2015/10/11 ウェストミンスター小教理問答83-84「違いはあれど罪は罪」ローマ七章12~14節
「毒を食らわば皿まで」という言葉を知っていますか。
「(毒を食う以上は、その皿までもなめてしまおうの意で)一度罪を犯した以上は、ためらわずに最後まで悪に徹しようとすることをいう。また、いったん面倒なことに関わってしまったからには、最後まで関わり抜く。」
という意味だそうです。「悪いことにどうせ手を突っ込んでしまったんだから、徹底的にやってしまっても同じだ」という言いぐさです。「嘘を吐いたらもう最後までしらを切ろう」「人のモノを盗っちゃったら、二つ盗っても三つ盗っても同じ」、「一人殺しても十人殺しても同じ」。逆に、嘘やズルがバレた時に、「お前は生まれてから一度も罪を犯したことがないのか。心の中で、恥ずかしい想像や汚い考えをしたことがないっていうのか」と逆ギレする人もいますね。でも、それは間違いです。
問83 律法に対する違反はみな、同じ程度にいまわしいのですか。
答 ある罪は、それ自体で、また、いくつかの加重の理由で、他の罪よりも神の御前に一層いまわしくなります。
問84 すべての罪は、何に値しますか。
答 すべての罪は、この世においても、来るべき世においても、神の怒りと呪いに値します。
ここでは、神の律法に対する違反は、みんな同じ程度に忌まわしいのではなく、罪を「加重」(さらに重くする要素)ということがあるのだ、ということです。
例えば、同じ罪でも、罪を犯す本人が、年長者、指導者など、責任ある立場にいる人、みんなの模範となることを期待される人がする場合は、よりその罪はひどい影響力を持ちますね。牧師や親、学校の先生、一流選手、政治家の影響は大きいのです。
それから、相手によっても、罪の責任はより重くなります。人の悪口もいけませんが、神への悪口は更に恐ろしいことです。自分の親や目上の人に対する罪も聖書はより責めています。でも、多くの社会では、貧しい人や障がい者、病人などは、余り顧みられないで、「虫けらのように扱われる」と言われたりします。しかし、聖書はそれとは正反対のことを教えます。イエスは言われました。立場の弱い人、「最も小さい者のひとりにしたのは、このわたしにしたのです」と。弱い人に対する罪は、より重く問われるのです。
三つ目以降は、罪そのものの背景です。それが「知らずに」した罪、悪いと分かっていなかった、罪だと教わっていなかった、正しいと思ってやってしまったよりも「明らか」に罪だと分かっていた場合の方が、より重く罰せられます。パウロは、イエスに出会う前、教会を迫害していました。沢山のキリスト者を、良かれと思って、捕らえたり苦しめたり殺したりしましたが、それはまだ知らずにやったことだったので、神はそのことを汲み取って憐れんでくださったと言っています(Ⅰテモテ一13)。しかし、悪いと分かっているのにする、あるいは、した方がいいと分かっているのにしないことは、弁解の余地がありませんね。また、ただ考えただけでも罪は罪ですが、やっぱり「思い」だけでなく、それを実際に行動や言葉にする方が、悪いです。また、「うっかり」してしまうだけでも悪いことは悪いのですが、それを「わざと」(ちゃんと分かって、計画的に、悪びれずに、楽しんで)やる方が、当然、神は厳しく責めるでしょう。そして、「はじめて」の罪よりも「二度目、三度目」何度も、のほうが重い。決して、一度やれば、二度も三度も同じ、ではありません。二度目の方がより悪く、三度目はもっといけないのです。最後に、反省や謝罪をしたのに、また繰り返す場合、「ごめんなさい。もうしません」と誓っておきながら、それを破って犯した罪は、より厳しく罰せられます。
私たちの人間関係でも、これは十分理解できる事ですね。新聞で読む犯罪も、お父さんお母さんや学校の先生や教会の牧師がしたら、ショックは何倍にもなるでしょう? だから、こうしたことは特に神が罰の厳しさに差を付けられる、という意味ではなくて、罪の違いを確認したわけです。その上で、次にこう言われていました。
問84 すべての罪は、何に値しますか。
答 すべての罪は、この世においても、来るべき世においても、神の怒りと呪いに値します。
え、ぢゃあ、罪の加重って何だったんだろう?と突っ込みたくなりますね。すべての罪が、神の怒りと呪いに値するなら、どんな罪も変わらないんじゃないでしょうか? いいえ、要するに、罪の加重というのは、自分の罪の方が小さいから大丈夫、大きな罪は犯さないようにしなさいよ、ということではないんです。そんなことをしている人がいますか? 自分は罪を重くしていない、なんて言える人はいるでしょうか? みんなの上に立てば立つほど、誘惑も大きくなって、罪を犯し、それをまた隠そうとしやすい。うっかりじゃなくて、分かってて、でも罪を願って、確信的に罪を犯してしまうのです。「毒を食らわば皿まで」だなんて言って、もっと罪を犯している。そういう罪の加重を、私たちは現にしているのだ、だから、弁解の余地はないのだ、ということです。
キリスト者の罪の理解は、私たちが神から離れて、神を失って心が罪に縛られて、「罪人」となったために罪を犯してしまう、のだ、というものです。罪を犯し、沢山の悪を重ねているうちに、その結果、罪人になってしまう、というのではありません。具体的な罪は、罪人である結果なのです。ですから、罪の重さに違いがある、という今日の話は「罪を重くしてはいけませんよ」とお勧めしている以上に「律法が示すように、私たちは実際、軽い罪だけではなく、罪に罪を増し加えるような生き方をしているではありませんか」と、聖書が私たちの罪の性質をハッキリ見つめさせる事を教えています。
イエスは、私たちの罪のために十字架に死んで、よみがえってくださいました。私たちに、まだ言い訳の余地があるとか、自分の罪はまだ軽い、などと背比べするのは止めましょう。あらゆる重さの罪をも、イエスはすべて徹底的にご存じです。その上で私たちを受け止め、癒やし、新しくして、罪の支配から、主イエスの支配に入れてくださった、と聖書は示しているのです。この新しい恵みの御支配に与るためにも、自分の罪や問題を、ごまかさずに認めましょう。そして、それを主に告白して、恵みの支配に変えて下さるよう、願いましょう。律法が示すのは、本当に罪から自由にされる道なのです。