聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問83-84「違いはあれど罪は罪」ローマ七章12~14節

2015-10-11 20:52:36 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/10/11 ウェストミンスター小教理問答83-84「違いはあれど罪は罪」ローマ七章12~14節

 「毒を食らわば皿まで」という言葉を知っていますか。

「(毒を食う以上は、その皿までもなめてしまおうの意で)一度罪を犯した以上は、ためらわずに最後まで悪に徹しようとすることをいう。また、いったん面倒なことに関わってしまったからには、最後まで関わり抜く。」

という意味だそうです。「悪いことにどうせ手を突っ込んでしまったんだから、徹底的にやってしまっても同じだ」という言いぐさです。「嘘を吐いたらもう最後までしらを切ろう」「人のモノを盗っちゃったら、二つ盗っても三つ盗っても同じ」、「一人殺しても十人殺しても同じ」。逆に、嘘やズルがバレた時に、「お前は生まれてから一度も罪を犯したことがないのか。心の中で、恥ずかしい想像や汚い考えをしたことがないっていうのか」と逆ギレする人もいますね。でも、それは間違いです。

問83 律法に対する違反はみな、同じ程度にいまわしいのですか。

答 ある罪は、それ自体で、また、いくつかの加重の理由で、他の罪よりも神の御前に一層いまわしくなります。

問84 すべての罪は、何に値しますか。

答 すべての罪は、この世においても、来るべき世においても、神の怒りと呪いに値します。 

 ここでは、神の律法に対する違反は、みんな同じ程度に忌まわしいのではなく、罪を「加重」(さらに重くする要素)ということがあるのだ、ということです。

 例えば、同じ罪でも、罪を犯す本人が、年長者、指導者など、責任ある立場にいる人、みんなの模範となることを期待される人がする場合は、よりその罪はひどい影響力を持ちますね。牧師や親、学校の先生、一流選手、政治家の影響は大きいのです。

 それから、相手によっても、罪の責任はより重くなります。人の悪口もいけませんが、神への悪口は更に恐ろしいことです。自分の親や目上の人に対する罪も聖書はより責めています。でも、多くの社会では、貧しい人や障がい者、病人などは、余り顧みられないで、「虫けらのように扱われる」と言われたりします。しかし、聖書はそれとは正反対のことを教えます。イエスは言われました。立場の弱い人、「最も小さい者のひとりにしたのは、このわたしにしたのです」と。弱い人に対する罪は、より重く問われるのです。

 三つ目以降は、罪そのものの背景です。それが「知らずに」した罪、悪いと分かっていなかった、罪だと教わっていなかった、正しいと思ってやってしまったよりも「明らか」に罪だと分かっていた場合の方が、より重く罰せられます。パウロは、イエスに出会う前、教会を迫害していました。沢山のキリスト者を、良かれと思って、捕らえたり苦しめたり殺したりしましたが、それはまだ知らずにやったことだったので、神はそのことを汲み取って憐れんでくださったと言っています(Ⅰテモテ一13)。しかし、悪いと分かっているのにする、あるいは、した方がいいと分かっているのにしないことは、弁解の余地がありませんね。また、ただ考えただけでも罪は罪ですが、やっぱり「思い」だけでなく、それを実際に行動や言葉にする方が、悪いです。また、「うっかり」してしまうだけでも悪いことは悪いのですが、それを「わざと」(ちゃんと分かって、計画的に、悪びれずに、楽しんで)やる方が、当然、神は厳しく責めるでしょう。そして、「はじめて」の罪よりも「二度目、三度目」何度も、のほうが重い。決して、一度やれば、二度も三度も同じ、ではありません。二度目の方がより悪く、三度目はもっといけないのです。最後に、反省や謝罪をしたのに、また繰り返す場合、「ごめんなさい。もうしません」と誓っておきながら、それを破って犯した罪は、より厳しく罰せられます。

 私たちの人間関係でも、これは十分理解できる事ですね。新聞で読む犯罪も、お父さんお母さんや学校の先生や教会の牧師がしたら、ショックは何倍にもなるでしょう? だから、こうしたことは特に神が罰の厳しさに差を付けられる、という意味ではなくて、罪の違いを確認したわけです。その上で、次にこう言われていました。

問84 すべての罪は、何に値しますか。

答 すべての罪は、この世においても、来るべき世においても、神の怒りと呪いに値します。 

 え、ぢゃあ、罪の加重って何だったんだろう?と突っ込みたくなりますね。すべての罪が、神の怒りと呪いに値するなら、どんな罪も変わらないんじゃないでしょうか? いいえ、要するに、罪の加重というのは、自分の罪の方が小さいから大丈夫、大きな罪は犯さないようにしなさいよ、ということではないんです。そんなことをしている人がいますか? 自分は罪を重くしていない、なんて言える人はいるでしょうか? みんなの上に立てば立つほど、誘惑も大きくなって、罪を犯し、それをまた隠そうとしやすい。うっかりじゃなくて、分かってて、でも罪を願って、確信的に罪を犯してしまうのです。「毒を食らわば皿まで」だなんて言って、もっと罪を犯している。そういう罪の加重を、私たちは現にしているのだ、だから、弁解の余地はないのだ、ということです。

 キリスト者の罪の理解は、私たちが神から離れて、神を失って心が罪に縛られて、「罪人」となったために罪を犯してしまう、のだ、というものです。罪を犯し、沢山の悪を重ねているうちに、その結果、罪人になってしまう、というのではありません。具体的な罪は、罪人である結果なのです。ですから、罪の重さに違いがある、という今日の話は「罪を重くしてはいけませんよ」とお勧めしている以上に「律法が示すように、私たちは実際、軽い罪だけではなく、罪に罪を増し加えるような生き方をしているではありませんか」と、聖書が私たちの罪の性質をハッキリ見つめさせる事を教えています。

 イエスは、私たちの罪のために十字架に死んで、よみがえってくださいました。私たちに、まだ言い訳の余地があるとか、自分の罪はまだ軽い、などと背比べするのは止めましょう。あらゆる重さの罪をも、イエスはすべて徹底的にご存じです。その上で私たちを受け止め、癒やし、新しくして、罪の支配から、主イエスの支配に入れてくださった、と聖書は示しているのです。この新しい恵みの御支配に与るためにも、自分の罪や問題を、ごまかさずに認めましょう。そして、それを主に告白して、恵みの支配に変えて下さるよう、願いましょう。律法が示すのは、本当に罪から自由にされる道なのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ルカ二三章13~25節「罪は見つからないのに」

2015-10-11 20:50:07 | ルカ

2015/10/11 ルカ二三章13~25節「罪は見つからないのに」

 

 「喧嘩(けんか)両成敗(りょうせいばい)」という言葉があります。騒動や暴力沙汰が起きた場合、理非に拘わらず、双方を罰する、という意味のようですが、実際にどんな非があったかを確かめようとせず、この言葉を持ちだして、どんな場合も一律に両方を罰することもあります。今日の所で、ピラトはイエスに罪がないと言いつつ[1]

「懲らしめたうえで、釈放します」

と二度も言っています[2]。罪がないなら、懲らしめる必要だってないでしょう。これは、実際には鞭で打つことです[3]。多くの人が、この鞭打ちは、大変な凶器を使った拷問で、それだけで死ぬこともあるような、一生背中が曲がってしまうような事だったと説明しています[4]。そんな鞭打ちを、どうして罪のない人にしたのでしょう。罪がないならば、即刻、無罪放免にしたら良いはずです。しかし、当時の考えの中には、濡れ衣であったとしても、騒動の原因となっただけで罰せられる、という判断は少なからずあったようです。「喧嘩両成敗」にも通じるような、乱暴な解決方法でしょう。ピラトは、イエスを憎むユダヤの祭司長や指導者たちの要求を拒みつつ、鞭打ちを科することで勘弁してやれ、と妥協案で手を打つ積もりだったのでしょう。

 このピラトは三度もイエスの無罪を主張しているのも印象的です。ある意味では、ピラトが「いい人」にも見えてしまいます。確かに、四つの福音書の中ではルカが一番ピラトに好意的だとも言われます。けれど、決してピラトを善人とか、犠牲者とは考えていません。イエスに罪が見られないことを分かりつつ、自分の立場を守るため、墓穴を掘るようなことばかりしてしまう。そして、最後は押し切られてしまう。いいえ、初めからピラトは逃げ腰でした。自分が結論を出して、議会との関係を拗(こじ)らせるのを避けるため、7節ではヘロデに、13節では「民衆」を巻き込んで、イエスを無罪放免にしようとします[5]。民衆は呼び集めなくても良かったのですし、民衆の許可など得なくても処刑要求は退けられたのです。それを、民衆にも釈放を承認させて、議会の反対を封じよう、などと思ってしまったのでしょう。イエスを殺したいのは議会だけで、民衆までイエスを憎んでいるわけではなかろう、と踏んだのです。

 しかし、民衆はイエスではなくバラバを選びます[6]

「暴動と人殺しのかどで、牢に入っていた」

とこれも19節と25節で繰り返して強調しています。人々は、暴動と人殺しで捕まっていたバラバが釈放され、何の罪もないイエスが十字架につけられることを願い、叫びました。ピラトは優柔不断で、妥協、臆病、自己保身をしました。民衆は、期待だけさせておいて今は何も抵抗をしないイエスよりも、少なくとも暴動や人殺しでもして戦ったバラバを英雄としました。イエスへの熱狂は殺意に変わりました。そして、祭司長や指導者たちの憎しみや傲慢な思い。様々な人間の愚かさ、間違い、弱さ、自己中心が絡んで、イエスは引き渡されたのです[7]

 しかし、誤解しないでください。ピラトにもうちょっと勇気と潔さ、責任感があったらよかったのに、という話ではありません。ピラトは、「イエスかバラバか」ではなく、「バラバとイエスの二人を無罪にしよう」と提案したら良かったんじゃないかとか、民衆は、バラバではなくイエスを選ぶべきだった、という問題でもありません。「私たちがここにいたら、イエスの十字架を阻止すべきだ」などと読む必要もありません。後にペテロはこう言います。

使徒三13「…あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。

14そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、

15いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。(中略)

17ですから、兄弟たち。私は知っています。あなたがたは、自分たちの指導者たちと同様に、無知のためにあのような行ないをしたのです。

18しかし、神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました。

19そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。

20それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。」

 ここでペテロは、民衆の間違いをシッカリと思い起こさせつつ、それを非難したり後悔させたりせず、そこにイエスの受難とよみがえりが起こったことを思い出させて、神に立ち返り、主の回復に与りなさい、と勧めています。バラバを選びイエスを十字架につけさせた、人間の狡さ、無責任さ、暴力性を見せて、自分たちがどれほど弱く、当てにならないか、自分の善意や正義感など吹けば飛ぶような者かを見つめさせます。こうならないように正しく生きましょう、正しい社会を作りましょう、なんてことではないのです。何の罪もないイエスをさえ、殺し、代わって実際の犯罪者であるバラバを釈放させた所に、私たち人間のどうしようもない罪は鮮やかに示されたのです。肝心なのは、そこにイエスが飛び込んで来られた事実です。憎しみや裏切りや妥協やプライドや無責任や熱狂が渦巻く坩堝(るつぼ)にイエスがおいでになった福音です。

 では、私たちはどうしたらよいのでしょうか。どうしたら、私たちはそんなずるけた生き方から、救われるのでしょうか。それは、その十字架へとつけられるためにこの世に来てくださったイエスにこそ、解決があることなのです。ペテロが民衆に促したように、自分の罪を認めて神に立ち返り、キリストが回復に来てくださるのを待ち望むのです。

 もちろん、ただ待ち望んで、信じるだけで、何もしないということではありません。置かれたそれぞれの場所で、人を恐れず、責任逃れや下手な策を弄して墓穴を掘るようなことをしない。むしろ、自分の責任を果たし、悪に手を染めない。そう務める事は、私たちの義務です。でも、それが出来たら、神も私たちとともにいて、私たちを祝福してくださる、というのではないのです。神は、暴力や殺意や妬みや嘘の世界の真っ只中に来てくださったのです。駆け引きをしたり、声の大きい者が買ったり、臆病を被害者意識で取り繕ったりする、今日の話は、まさに私たちの生活を映し出しているのではありませんか。そういう社会のどん底に、イエス・キリストは来てくださったのですし、今も私たちの所に来てくださるのです。そして、私たちに「正しく生きよ」と命じて終わるのではなく、人間の思惑やいい加減さ、不正のただ中で、神のご計画が進んでいるのだと教えます。私たちは、その神の御業に与って、恐れや不安から間違いを犯すような生き方から救い出され、キリストのこの愛に感謝し喜んで生きる生き方へと変えられている途中なのです。キリストに罪がないのは、明らかでした。そのキリストを捨てたことに、人間の罪も明らかになりました。そこに来てくださったキリストは、私たちが自分を信じる生き方から、この恵みのキリストを信じる確かな生き方を下さるお方なのです。

 

「主よ。イエスよりもバラバを選んだ民衆の姿に、自分の生活が重なり、自分の邪さを忘れていたと改めて謙り、恥じ入るばかりです。しかしそれ以上に、ここに飛び込んで来られ、ここで御業を力強く始めたもうあなたに感謝します。私共を励まし、あなたの回復の時を信じさせてください。裏切りや駆け引きでなく、真実や信頼や希望を作り出す毎日を送らせてください」



[1] これでさえ、「何の罪も見つからない」(4節)から、「訴えているような罪は」(14節)、「死罪に当たることは」(15、22節)とトーンダウンして、妥協していることに注目。

[2] 16節、22節。

[3] 新共同訳では「鞭で懲らしめ」と訳されています。言語の「パイデューオー」の原意は、子(パイス)として躾ける、というニュアンスがあります。

[4] そうではなく、もっと軽い鞭打ちだったと考える人もいます。それにしても、思い切り鞭打たれるならば、大変な傷と痛みが伴ったはずです。

[5] この「民衆」はルカの福音書では、イエスに好意的な「民」でもあり、指導者たちとは対局をなす存在として使われてきた言葉です。しかし、その神の民たちでさえ、この時はイエスを「十字架につけろ」と叫んだのです。

[6] マルコ一五6-15と比較すると、群衆が来たのは、バラバを釈放してもらうためであったことが分かり、バラバが十字架刑に決まっていたのだろうと推測できます。

[7] 私たちもまた、同じ弱さを、そして取り返しのつかないことをしかねない者です。「難しい決断をするときは、仲間からの圧力があることを覚えておこう。正しい決心には不愉快な結果が伴うことを覚悟しておこう。それは社会的な拒絶、成功の頓挫、公衆の嘲笑などである。それからピラトを思い出し、たとえ他の人がどんな圧力をかけてきても、正しいことを擁護しようと決心しよう。」Bible navi、1711。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする