聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問73「子どもたちも聖い」Ⅰコリント7章12~16節

2017-06-18 15:50:04 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/6/18 ハ信仰問答73「子どもたちも聖い」Ⅰコリント7章12~16節

 洗礼についてのお話しを続けていますが、今日が洗礼については最後です。そして、最後に取り上げるのは幼児洗礼ということです。幼児にも洗礼を授ける? 生まれてまだ理解も何も出来ない子どもに洗礼を授けるのはどういうことなのでしょうか。今日の問74では、この事を取り上げてこう教えています。

問74 幼児にも洗礼を授けるべきですか。

答 そうです。なぜなら、彼らも大人と同様に神の契約とその民に属しており、キリストの血による罪からの救いと信仰を生み出される聖霊とが、大人に劣らず彼らにも確約されているからです。それゆえ、彼らはまた、契約のしるしとしての洗礼を通してキリスト教会に接ぎ木され、未信者の子どもたちとは区別されるべきです。そのことは旧約においては割礼を通してなされましたが、新約では洗礼がそれに代わって制定されているのです。

 しかし、実はこの問答74の存在自体が、こう言わなければならなかった事情を反映しています。ハイデルベルグ信仰問答が書かれた16世紀、宗教改革が始まった時、中にはとても極端な改革をしようとした運動もありました。その一つが、幼児洗礼を否定する、という考え方でした。それまでは幼児洗礼を行ってきたヨーロッパ社会で、洗礼は、大人が自分で信仰告白をしたら授かるものだ、と言い出したのです。彼らは、幼児洗礼を止めただけでなく、全ての幼児洗礼を無効だと考えました。自分たちも幼児洗礼を受けていたのですから、それは無効であって、自分たちで洗礼を新たに授けることをしました。これが「再洗礼派」という急進的な立場です。この問74は、そういうラディカルな立場に対して応えよう、という事情があったのです。

 それから五百年近く経って、今はこの「ハイデルベルグ信仰問答」を大切にする人たちも、この問74に関しては注意深くコメントをしています。再洗礼派の人たちが言いたかった、幼児洗礼の問題にも一理あるのです。今まで見てきたように、洗礼そのものに救う力があるわけではないし、洗礼を受けなければ救われないわけでもありません。大事なのは、キリストの十字架による救いです。洗礼が救うのではなく、キリストの御業を聖霊が届けてくださるのです。その事を誤解したままの、当時の幼児洗礼は、やっぱり誤解されて、迷信のように行われていました。そんな儀式は止めよう、という再洗礼派の言い分も、あながち間違いばかりだとは言えません。まして、みんながみんな、教会に行っていた当時と、日本のようなキリスト教徒がごく少数の今とでは、かなり事情が違うことを考えなければなりません。

 しかし先に読んだⅠコリント書も、私たちと同じようなキリスト教が少数の町でした。教会はまだ少数でした。教会に来ているのが夫婦揃ってでなく、夫だけで妻は来ていない、妻だけで夫は来ていない。そういう家庭のことも触れていました。それも、私たちの教会と似ています。でも、そういう夫婦についても、パウロは言うのです。

Ⅰコリント七14…信者でない夫は妻によって聖められており、また、信者でない妻も信者の夫によって聖められているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れているわけです。ところが、現に聖いのです。

 この場合の「聖い」とは言うまでもなく、心が清らかだとか性格が聖人みたいだという意味ではなく、言わば「特別扱い」というような意味です。ある人がキリストに結ばれているということは、その人だけのことではなく、その人の家族(夫や妻、また子ども)も含めて、神様の恵みの中で見るような目を与えられるのです。特に子どもは「現に聖い」と言われます。聖書はその最初から、人を個人主義でバラバラに見るのではなく、家族や共同体的なものとして見ています。神様の約束は、アブラハムに対して、

「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」

と仰っていました。星の数よりも多くの子どもを授ける、と約束されました。神様の契約は、その人とだけ、ではない。誰かが信仰を告白したら、その人だけを神の民としてくださる、というものではない。子どもも神の契約に預かっているのです。それが聖書の契約の豊かな慰めです。

 ハイデルベルグ信仰問答でもそう言っています。もう既に、神の契約とその民に属している、罪からの救いと信仰を生み出す聖霊が確約されている。だから、洗礼を授けて、教会の一員として正式に認めましょう。そのために洗礼を授けるのは何の問題もないのです、と言っています。洗礼を授けたら神の契約の中に入る、とは言っていません。洗礼を授けなければ救われない、とも言っていません。洗礼を授ける前から、既にキリストの約束の中にあると言うのです。だから、そのしるしとして施すのが、幼児洗礼なのですよ、ということをここでは言っているのですね。そして、神が契約の中に入れて下さっていることが、いつかその口から自分で信仰を告白する日にハッキリすることを期待するのです。でも、洗礼も救いも、その人の信仰に基づいて授けるのではありません。キリストの御業だけが、救いの根拠であり、信仰もまたキリストが私たちのうちに下さる恵みです。その事が、幼児洗礼をも可能にするのです。

 最初に見せたこの写真をもう一度見てください。以前の考えや再洗礼派が批判したような考えなら、子どもが救われるための儀式として幼児洗礼がなされていました。しかしそうではないのです。幼児洗礼は子どもと牧師だけのものではありません。家族も教会の方々もそこにいます。神の家族全体が、新しく生まれた子どもも、神の尊い祝福の中に受け止める時です。そして、一人一人が、自分もまた、信仰を告白する以前から、神の恵みの中に洗われ、聖い者と見なされて、今ここにあることを覚えて感謝するときです。

 私も幼児洗礼を行わない教会で育ったので、初めて幼児洗礼を見る時は、とても迷いました。ただの古めかしい儀式だと思い込んでいたのです。けれども、初めての幼児洗礼式は、子どもたちの祝福を祈り、教会全体でその子の信仰の成長のために祈り、教え、育てます、という誓約の時でした。その感激を今も忘れることが出来ません。

 主が私たちを契約の民とされたのは私だけのためではなく、周囲の人、とりわけ私たちの家族に祝福が及ぶためです。幼子も大人もキリストの恵みの中に入れられるのです。その約束をもう一度覚えましょう。そして家族を愛し、信仰を語り合いましょう。

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使徒の働き2章22-36節「ありえない話」

2017-06-18 15:34:06 | 使徒の働き

2017/6/18 使徒の働き2章22-36節「ありえない話」

 「使徒の働き」二章には聖霊を注がれた弟子の力強い最初の説教が書かれています。[1]

1.ペテロの説教[2]

 ペテロはここで、つい七週間前に起きたイエスの十字架を思い出させ、そのイエスの復活と、イエスこそ聖書に約束され、待ち望んでいたキリストであることを話しています。ここで詩篇十六篇と合わせて引用される詩篇一一〇篇は、新約聖書で最も多く引用される旧約の言葉です。

「主(ヤハウェなる神)が私の主(主人)に言われた。

35わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。」

 この「わたしの右の座に着いている」とは、ただ座っている、というのではなく、神の右腕とも言うべき権威を与えられて、支配する、という意味です。のんびり座って休んでいる、ではなく、神の権威を帯びる主であり、その支配はすべての敵を「足台」とするほどの力強い立場です。そのような方のことは旧約時代から言及されていましたが、キリスト教会はそれがイエスのことだと信じ、告白しました。ここでもペテロは、聖霊降臨の出来事は、十字架に殺されたイエスが本当に復活され、天に昇られて、神の右の座に着かれて、そこから聖霊を注がれた出来事だという論証をしているわけです。イエスこそ主でありキリスト、神がずっと約束されていた王である。この事を宣言したのが、ペテロの説教でした。その結論が36節です。

36ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」

 しかしペテロは「主ともキリストともされたイエスを、あなたがたは、事もあろうに十字架につけてしまったのだ」と責めたいのではありません[3]。23節でハッキリと「神の定めた計画と神の余地とによって引き渡された」とあるように、この十字架も神の側でのご計画でした[4]。人が神の子イエスを十字架に処刑したことは人の罪ですが、同時にそれは、神のご計画で、イエスが自ら飛び込んで引き受けられた死だったのです。そしてその十字架の死で終わらず、

24しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。

 主でありキリストでもある方が、死に繋がれていることなどあり得ない。死も終わりではなく

「産みの苦しみ」

であって[5]、そこからよみがえられた、というのです。

2.あり得ないキリスト

 しかし、イエスが死に繋がれていることなどあり得ない以前に、イエスが死ぬことだってあり得ないのではないでしょうか。主なるお方が人間となり、貧しくなることだって、あり得ないのではないでしょうか。これは、ユダヤ人には大きな躓きでした。イエスの力あるわざや不思議やしるしを見ながら、最後にはイエスを十字架につけて殺したのは、イエスの貧しさ、低さに躓いたからです。イエスが神なら、奇蹟を起こし、輝かしい勝利を起こせるはずだ。苦しんだり、貧しい人にそっと寄り添ったり、社会の除け者を顧みたり、そんな事ではなく、もっと華やかで正義の味方らしいことをしてほしい。そう願ったのです。十字架に死ぬようなイエスなんて要らない、それがキリストだなんてとんでもない冒涜だ、と思ったのです。これは「使徒の働き」で後々まで何度も争われる点です[6]。後に使徒パウロとなるサウロがキリスト者に激怒したのも、キリスト者が、十字架につけられたイエスなんかをキリストと呼ぶのは冒涜にも程がある、としか考えられなかったからです[7]。そのパウロは後に書きます。

Ⅰコリント一23…私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、

24しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。

 ギリシヤ人にとっても、神が人間になられたなんてナンセンスでした[8]。ギリシヤの哲学では「神の不可難性(不可受苦性)」という考えがあります。大いなる神は無限で永遠で不変であるから、その神を苦しめることは出来るはずがない。神が人間や被造物によって苦難を感じられるとしたらそれはもはや神ではない、と考えたのです。しかしどうでしょうか。キリストはこの世界に来られて十字架に苦しまれました。それどころか、人間の孤独や悲惨、迷って諦めた状態に深く心を痛められました。そして、その深い憐れみ、人間に対する愛故に、人から傷つけられ、十字架にかけられ、死ぬことをさえ自ら選ばれたのです。そして、ひとりの小さな人間が帰ってくる時に、九十九人の正しい人以上に喜ばれる方です。人間が自分の間違いに目を覚まし、生き方を改め、罪を告白して、新しく生きるようになるときに、その人以上に大喜びなさるお方です。確かに神は永遠で無限ですが、同時に大いなる愛のゆえに、私たちのために心を動かされ、人となり、十字架に苦しみ、血や涙を流され、御自身の聖霊を一人一人の心に注いでまで、私たちの歩みに深く深く働かれます。その無限の力によって、悲しみや問題をあっという間に解決する、というお方ではない。徹底して、人間の悩みや辛さを味わい知った上で、そこから私たちを慰め、喜びを満たしてくださる。詩篇一六篇で言われていた「いのちの道」「喜びで満たして」という約束を、悲しみや痛みの中で、果たしてくださるお方です。

3.あり得ないことをなさる神

 このペテロの説教は、人々をイエス殺害の責任を問うて責める非難ではありません。復活を根拠にイエスが約束のキリストであったと認めるだけでも終わりません。それは、人々の神理解を根本から覆すものでした。神は私たちの救いのために、仕方なく我慢して一度だけキリストの十字架の屈辱に甘んじたのではありません。神はご自身を偽ることが出来ないお方です[9]。人間が見捨てたキリスト、こんなキリストは要らないと十字架に捨てたイエスこそ本当のキリストでした。人間の身勝手で傲慢なその決めつけに、御自身が無残に殺されることも承知の上で、この世に来られ、死んで、そこからよみがえられたイエスであると知るときに、人は自分を責めるのでもなく、ただただ神の圧倒的な憐れみを思って、この神に立ち帰るだけです。

 この説教で三千人ほどが弟子に加わりますが[10]、ペテロはそう見越したとは思いません。聴衆が逆上し、冒涜だと激高して、弟子達全員殺されたかも知れません。それでもペテロがこの大胆な説教を語ったのはどうしてでしょう。人々を責めたかった? 怒りや憎しみが動機だったとは思えませんし、自分自身イエスを裏切り見捨てた責任は棚上げ出来ません。むしろペテロはその自分のために謙り、十字架の苦しみをも受けてくださったイエスこそ神だと知った驚きと感謝、感激に打たれていたでしょう。今まで、弟子の中で

「誰が一番偉いか」

と背比べをしていた自分たちの横で、本当に偉いお方イエスはその逆に、卑しい自分たちとともにおられました。世界の悲しみをパッと解決してしまうのではなく、御自身がその痛みをとことん味わい尽くしてくださった。神は大いなる神だ、冒涜してはならない方だと仰ぎ、恐れていた神が、実は、私たちとともにおられた。少しでも上になる力を求める自分が、どれほど神の心を傷つけていたか。自分の不満、怒り、批判、他者への軽蔑がイエスを十字架にかけたのだ。イエスは人間の悲惨の最も底に降りてこられる事も厭わなかった。そのイエスこそ神の心を現していたのです。そのありえないかたじけなさに心が溢れて、何人信じようが自分が殺されることになろうが構わずペテロは語ったのです。私たちのキリスト者生活の原点もここです。このイエスこそ神だというあり得ない恵みに驚き、立ち止まり、心を打たれて、歩むのです。

「主よ。人が思い描くよりもあなた様は遙かに熱く、深く、苦しみを知り、私たちの小さな歩みをも大いに喜ばれ、私たちをも喜びで満たしたもう方です。神の右におられるイエスが、私の心も生活も、隅々までともにいてくださいます。十字架と復活の主イエスを知って、私たちも主に似た者とされ、罪を捨て謙り、愛を頂き、喜びと慰めに満ちてともに歩ませてください」



[1] ただキリストの教えを弟子達が信じたり伝えたりし始めた、というだけではなかったのです。キリストが教えられたこと、十字架と復活において成し遂げられた救いが、その五十日後に聖霊によって弟子達にシッカリ届けられたのです。その時、弟子達が、臆病で逃げ出して、イエスを裏切った弟子達が、大胆にキリストを証しし始めました。それも、言葉の違う世界の人を包み込む、非常識な福音を示し始めたのです。

[2] ペテロの説教を大きく三つに分けましょう。22節から24節では、イエスの活動を大きく振り返っています。それはユダヤの指導者を動かすような大きな運動でしたから、その事を思い出させるようにして語り、最後には十字架につけたこと、しかし、神はイエスをよみがえらせたことを語っています。次に、25節から33節では、ダビデの作であるとされる詩篇16篇を引用して、それがキリストの復活を預言していたのだ、と言っています。そして、その預言の通りにイエスはよみがえられたのだ。それぐらいイエスの復活は、聖書が昔から約束してきた、大事な出来事で、そのイエスが聖霊をお注ぎになったのが私たちなのだ、というのです。最後の34節から36節ではもう一つ詩篇一一〇篇を引用し、イエスがここで言われている「私の主」だと言っています。36節で「神が、今や主ともキリストともされたこのイエス」と言う通りです。

[3] 新共同訳聖書では、この36節はこう訳しています。「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

[4] 私たちは、神のご計画と自分たち人間の側の責任とをいつも両面見ていくのですね。神のご計画があったから自分のせいではない、とは言わないし、神のご計画とは違うことを自分がしてしまった、と自分の責任を過大評価もせず、自分の判断や責任と神の摂理とをいつも両面考えるのです。そしてその典型的な出来事は、イエスの十字架です。

[5] 24節欄外注参照。

[6] 今日のペンテコステの説教では大勢の人が回心しますが、段々こういう勢いは巻き返されます。

[7] 更に、パウロの回心後、パウロはユダヤ人たちに、このイエスこそキリストであると弁明しようとした際、ほとんどの場合、ユダヤ人は反発します。特に22章では、この2章と同じエルサレムで、集まった大勢の群衆は、信じたり納得したりせず、パウロを殺そうとするのです。

[8] この事は17章のアテネ伝道でハッキリします。

[9] これは、哲学的な神概念ではなく、Ⅱテモテ二13で「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼には御自身を否むことができないからである。」という聖句で明確に教えられていることです。

[10] 41節。

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