聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

使徒の働き二八章17-30節「まだ終わらない」

2018-08-05 16:06:51 | 使徒の働き

2018/8/5 使徒の働き二八章17-30節「まだ終わらない」

 「使徒の働き」28章の結びです。一年二ヶ月説教を続けてきた最後です。30年以上に及ぶ教会の最初期の歩みを結ぶ言葉から、この続きに生きる者として整えられたいと思います。

1.イザヤの言葉どおり

 ローマに着いたパウロが三日後に早速行ったことは、ユダヤ人の主立った人たちを招いて、話をすることでした。ユダヤから遠いローマですが、バビロン捕囚やローマ帝国の繁栄などの歴史や経済の動きでローマには多くのユダヤ人がおり、ユダヤ教のセンターとも言える会堂(シナゴーグ)は十一もあったそうです。パウロは、そのユダヤ人のコミュニティとの対話をまず試みました[1]。丸一日掛けて、パウロは彼らに

「神の国のことを証しし、モーセの律法と預言者たちの書からイエスについて彼らを説得しようと」

説明を続けました。結果は、パウロの話を受け入れた人も信じようとしなかった人もいて、皆さんは帰ろうとする。そこで、

25…パウロは一言、次のように言った。「まさしく聖霊が、預言者イザヤを通して、あなたがたの先祖に語られたとおりです。26『この民のところに行って告げよ。あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない。27この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じているからである。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返ることもないように。そして、わたしが癒やすこともないように。』28ですから、承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らが聞き従うことになります。」

 なんだか捨て台詞のようです。あなたがたが煮え切らないのはイザヤ書の言葉通りだ。神はあなたがたを癒やさないのだ、とも取れます。しかし、このイザヤ書の言葉は、新約で何度も引用されているキーワードの一つです[2]。イエスも仰った言葉です。確かにユダヤ人の頑なさと結びついている言葉ですが、しかしそれを断罪するのではないのです。元々のイザヤ書の言葉もそうです。これはイザヤ書六章の言葉です。イザヤが初めて預言者となるよう、神の声を聞いた時にこの言葉が言われました。預言者として語ったのに聞く人がいなかった、という段階ではなくて、これから神さまの言葉をお伝えしようという時に、最初から聴いてくれると期待しない、分かってくれて、悔い改める人がいると思うなとイザヤに釘を刺すような言葉でした。しかし、その頑なさを踏まえた上で、イザヤ書は六六章もの長く壮大な、神の救いのご計画を語ります。その頑なな人間のために、「神のしもべ」メシヤが来られて、人のために苦しみ、異邦人にまで及ぶ回復を必ず完成させると語ります。それがこの言葉なのです。

2.少しも妨げられずに

 ですからこれは捨て台詞や憎まれ口とは思えません。パウロはユダヤ人には信じがたいことを十分分かっていました。その結果、異邦人の所へ行き、そこで信じる人が起こされる。却って神の国の働きが前進する、という無駄のない体験をしていたのです。それが、このローマでもそのようになろうとしている。そこに主の長いご計画を確認してのこの言葉なのでしょう。

 ですから最後30、31節でパウロがローマで二年間、自費で借りた家に住み、訪問者達を迎えて、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えたのも、そうした流れで見たらスッキリします。ユダヤ人の主立った人たちが信じなくても、パウロは二年間、軟禁状態でも訪ねてくる人を迎えると嬉々として神の国を宣べ伝えていた。地位があるか貧しいか、ユダヤ人か異邦人か、どんな人であろうと関係なく、訪問者を迎えて語った、そこに邪魔がなく語れたことを感謝している。こういう結びが、神の国と人の国との見方の違いを浮き彫りにします。

 それはいつまでもではありませんでした。この数年後、パウロは捕らえられて、このローマで殉教したのはまず間違いありません。それでも、二年間の自由な証しを取り上げるのです[3]。そこに与えられた二年の出会いを特筆して記しています。皇帝カイザルのお膝元で、名も知れない人たちとの出会いがあったと結んでいます。カイザルの前に立って堂々と証しをした、というドラマチックなクライマックスの方が絵になりそうですが、そうじゃないのが良いです。皇帝や大統領や天皇の前に呼ばれるかどうかより、今訪ねてくる人、今出会った人を迎えて喜んでいます。そして「神の国」を宣べ伝えているパウロは、ローマ帝国とか世界の権力とか、社会の流れから自由で、本当に「神の国」、イエス・キリストを王とする生き方をしています。そしてそれ自体が、ローマ帝国には脅威でもあり、とんでもないメッセージでした。

 「使徒の働き」と「ルカの福音書」はローマの高官テオフィロへの献辞で始まります。

ルカ一4すでにお受けになった教えが確かであることを、あなたによく分かっていただきたい…。

 「分かる」とは、ただイエスの事を知識として知る、キリスト教教理を知る、ということではありません。イエスの知らせ、パウロの語ることを分かり、受け入れ、信じるなら、テオフィロも神の国を生きるようになるはずです。それがルカが「使徒の働き」という二八章にも及ぶ本を執筆した動機でした。頭で分かるだけでなく、神の国を生きるようになる。この世界の常識とか圧力とかヒエラルキー、価値観や世界観や物語よりも大きくて、良い意味で本当に人間的な、キリストを王とする生き方をするようになっていく。それが、イエスが王であって、私たちを下から支え、治めておられるという事です。それは、パウロだけの話ではないのです。

3.神の国に生きる

 「使徒の働き」は弟子たちの伝記とかパウロを主人公とする物語ではなく、イエス・キリストの福音の証しです。ルカはここで筆を置きますが、福音そのものはまだ始まったばかりです。それが、ここでの終わりが特別にドラマチックでもゴージャスでもない理由の一つかもしれません。パウロのローマ到着という当初の目的は果たされて、そこでパウロは来る人皆に神の国を教えました。かつてはキリスト者を迫害し、イエスの福音に力尽くで抵抗したパウロが、どんな人でも受け入れて、神の国を語るように変わっています。そしてその御業はテオフィロのうちにも始まっています。ローマ帝国中のあちこちで、皇帝や権力者達の与り知らない随所で、

 「キリストこそ王であり神である。主であるイエスが十字架に死によみがえって、世界を治めておられる。その国がやがて来る」

という知らせが伝えられていました。その知らせを聞きたいと訪ねて来る人たちが起きていました。この終わりは「まだ終わりではない」、今も続いている、という結びです。

 世界の宣教団体で時折「使徒二九章(Acts Chapter 29)」という言い方をします。使徒の働きの二九章は今も書かれている。いいや、使徒の働きそのものが、続きへの開かれた終わり方をしている、という事だと思うと、こういう終わり方だと腑に落ちるのではないでしょうか。

 このパウロの時代から二千年になろうとする今も、まだ神の国は終わっていません。イエスが王として私たちを治めておられ、この世界に神の国を始めておられます。私たちはその方の恵みの力によって今ここにいます。神の国に生かされています。日本やアメリカや中国にそれぞれの声があり、またテレビやコマーシャルや消費社会の声が飛び交う中、そういう華やかな声に流されやすい私たちですが、それでも私たちは、もっと大きく尊く、いのちに繋がる御言葉があると知っています。その通りには生きられなくても、その御言葉こそ永遠だと信じ始めています。私たちの生活に、人が神に期待するドラマはないでしょう。奇跡や華やかさもないとしても、でもイエスはそこでも私たちと一緒に歩んでおられます。「神の国」はまだ終わらず、頑固に見えるこの世界に生きて働いています。そこを忘れて、教会が華やかさや力や華やかなドラマを求めるなら虚しいことです。置かれた場所で、神の国に今既に生かされていることを信じて、まだ終わっていない神の物語の端に加えていただいていることを覚えたいのです。

「主イエスよ。御国の福音が二千年書き綴られてきました。今や日本にも伝えられ、なおも世界各地で書き継がれているのは、あなたこそ王だからです。始まりとは全く違うこの結びのように、教会の歩みも私たちの人生も決して予測通りには行きませんが、あなたの御手の中にあります。信頼をもって、柔らかで開かれた心で歩ませ、あなたの証し人とならせてください」



[1] エルサレムではユダヤ人の過激な人たちに捕まって殺されかけましたから、その事がローマのユダヤ人達にも伝わっていて、警戒心を抱かれていることを懸念したのでしょう。まずは自分がローマに上訴してここに来た経緯を話しています。自分はユダヤ人の一員であって、関係を築きたい、話をしたいと願っているのだ、と言います。

 集まったユダヤ人達も、集まってくるぐらいですから、パウロの名前を聞いたり、キリスト教に対する情報を得たりして、警戒心か関心程度はあったので、23節、後日改めてもっと大勢でやって来ます。

[2] ルカ八10、ヨハネ十二39-40、ローマ十一8。マタイ十三15も参照。

[3] この時期に、パウロ書簡のコロサイ、ピレモン、エペソ(獄中書簡)、ピリピが執筆されたと考えられています。

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