神が造られた世界を全身で喜ぶ。これも、「十の言葉」の持っているメッセージが、人間社会の陥る思考やシステムを引っ繰り返す事実です。

 12節以下の

「父と母を敬え。殺してはならない」

も無条件です。エジプトでは、親子の関係にファラオの命令が介入して、生まれた子どもをナイルに捨てよと言われていました。主は、そういう関係を禁じます。父と母との関係を重んじる。勿論、父母を神だと思って従え、ではありませんが、父と母より神を敬え、とも言われません。主は親子関係に尊敬を回復させます。殺してはならない、も革命的です。日本の士農工商、インドのカースト制度、身分が低ければ、命の重みなどないも同然という中で、神は殺人を無条件に禁じました。また、

姦淫してはならない

と言われて、結婚を聖別しました。引いては、一切の性的虐待や性の商品化を禁止します。

 こうして少し考えただけでも、「十のことば」が束縛どころか、人間が本当に人間らしく生きる国を示していると分かります。ただの道徳ではなく、神が神である国、人を解放してくださる神だけが神とされる国のビジョンです。言い換えれば、これが神の契約なのです。

 「十のことば」は「してはならない」というより、元々は「○○しない」と言い切る文です。

他の神がない。
偶像を造らない。
御名をみだりに口にしない。
安息日を覚える。
父と母を敬う。
殺さない。
姦淫しない。
盗まない。
偽りの証言をしない。
隣人の家を欲しがらない

 そういう神の国の自由な生き方を神は示して下さいました。だからといって、イスラエルの民はこれに従えず、逆らいました。欲に流されて、奴隷やバベルの塔を再建するような生き方をしてしまいました。私たちも今、主の愛を戴いて、それに憧れながら、まだ見えるものに流されたり、見慣れない人や出来事に脅威を抱いたりして、恵みとは真逆の言葉を言ってしまうものです。律法が束縛なのでは無くて、罪が私たちの心も考えも縛って、神の恵みから遠ざけているのです。そういう私たちに、御言葉は正反対の生き方を照らします。ですから、ダビデは詩篇で、度々、御言葉を賛美すると言います。御言葉、つまり十戒が私を生かすと言います。

詩119:50これこそ悩みのときの私の慰め。まことに あなたのみことばは私を生かします。

 主の言葉は、灯火、光[3]、金銀や蜂蜜[4]と歌うのです。私たちが神の戒めを守らなければならない、という以上に、神の言葉が私たちを守って、誘惑や絶望から、罪や愚かさから救い出してくれる。本来は、それが「十の言葉」という契約の祝福だったのです。

 この時から一千五百年ほど後、イエス・キリストがおいでになった頃、当時のユダヤ教社会では律法が丸きり逆の規則として扱われていました。それを守れば永遠のいのちをもらえる、という苦行やエリートだけが守れる規則だと考えられていました。ですから民衆はイエスに、律法を廃棄することを期待しました。しかしイエスはご自分が律法を「廃棄するためではなく成就するために来た」と仰いました。そして、律法の中で一番大事な戒めを問われて、

『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』

『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』[5]

 律法の肝が愛することなら、それは、救われるためにとか神に認められるためにの手段ではありえません。救いは、最初から神の一方的な恵みでした。そして、それは私たちが神を愛し、隣人を自分自身のように愛する生き方への救いでした。やがて御子イエスを地上に人として遣わす予定でした。最初から、神の契約はイエスによる新しい生き方を目標としていたのです。

律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。[6]

 新改訳第三版では「キリストが律法を終わらせられたので」でした。この「テロス」はゴールという意味での終わりなのです。十戒の序言が「わたしはあなたを奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主」という土台であるように、キリストは律法の目指すもの、ゴールです。イエスは私たちを愛し、ご自分のいのちをもって私たちを救ってくださいました。その恵みが目指す新しい生き方を「十のことば」や御言葉が豊かに教えてくれます。それは私たちの努力とか頭の中での作業ではありません。イエスが、私たちのうちに神の国を造り、導いて、今ここでも、神を愛し、互いに愛し合う生き方を造っておられる。そのために、私たちが御言葉を開いたり、互いに教え合ったり、失敗しては傲慢に気づかされて謙虚にさせられて、それをも包む主の恵みを戴いて、ますますイエスを仰がせてくださっている。そして、やがては必ず、神だけが神とされて、お互いが上下も嘘偽りもなく、一切妬むことのない御国を来たらせてくださる。そう信じて今ここでも、御言葉に守られて、神の国の民として歩んでいるのです。

「世界の王なる主よ。あなたが一方的な恵みによって私たちを救い、戒めによっても私たちを守って、教え諭してくださることを感謝します。あなたの恵みの力で、私たちを新しくしてください。御言葉により私たちを守り、あなただけを心から崇め、人も自分も同じように愛する心をお恵みください。私たちを通して、あなたの祝福を、希望を、この地に表してください」



[1] 聖書には「十戒」という言葉ではなく「十のことば」という表現が出て来ます。出エジプト記34:28「モーセはそこに四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、石の板に契約のことば、十のことばを書き記した。」、申命記10:4「主はそれらの板に、あの集まりの日に、山で火の中からあなたがたに告げた十のことばを、前と同じ文で書き記された。主はそれを私に与えられた。」

[2] 他に、申命記9:9、11「私が石の板、すなわち、主があなたがたと結んだ契約の板を受け取るために山に登ったとき、私は四十日四十夜、山にとどまり、パンも食べず水も飲まなかった。…11こうして四十日四十夜の終わりに、主はその二枚の石の板、すなわち契約の板を私に授けてくださった。」

[3] 詩篇119:105「あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。」

[4] 詩篇19:10「それらは 金よりも  多くの純金よりも慕わしく 蜜よりも 蜜蜂の巣の滴りよりも甘い。」、119:72「あなたの御口のみおしえは 私にとって 幾千もの金銀にまさります。」

[5] マタイ伝22:37-39。

[6] ローマ書10:4。

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はじめての教理問答120~121 ヨハネ10章7~11節「豊かな命を下さる神」

2019-07-07 17:23:46 | はじめての教理問答

2019/7/7 ヨハネ10章7~11節「豊かな命を下さる神」はじめての教理問答120~121

 

 主イエスが私たちに教えてくださった「主の祈り」を今日も味わいましょう。ここまで

「御名が…御国が…御心が…」

と神様のことを祈ってきました。祈りとは、自分の願いを祈るよりも、まず神様を神様として、第一にすることです。私たちの願いを神様に願うよりも、まず、祈っている相手の神様との関係を大事にすること…でした。

 今日から、その先の第四、第五、第六の祈りを見ていきます。この後半は

「私たちの」

祈りになります。私たちのために祈る。さて、イエスは私たちに、自分のために何を祈るように教えてくださっているでしょうか。私たちが自分のために一番に祈るに相応しいことって、どんなことだと皆さんは思うでしょうか。

問120 第四の願いごとはなんですか?

答 第四の願いごとは「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」です。

問121  「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」とはどういう意味ですか?

答 私たちに必要なものを、神さまが全て備えてくださいという祈りです。

 「糧」は英語では「パン」という言葉です。聖書の書かれたイスラエルの国では毎日の食事はパンでした。日毎のパン、とは、パンだけではなく私たちの食事全部、また、生きるのに必要なすべてのもののこと。それが「パン」というひと言にギュッと凝縮されているのです。だから、ボクはパンよりもご飯が好きなのになぁと思う人も安心してください。私たちが生きるのに必要な全ての事です。

 こんな図があります。ニーズの三角形です。私たちに必要なのは、パンやご飯、食事だけではありません。空気や健康も必要です。それから、太陽も天気も、安心して住める家も必要です。また、人は一人では生きられません。家族や友だち、仲間が必要です。そして、話しをして、心が通い合うことが必要です。また、あなたがあなたで良い、自分を認めてもらうことも必要です。そして、自分のしていることが役に立ったり、評価されたり、トロフィーをもらうようなことが必要だ。ただ、食べ物や健康だけで無く、こんな色々なニーズが満たされていないと、人間は生きていけないと言います。主の祈りで「日毎の糧を」と祈るのが、「私たちに必要なものを」という事であるなら、こうしたすべてのものを指しているのでしょう。

 宗教改革者マルチン・ルターは言います。

毎日のパンとはなんですか?
答 からだの栄養と維持のために必要なすべてのもの、すなわち、食べ物、飲み物、衣服、履物、家、屋敷、畑、家畜、お金、財貨、ちゃんとした家族、ちゃんとした真実の支配者、よい政府、よい気候、平和、健康、規律、名誉、よい友人、忠実な隣人などだよ。

 私たちが生きるのに必要なものは、本当に沢山あると気がつきます。

 私たちが願うもの。こうしたものを思いつくことはあまりないでしょう。主の祈りでイエスは、私たちが生きていること自体が、神様に養われているのだよ、神がこうしたものを下さらなければ、私たちは生きていくことが出来ないのだよ、と教えてくださっています。神がいるなら、あれもしてほしい、これもしてほしい。祈っても聞いてくれなかったら、神はケチだ。そんなことを私たちはつい考えます。でも、まず私たちが生きていること、今ここにいることが、当たり前ではないのです。神が私たちに命を下さって、食べ物も、家族も、教会も健康も下さっているから、私たちは今ここで生きています。人間は、神に養われていること。それを私たちがまず覚えて、命を下さっている神に感謝すること。そのことを主の祈りは思い出させてくれます。

ヨハネ十10わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。

11わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。

 イエスはご自分のことを「良い牧者」、よい羊飼いだと言いました。ですから、教会には羊の絵がよく使われます。イエスと私たちの関係は、羊飼いと羊のようだからです。羊飼いが羊たちにいのちを与えるように、イエスは私たちに命を下さいます。羊飼いは、羊たちがお腹を空かせて死なないように、緑の草地に連れて行きます。喉が渇いて死なないように、水のある所にも連れて行きます。また、オオカミが来たら、杖で追い払います。羊が迷子になったら、捜しに行きます。羊は、羊飼いに生かしてもらっています。

 羊はとても弱い動物です。臆病で、ストレスに弱い。そして、一匹ではなく、群れで行動します。目も近くしか見えないので、すぐ前のヒツジについていくのです。羊飼いのお世話を必要としています。羊飼いがいなければ、羊たちは生きていけないのです。

 イエスはご自分を羊飼いだと仰いました。それも、よい羊飼いだと言われました。良い羊飼いは、羊を生かすだけではありません。羊たちに豊かに命を得させる。そして、羊のために命を捨てるのです。イエスは私たちに、毎日のパンを求めさせるだけではなく、すべての必要が与えられるように、祈りなさいと仰ったのでしょう。いのちを豊かに持たせるため、ご自分の命も捨てるようなイエスです。時々、自分が欲しいものや無くて困っている物のことも、神様に祈るのは遠慮する人がいます。「自分のお願いなんてつまらないことだから、そんなことを祈るなんてとんでもない」と言うのです。イエスが教えるのは、そういう思いとは正反対の神。私たちに毎日の食事も、命も健康も下さっている神です。食べるだけで無く、食べた物がカラダの栄養になるのも、それがウンチになって出て行くのも、神様によらなければ出来ません。そうして、私たちを生かす神様は、私たちが豊かな命を持つように、私たちの願いや夢、困っていること、諦めていること、願いもしないようなことまで考えて、与えてくださるお方です。

 最後に、実はこの「日毎の糧」には「私たちの日毎の糧」という言葉がついています。他の人のではなく、私たちの、です。世界には沢山の人がいます。中には食べ物がなくてお腹を空かせている人もいます。その一方で、食べる物が十分にあって、好き嫌いを言えて、捨てている人もいます。全世界では、食品の三分の一が食品ロスとして廃棄されているそうです。これは私たちが「私たちの日毎の糧」ではなく、他の人の糧を奪って、捨てていることでしょう。私たちが求めるのは自分に必要なものだけです。必要以上のものを求める生き方をせず、与えられているもので十分に満足しましょう。豊かな命は贅沢によっては手に入りません。むしろ、私たちが主の言葉に従って、分け合う時、互いのために祈り、互いの命を生かし合う時、私たちは本当に豊かな命を戴くのです。

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出エジプト記14章21~31節「海に道が出来る 聖書の全体像19」

2019-07-07 17:14:15 | 聖書の物語の全体像

2019/7/7 出エジプト記14章21~31節「海に道が出来る 聖書の全体像19」

 今日の箇所は、モーセたちイスラエル人が

「葦の海」

に出来た道を通った奇蹟です[i]。聖書は私たちに、海の中に道を開くことも、全世界を造って支えることもなさる神を示しています。そして、その神が私たちを救い、私たちの神となることを語るのです。

 エジプトで奴隷とされていたイスラエル人の叫びを、神は聞いてくださり、モーセを遣わしてイスラエルを救い出しました。前回12章で子羊を屠って、その血を家の玄関に塗る「過越」の出来事があったことを見ました。神は、奴隷とされて苦しむ、声なき叫びを聞かれる。人が人を縛り付け、扱き使い、虐げる社会を神は終わらせ、新しく、自由で祝福に満ちた「神の民」としてくださる。四百年にわたる奴隷生活から、神の民、自由な民の歩みを下さったのです。

 ところがイスラエル人がちょうど海辺に宿営していますと、エジプト軍が来たのです。エジプトの王は惜しくなって、奴隷を連れ戻そうと追いかけてきました。前は海、後ろからはエジプトの戦車。絶体絶命と思われて、イスラエルの民はたちまちパニックになり、叫びました。

11…エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。12…実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」

 ひどい恨み節です。オロオロ、グチグチで、希望も信仰もありません。しかしモーセは

13恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。14主があなたがたのために戦われるのだ。…

 そして主の言葉通り、モーセが手を海に伸ばすと、風が強く吹いて海の中に道が造られて、イスラエルはその中を進んで無事に渡り、エジプト人はそこで海の藻屑となるのです。

30こうして主は、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルは、エジプト人が海辺で死んでいるのを見た。31イスラエルは、主がエジプトに行われた、この大いなる御力を見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。

と言われます。神が自分たちを救われた大いなる御力を見たのがこの出来事でした。旧約聖書ではこの出来事が直接だけでも十四回引用されて、主への信頼を呼び覚ましています[ii]。神は力強いお方。その神が私たちの神であられる。それをハッキリと見て、彼らは主を信じたのです。次の15章は祝いと喜びに溢れた「モーセの歌」が歌われます。特に11節、

15:11主よ、神々のうちに、だれかあなたのような方がいるでしょうか。だれかあなたのように、聖であって輝き、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行う方がいるでしょうか。12あなたが右の手を伸ばされると、地は彼らを呑み込んだ。13あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、あなたの聖なる住まいに伴われた。

 20節21節ではモーセの姉ミリアムと女たちが、一緒にタンバリンを叩き躍りながら、この歌を歌っています。本当に喜ばしく、歓喜して賛美しています。神である主は、私たちを救い出し、私たちのために闘ってくださり、私たちに喜びの歌を歌わせ踊らせてくださいます。神は絶体絶命に思える状況にも、思いがけない道を開くことが出来る。神は力強く、何一つ出来ないことのないお方。世界を造られた神は、海も人の命も治める、全能の神。聖であり輝いて、讃えられ恐れられ、奇しい業を行われる。贖われた民を、恵みをもって導き、御力で必ずご自分の住まいに伴ってくださる。どんな力にも妨げられることなく私たちを救い出して、ご自身のものとして贖われた私たちを導き、神の住まいに入れてくださる。また、その神を侮って、神に成り代わって振る舞おうとするどんな人や国や勢力も、決してこの神に勝つことは出来ない。人を虐げて神のように支配しようとする権力者、有力者、国の王や戦車や軍隊の力をも打ち負かす方です。葦の海の奇蹟は、神が私たちを必ず守り、奴隷や苦しみ、人が人として扱われない状態から救い出してくださるという希望を与えます。こうして、イスラエルの民は、エジプトの奴隷生活を後にして、神の民として新しい生活へ、旅立っていったのですね。

 そう、「葦の海」の奇蹟は、ただ「神様には何でも出来る」という以上に旅の始まりでした。神が人を新しい歩み、神と共に歩む旅へと旅立たせた始まりでした。そんな力があるなら、わざわざ海を通らずに、エジプト軍をやっつけることが出来たとしても、神はイスラエルの民に海へと進ませられたのです。海は古代世界では、人を飲み込んでしまう恐ろしく強いもの、死をも象徴する場所でした。そこに出来た道を通ることには、並大抵でない勇気がいる踏み出しだったはずです。「どうせなら、海なんか通らない方法で助けよう。危険を取り除いて、慣れ親しんだエジプトに帰らせてあげてもいいな」とは神は考えませんでした。神は、道があるなどと思わない海に道を造って、そこを通らせます。慣れ親しんだ生活に背を向けて、新しい生活に進ませるのです。そうして始まった出エジプトの旅でした。そして、これは始まりに過ぎませんでした。この奇蹟でイスラエルの生き方や心がすっかり変わったわけではありません。この華々しく力強い大奇跡や、15章で喜び歌い踊った熱意は、直ぐ後で冷めていきます。

詩篇106:13しかし 彼らはすぐに みわざを忘れ 主のさとしを待ち望まなかった。

 「エジプトに帰りたい、昔は良かった、出て来なければ良かったのに」と言い続けるこの後、神の民としての生き方を十戒で示されても、彼らの生き方は変わりません。やがて、主よりも、富や繁栄や神殿を神として、弱者や外国人を顧みない国を造っていきます。人の心根は、どんな奇蹟や大きな体験によっても変わらない。でも神は、エジプトで禍を起こし、ファラオの心を頑なにもし、葦の海をも開く力ある神は、確かに民の心の中に働いてくださり、人を変えてくださる。長い旅路をずっとともにしてくださり、じっくり人に関わり、心に働きかけ、人を新しくなさるのです。神は、人間が造り上げた奴隷社会からも、人間の心の様々な偶像崇拝からも、私たちを引き出されます。行き詰まった状況を変えたり、起死回生の解決を見せたりする以上に、新しい道に踏み出す勇気、神を信頼して今までの在り方を手放す潔さも、人や私自身の心に与えてくださるお方です。私たちを変えて、神ならぬものを神とする生き方や、変化を受け入れない心を柔らかくしてくださる。人間が考えもしない意味で「全能の神」なのです。

 過越が十字架の予告であるように、「葦の海」は復活の予告です。全能の神であるイエスは、ご自分の十字架によって、すべての悪や支配を終わらせました[iii]。でも、キリストは死なずに勝利するのではなく、死や辱めや苦しみをも引き受けました。主は、全能の力で問題を解決して、華々しい勝利を収める、という道ではなく、死や苦難、絶望の中に道を開くことで、全能の御力を現される、不思議なお方です[iv]。私たちはこのキリストに結ばれて、新しい生き方、新しい旅路を進み、私たちの心や生き方を、神の恵みによって新しくされていくのです[v]

 パウロはこの葦の海の出来事を「洗礼」と重ねています[vi]。洗礼の水は、葦の海を思い起こさせ、イエスが死に踏み出した事実とも重なって、私たちも神の招きに飛び込んだ旅路にあることを現すのです。神は、しばしば人の生活を安泰にするよりも、死や八方塞がりな状況に置かれます。でもそこに、神は人が考えるよりも、遥かに大きく、尊い命を用意されています。そうして、私たちの心の奥深くに触れてくださいます。真実な主が、道なき所にも脱出の道を備えておられる。私たちのために戦って、人を奴隷や足蹴(あしげ)にする社会を引っ繰り返される[vii]。私たちがオタオタし、神に不信仰な言葉を吐いても、神は力強く導いてくださる。私たちはそう信じ、そして踏み出すのです。「葦の海」は上辺の大奇跡以上に、イエスの復活の予告です。その復活の命によって、神が私たちを生かしてくださっているのです。

「主よ。海に道を開き、私たちのための道となってくださった御力を賛美します。解放の喜びと、歌い踊る賛美を下さる御心を感謝します。今はそれが信じがたく、道が見えない思いをし、疑い叫ぶ思いをもあなたは聴き、知ってくださる憐れみも有難うございます。主の聖晩餐に与ります。どうぞ、私たちを主のいのちによって養い、今ここで神の民として歩ませてください」



[i] 以前は「紅海」とされて、出エジプトをテーマにした映画でも大きな紅海が舞台に描かれますが、今では、もっと小さな「葦の海」だろうと考えられています。とはいえ、それでこの奇跡が説明できるわけではありません。いずれにせよ、神の大いなる御力を現した一大事なのです。

[ii] 出エジプト14、15章以外に、民数記33:8「ピ・ハヒロテを旅立って海の真ん中を通って荒野に向かい、エタムの荒野を三日路ほど行ってマラに宿営した。」、ヨシュア4:23「あなたがたの神、主が、あなたがたが渡り終えるまで、あなたがたのためにヨルダン川の水を涸らしてくださったからだ。このことは、あなたがたの神、主が葦の海になさったこと、すなわち、私たちが渡り終えるまで、私たちのためにその海を涸らしてくださったのと同じである。」、ネヘミヤ9:11「あなたは私たちの先祖の前で海を裂き、彼らは海の真ん中の乾いた地面を渡りました。追っ手は、奔流に吞み込まれる石のように、あなたが海の深みに投げ込まれました。」、詩篇66:6「神は海を乾いた所とされた。人々は川の中を歩いて渡った。さあ 私たちは神にあって喜ぼう。」、77:19「あなたの道は 海の中。その通り道は大水の中。あなたの足跡を見た者はいませんでした。」、78:13「海を分けて 彼らを通らせ 堰のように水を立てられた。」、78:53「神が安らかに導かれたので 彼らは恐れなかった。しかし彼らの敵は 海がおおい隠した。」、106:8「しかし主は 御名のゆえに 彼らを救われた。ご自分の力を知らせるために。主が葦の海を叱ると 海は干上がり 主は彼らに深みの底を歩かせられた。 まるで荒野を行くように。10主は 憎む者の手から彼らを救い 敵の手から彼らを贖われた。11水は彼らの敵を包み 彼らの一人さえも残らなかった。」、114:3「海は見て逃げ去り ヨルダン川は引き返した。」、136:13「葦の海を二つに分けられた方に感謝せよ。 主の恵みはとこしえまで。14こうして 主はイスラエルにその中を通らせた。 主の恵みはとこしえまで。15ファラオとその軍勢を葦の海に投げ込まれた。 主の恵みはとこしえまで。」、イザヤ10:26「オレブの岩でミディアンを打ったときのように、万軍の主が彼にむちを振り上げる。杖を海にかざして、エジプトにしたようにそれを上げる。」、43:16「海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、17戦車と馬、強力な軍勢を引き出した主はこう言われる。「彼らはみな倒れて起き上がれず、灯芯のように消え失せる。」、51:10「海を、大いなる淵の水を干上がらせ、海の底に道を設けて、贖われた人々が通るようにしたのは、あなたではないか。」、63:12「その輝かしい御腕をモーセの右に進ませ、彼らの前で水を分けて、永遠の名を成し、」。以上旧約。この他、新約ではⅠコリント10:1「兄弟たち。あなたがたには知らずにいてほしくありません。私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。」、ヘブル11:29「信仰によって、人々は乾いた陸地を行くのと同じように紅海を渡りました。エジプト人たちは同じことをしようとしましたが、水に吞み込まれてしまいました。」で直接言及されています。また、ヨシュア3:16のヨルダン渡河、Ⅱ列王2:8は、このアレンジ。

[iii] コロサイ2章12節以下「バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じたからです。13背きのうちにあり、また肉の割礼がなく、死んだ者であったあなたがたを、神はキリストとともに生かしてくださいました。私たちのすべての背きを赦し、14私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。15そして、様々な支配と権威の武装を解除し、それらをキリストの凱旋の行列に捕虜として加えて、さらしものにされました。」

[iv] 全世界を造り支えて、海を分け軍隊も滅ぼせる方が、人となる道を選びました。神と人との間の、道などないところに、自らが道となって来られました。病を癒やし、死者をよみがえらせた方が、疎外された人と一緒に疎外され、冒涜者の汚名を着せられ、犯罪者と一緒に十字架に付けられました。もっと他の道だっていくらでも創造できたでしょうに、全能のイエスは、すべてを手放して、死に踏み込まれました。ご自分を全く惜しまず私たちに与えて神の愛を示し、罪の赦しを宣言し、すべての悪や支配を終わらせ、私たちとともにいると約束されました。

[v] 聖書は、この世界を造られた神が、今もこの世界に良い計画を持っておられ、必ずそれを完成させてくださる、という物語を語ります。私たちもそこに招かれています。それが見えなくて絶望する時も、私たちのために戦われる神、海に道を開く神、正義へと続く旅を導く神なのです。

[vi] Ⅰコリント書10章1節以下「10:1 兄弟たち。あなたがたには知らずにいてほしくありません。私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。2そしてみな、雲の中と海の中で、モーセにつくバプテスマを受け、3 みな、同じ霊的な食べ物を食べ、4 みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。…13 あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」

[vii] アモス5章24節「公正を水のように、義を、絶えず流れる谷川のように、流れさせよ。」、また、ヨハネの黙示録15章3節4節の「モーセの歌」は、出エジプト記15章11節を踏まえて、黙示録の描く終末的な悪の支配者への勝利を歌っています。「彼らは神のしもべモーセの歌と子羊の歌を歌った。「主よ、全能者なる神よ。あなたのみわざは偉大で、驚くべきものです。諸国の民の王よ。あなたの道は正しく真実です。4主よ、あなたを恐れず、御名をあがめない者がいるでしょうか。あなただけが聖なる方です。すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。あなたの正しいさばきが明らかにされたからです。」

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