聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問48「いつも主が見ておられる」 詩篇十六篇8~9節

2015-05-12 10:59:04 | ルカ

2015/05/10 ウェストミンスター小教理問答48「いつも主が見ておられる」 詩篇十六篇8~9節

 

 今年の初め、フランスで新聞社が襲われて、13人の方が亡くなるテロ事件がありました。イスラム教の開祖ムハンマドの漫画を描いたのですね。イスラム教にとっては、ムハンマドの顔を描くことは禁じられていて、冗談でもしてほしくないことです。テロは断じて許されませんが、人が嫌がることをして、困らせて楽しむことも決してしてはなりません。イスラム教徒にとっては、ムハンマドの顔は神聖な顔なのです。そして、私たちキリスト者にとっては、神様の顔が、この上なく神聖な顔です。

問 第一戒の「わが顔の前に」ということばによって、私たちは特に何を教えられますか。

答 第一戒の「わが顔の前に」というこのことばは私たちに、すべてのことを見ておられる神は、何かほかの神を持つという罪に特に目を留め、これを非常に不快に思われることを教えています。

 第一戒で主は、「わたしの顔の前に、他の神々があってはならない」と仰いました。「わたしの他に神々があってはならない」とだけ言ってもよかったでしょうに、わざわざ、「わたしの顔の前に」と言われるのですね。でも、神の顔がどんな顔か、私たちは描いたりしません。ムハンマドは人間でしたから顔を見た人もいるのですけど、それを絵に描いたら礼拝することになるから、と描くことを禁じたのです。でも、聖書の神様は、人間ではありませんから、その顔を見ることは出来ません。もし、栄光の神様の顔を人間が観たら、太陽をまともに観る以上に耐えられなくて、死んでしまうでしょう。ですから、神の顔を私たちは見ることも描くことも説明することも出来ません。けれども、神は「わたしの顔の前に」と仰るのです。

 神の御顔を見ることは出来ませんが、見えない神はいつもおられるのです。私たちは、いつも、見えない神の御顔の前に生きています。いつも、私たちはその神の御顔の前にあるのです。そして私たちは、神の御顔の前にあることをいつも覚えて、仕事をし、食べたり飲んだりし、勉強をし、生活し、ご飯を作り、運転をし、遊んだり、喧嘩をしたり、眠ったりするのです。いつ何をするにしても、そこに神がおられ、神がすべてを見ておられる。そういう神として私たちは神を告白し、またその神の顔の前に生きます。

詩篇十六8私はいつも、私の前に主を置いた。

 主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。

 こう言うのです。これが、キリスト教信仰です。特に、私たちはそのような意識を強調する教会の伝統に属しています。そして、その神様の顔は、聖なる御顔です。悪を憎み罪を見ておられ、同時に、弱い者を憐れみ、罪を悔い改めて悪を捨てるよう力強く憐れまれるのが、正しい神の眼差しです。ですから、私たちは、神の顔の前で、正しく、まっすぐに生きることを励まされます。喜びや希望、きよい思いを励まされます。

 けれども、神様に喜ばれない罪の思いを持ったままでは、神の顔の前に生きることは居心地が悪すぎますね。神に見られないよう、隠れたくなります。本当の神は、いつでもどこにでもいらっしゃるのですよ。決して隠れることなど出来ない筈です。

詩篇一三九7…私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。

 8たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、

 私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。

 それが神様です。神様から逃げることは誰にも出来ないほど大きなお方です。でも、聖書には、神様から隠れようとした人の話がたくさん出て来るんですね。アダムも、エデンの園で、食べてはならないと言われていた木の実を食べてしまった後、

創世記三8…神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。

とあります。その息子カインが弟アベルを殺したときも、主から恵みをいただきながら、

創世記四16…カインは、主の[顔の]前から去って、…

しまいます。預言者のヨナは、神様の預言者で、ニネベに神様の言葉を伝えなさいと言われていながら、それは嫌だと逃げて行き、

ヨナ一3…主の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし、…

ました。

神の顔から逃れられるとか逃れたいと思うのは、人間が自分の心から神を追い出してしまった証しです。神ならぬものに心が支配されているから、そんなふうに考えるのです。毎日仏壇でお参りをする人が、夫婦喧嘩をするときに仏壇の扉を閉める、という話は笑えますが、それと同じように世界を作られたほどの偉大な神のことも考えてしまうのです。

教会では神が見ておられるけれど、普段は神のいない生活だと考えてしまいます。

日曜日だけが神の前での生活で、あとの月曜から土曜日は、仕事・遊び・勉強・お金・何をするにも、神抜きで考えるようなところがないでしょうか?

神は、そんな小さな神、隠れるほどの小さな顔の方ではありません。

 …すべてのことを見ておられる神は、何かほかの神を持つという罪に特に目を留め、これを非常に不快に思われることを教えています。

 神が全てのことを見ておられることを忘れ、神の顔の前にあることを忘れてしまう時は、人は神ではないものを神として生き始めた時でした。そのような私たちが、もう一度、神とともに歩み、神の顔の前で、生きるようになる。それが、私たちの救いです。

私たちが回復されるとは、神との関係が本来の関係に戻ることです。そのために、主イエス・キリストは来てくださいました。イエス様を見るときに、私たちは、イエス様が、どんなお顔だったか、イケメンだったか、髭はどんなだったか、と似顔絵を描けるように知るのではありません。そうではなく、イエス様の愛の顔、人を見つめ、小さい者を顧み、誰をも蔑まず、罪を憎まれて、悔い改めを語ってくださったことを知っています。そのイエス様の顔こそ、神の顔です。そして、イエス様は地上の最後で仰いました。

マタイ二八18見よ。わたしは、世の終わりまでいつもあなたがたとともにいます。…

 イエスはいつも私たちとともにおられます。ですから、この方以外の何ものをも神として崇めたり恐れたり、それに縛られることは偶像崇拝です。神以外のものを恐れて振り回される生き方は不自由です。本当の神はもっと素晴らしく、恵みに満ち、私たちを愛して、助けて、私たちを通して、本当に価値あることをこの世に与えようとされるお方です。小さな私たちを通して、本当の神が働かれるのです。ですから、希望をもって歩みましょう。いつも、この神に祈り、頼り、知恵と力をいただきながら進みましょう。

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ルカの福音書二二章1~6節「ユダから教えられること」

2015-05-10 15:07:16 | ルカ

2015/05/10 ルカの福音書二二章1~6節「ユダから教えられること」

 

 皆さんは、「誰かに裏切られる」という体験で身に覚えがあるでしょうか。信頼して秘密を打ち明けたのに、お喋りされていた。この人ならと見込んでお金を貸したり保証人になったりしたら、実は最初から踏み倒すつもりだった。そんな目に遭うと、ショックで、人間不信になったり、人生だけでなく性格が変わってしまったりすることさえあるでしょう。そして、そういう時に、聖書から引っ張ってきて、裏切り者を「ユダ」と呼ぶことがあります。

 今日からの二二章で、最後の晩餐やゲッセマネの祈りの場面に入って行きます。いよいよイエス様が十字架に掛けられていく、最後の時間になります。その最初に記されているのが、祭司長、律法学者の殺害計画と、ユダの裏切りであり、そこにサタンが働いていた事実です[1]

 一体なぜユダはイエス様を売ったのでしょうか。様々な説明がありますが、「ユダはイエス様にもっと強いメシヤである事を期待したのだが、ローマを一向に倒そうとしないイエス様に、それこそ裏切られた思いになったのだ」と言う人もいます。あるいは、「イエス様を窮地に追い込んで、神の子としての力を発動せざるを得ないようにしたかったのだ」という推測もあります。でも、どれも推測に過ぎません。ルカは動機を説明しようとはせず、ただ、ここに、

 3さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンが入った。

とだけ記します[2]。「十二弟子のひとり」という言葉は、「十二の数の」という言葉です。ですから、数の上では十二弟子の中に入っていたけれど、それは数の上だけで、彼の中にサタンが入ることが出来た。そういう含みがあるのです。原因はどうあれ、人間の心というものは、イエス様のそばにいて、最も近い十二人の一人として活躍し、近くされていてさえ、それが数の上だけのこと、名簿や役割だけになっていることがある。心はイエス様の弟子ではなくなっていて、サタンが入って来られる隙(すき)がある。そう教えているのです[3]

 ところで、サタンは、ユダに入って、何をしようとしたかったのでしょうか。イエス様を裏切らせようとした、祭司長たちにイエス様を引き渡そうとした、のですね。その目的は何だったのでしょうか。イエス様を十字架につけて殺させようとした、のではありません。確かにサタンはイエス様の邪魔をしたかったのです。でも、イエス様を殺したかったのではないのです。イエス様の十字架の死は、イエス様ご自身が、その最初から予告してこられた死です。

十八32人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。

33彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし人の子は三日目によみがえります。」

このように予告されていたのですね[4]。イエス様はご自身が、多くの人の罪の赦しのために死なれることをハッキリと教えておられました。ですから、イエス様が死ぬとしたら、それはイエス様の思い通りになってしまいます。サタンはイエス様を殺そうとしたのではありません。むしろ、イエス様に死を投げ出させたかったのです。受難週に見ましたように、十字架の苦しみの時、人々は、イエス様に向かって

「自分を救え」

と四方八方から口々に罵っていました。指導者たちも兵士たちも隣で十字架につけられていた犯罪人も、イエス様に

「キリストなら自分を救え」

と罵倒したのです[5]。これはイエス様に対する嘲りでした。しかし実は、イエス様にとって、神の子としての力を使って十字架から降りることも出来たのです。容易いことでした。であれば、そのような力があるのに、十字架に留まり続けることは大変な葛藤であったに違いありません。「自分を救え」という罵倒の背後には、イエス様を誘惑しよう、何とかして十字架から降ろそうとする、サタンの存在が見えます[6]

 何のために十字架の苦しみを受けるのでしょう。それは、人々のためでした。でもその人々から、十字架にかけられ、

「自分を救え」

と嘲笑われるのです。イエス様の弟子たちでさえ、逃げてしまいました。いいえ、その一人であったユダこそがイエス様をユダヤ当局に売り渡し、素知らぬ顔でここ数日は一緒にいて、チャンスをうかがっていたのです。そういう人々のために十字架の、悶絶せんばかりの苦しみを耐える価値があるのでしょうか。サタンは、そのイエスに、こんな人間たちのために十字架の死だなんて虚しい、意味がない、人間のために死ぬだけの価値などないと、投げ出させたかったのです。そのために、十二弟子の一人の心の隙に入り込み、イエス様の愛が裏切りや恩知らずや嘲りでしか報われないことでイエス様を苦しめようとしました。この人々のために十字架だなんて馬鹿馬鹿しい、と誘いかけたのです。

 私たちも、ユダと大差ありませんよね。ふとした弾みで人を裏切ってしまうとか、殺したいほど憎むとか、神や人に自分勝手な期待をして、自分勝手に失望してしまうこともあるでしょう。お金や目の前の損得に飛びついてしまうこともあるでしょう。人の挑発に引っかかることもあるでしょう。後から思えば、なんであんなバカをやってしまったのかと悔やまれてももう遅い。そういう説明のつかない行動をしてしまうのです。サタンを招き入れる狡さが人間の中にはあります。「自分の願望が叶うためなら、サタンにだって魂を売り渡しても構わない」という思いさえないでしょうか。そういう思いがあるから、サタンもユダの中に入れたのです。

 そういう私たちの弱さ、脆さも、主は悉(ことごと)く完全に知っておられます。人間の恐れとか、憎しみとか、後悔とか、裏切る狡さも裏切られる悲しみも、すべて主は味わい知っておられます。その私たちの行動や言葉によって、どんなに神ご自身が裏切られ、傷つけられ、血を流すようなことがあっても、なお主は私たちを投げ出したりせずに、私たちを愛し、救いの御業を最後まで成し遂げてくださるお方です[7]。そして、その救いの中心になるのは、私たちが、もう人を恐れたり自分の心に振り回されたりせず、この測り知れない恵みの主を信頼して、主との交わりに生きるように、主への信頼によって、少しずつ変えられて行くことです[8]。主は、私たちを知って守るだけでなく、私たちの心と生活を、新しくしたいと考えておられます。

 ですから、毎日、自分の心が主に向かうように祈りましょう。家庭でも職場でも学校でも、私たちを支えるのは主の恵みです。自分も回りの人たちも、脆さや罪を抱えたもので神の代わりに頼りには出来ません。主イエス様の、揺るがない十字架の愛を見上げましょう。落ち込んだり人を裁いたり疑心暗鬼や自己憐憫に捕らわれて生きるのは勿体ない人生ではないでしょうか。主は、人間の思惑を超えて、生きて働いておられます。私たちの悲しみも痛みも、裏切られる辛さも、裏切った後悔もすべてご存じです。その人間の問題をすべて引き受けつつ、そこにあって動じることなく、神のご計画を推し進めて、尊い十字架の御業を果たされました。私たちもその主にならって、それぞれの場で生きるようにと遣わされていきます。罵られても罵り返さず、裏切られても裏切り返さず、イエス様の喜ばれる生き方を精一杯果たすのです。それは簡単ではありません。でも、難しくて大変なのでもありません。それは、本当に自由にされ、解放されていくプロセスなのです。朝晩、いつも、この幸いを祈り求めて行きましょう。

 

「主よ。ユダのようにサタンの入る隙だらけの私たちです。もっとあなたの喜びの中に生きられますように。あなた様を信じる信頼の中に羽を伸ばし、傷ついたときにはあなた様の慰めと勇気を戴かせてください。キリストの十字架の福音の力強い恵みを慕い求めます。どうぞ今週も一人一人の歩みに、主イエスが先立って、歩みを導き、励まし、御栄えを現してください」



[1] 今日の箇所で、「6ユダは承知した。そして群衆のいないときにイエスを彼らに引き渡そうと機会をねらっていた。」とあります。数日間は「機会をねらっていた」のでしょうから、実際にはもう少し前に(二〇章から二一章の間に)この出来事はあったのでしょう。けれども時間通りに並べるよりも、ここに持ってくることで最後の十字架の場面に至る背景として、こうした出来事もあったのだと伝えたいのだと思います。

[2] マタイやマルコは、「レプタ二枚のやもめ」の記事を挟むことで、彼女に対する主イエスの評価とユダの動機とを結びつけています(マタイ二六1~16、マルコ十四1~11)。ヨハネは、悪魔の働きを明言しつつ(十三2、21~31)、ユダの会計係としての不正(十二4~6)も言及しています。しかし、それ以上に、ルカは簡潔に語っています。ユダの動機にはあまり触れず、結果のみを詳しく記しています(使徒の働き一18~19)。これも、ルカの書き方全体を見るときに、ユダにふさわしい、という固有のさばきというよりも、罪に対する報酬の典型例、と読んだ方がよいと思います。アナニヤとサッピラ、魔術師シモン、などなどと同列なのです。

[3] もちろん、動機は明言されてはいませんが、ルカがこれまで記してきた「貪欲」への警戒を考えると、5節の「金」の登場には、ルカがこれまで警戒してきた、貪欲・マモンの働きがうかがえます。しかし、マタイが「銀貨三〇枚」と記すようなことをルカはしませんから、その額の多少を動機として伝えたいのではありません。

[4] 他にも、ルカでは九22、44でも「死の予告」がありますし、復活後も生前に予告されていたとおりだと繰り返されています(二四7、25-27、44-47)。

[5] ルカ二三35-39。

[6] 特に、公生涯の初めに、荒野でイエスを誘惑したサタンが「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい」(四3)と挑発したことが重なります。

[7] この悲しみは、聖なる愛であるイエスにとっては、まったく論外の誘惑でした。後にゲッセマネで祈られたときも「腹立たしさに耐えて、最後まで十字架に留まれるように」とは祈らず、十字架の苦しみ・神の御怒りに最後まで耐えられるように、と必死に願われたとおりです。サタンが考えるこの限界は、サタンが神の愛を全く理解できていないことから出て来るものです。これは、ヨブ記冒頭にもそのまま言えることです。

[8] ルカは祭司長、律法学者たちがイエスを殺すための良い方法を探していたのが、「彼らは民衆を恐れていたからである。」と記します(2節)。これは、「イエスを殺すことで民衆の騒ぎが起こるといけないから」(マルコ十四1)とも読めますが、ルカの場合は、直前の二一38との繋がりを想起させます。民衆が、イエスの教えを熱心に聞く姿に、祭司長たちは、イエスを殺す必要に迫られると思うほどの恐れを抱いたのです。主の言葉を聞くために熱心に集う民の存在に、世は恐れを抱きます。何もないような民衆が、主の教えに耳を傾けるとき、脅威となるのです。私たちが日曜毎に集まって、主の言葉に耳を傾けて生きている。この事自体が、世界に対する不協和音であり脅威、チャレンジ、変革です。

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問47「「神ではない神」ではなく」 ローマ一章20~21節

2015-05-05 12:04:13 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/05/03 ウェストミンスター小教理問答47「「神ではない神」ではなく」 ローマ一章20~21節

 

 みなさんは「アイドル」と言えば、どんな人が思い浮かぶでしょうか。有名な芸能人でしょうか、歌手でしょうか? 大好きなアイドルの熱烈なファンだったりすると、そのアイドルを観ただけで、大興奮して、キャーキャー騒ぐだけでなくて、失神してしまう人もいますね。そのアイドルのためなら、何だってする、ぐらいに崇めています。「アイドル」とは、もともと「偶像」という意味の英語です。本当に、その人にとって、神様のように大事になっているのです。大好きなスターや歌手がいるのは悪いことではないでしょう。でも、もしも、その人が、本当の神様に替わるようになっているとしたら、笑い事ではすまなくなることだってありますね。勉強や仕事もそっちのけで、追っ掛け回したり、そのために、お金も惜しみなくつぎ込んだり、果てはそのスターが引退したら、生き甲斐がなくなるのはどうでしょう? 次々に別のアイドルを追いかける人もいますけれど、それもやっぱりやり過ぎですね。どんなステキな人も、やっぱり人間であって、神にはなれないからです。また、本当の神様は、私たちが神様をそっちのけにして、違う何かを神にしてしまうことを、とても厳しく禁じておられるのです。

 神様が私たちに与えてくださった、大切な十戒の第一戒は、「あなたには、わたしの他に神々があってはならない」です。その第一戒について、こう言われています。

ウェストミンスター小教理問答47 問 第一戒では、何が禁じられていますか。

答 第一戒は、まことの神が神であり、また私たちの神であることを否定したり、まことの神を礼拝し、彼に栄光を帰すことをしないこと、また、まことの神のみにふさわしい礼拝と栄光を、何か他のものに与えること、を禁じています。

 天地万物を造られた神、そして、出エジプトやキリストの十字架の贖いによって、特別な関係を結んでくださった神。その神を否定したり、礼拝を捧げなかったり、他のものにその礼拝や栄光を与えることは、あってはならない。それが、第一戒の禁じていることです。それは、当たり前のことではないでしょうか。世界を造られた偉大な神と、他のものを取り替えるだなんて、よく考えたらあり得ないことです。けれども、実は、聖書は、如何に人間が、性懲りもなく自分のために、神ならぬものを神として、本当の神様に尻を向けてしまいやすい、失礼な存在であるかを語り続けています。

 聖書の時代にも、たくさんの偶像がありました。何度も何度も、そうした偶像に走ってしまったのが、イスラエルの民の歴史です。

日本にも、世界にも、そうした宗教はたくさんあります。

また、日本のキリスト教会は、戦時中に、天皇の写真(御真影)を教会の中において、拝礼する、という大きな違反をした歴史があります。これは、日本の教会にとって、忘れてはならない問題です。

けれども、その「宗教的な偶像崇拝」を止めても、人はどうにかして、真の神様に礼拝や栄光を捧げるのではなく、もっと違うもの、手近なものを神に祭り上げて、自分の心を満たそうとするのですね。

 例えば、最初に話したアイドルもそうですし、お金や宝物、一番になったり名声を得たりすること、力を持つこと、ステキな恋をすること、お酒とか食べ物…。そうした事が自分の生活の中心になってしまうのですね。

勿論、アイドルや恋人が「神」だと勘違いしている人は誰もいないでしょう。お金やお酒が全てではない、と分かっているとは言います。でも、そうは言いながらも、自分の人生の中心にしてしまうことがあるのですね。それは、私たちを造られ、今も私たちを愛しておられる神を押しのけて、違うものを自分の「神」としていることです。それ自体は、どんなに良い物であっても、もし、神を差し置いて、自分の幸せを違うものに求めてしまうなら、それは止めて、真の神様を礼拝し、第一にし、この神様だけに賛美と栄光をお返しするようにしましょう。神様以外のものは、必ずいつかなくなります。一時(いっとき)だけ幸せやサイコーな気分にならせてくれるかもしれませんが、本当に深い幸せをもたらすことは決して出来ません。

 現代社会には、「その人がどんな宗教を信じていようと、本人の自由じゃないか。結局は同じ神様を信じて、同じ幸せを求めているんだから」という考えが大きくあります。でも、それは真理ではありません。「自分が幸せになれるんだったら何に縋ったっていい」という考え自体が、自分を見失った姿なのです。私たちは、自分の幸せを第一に捜し求めるのではなく、神様にまず立ち返るべきです。私たちを造り、私たちを愛された神は、私たちが互いに愛し合うことを御心としておられます。自分の心の渇きや、虚しさを埋めるために、お金を貯めたり、理想の恋人や家庭を追い求めたり、幸せな気分とか一時的な感動などを求める人生は、必ず底をつきます。まず、生ける真の神様に立ち返り、このお方だけを礼拝するのです。そして、神様の恵みによって、私たちも人を愛し、自分を差し出す生き方へと変えられるのです。

 偶像やアイドルやお金は、そうはいきません。神ではないものは、私たちが頑張らなければ、幸せを感じさせてくれることさえ長続きしません。イエス様は違います。本当の神であるイエス様は、深く力強い憐れみによって、私たちを赦し、心を満たし、導いてくださいます。私たちの心の底まで全てお見通しの上で、私たちを受け入れ、慰めてくださるのです。なぜなら、この方こそは、まことの神だからです。それ以外のものは、私たちを幸せにするよりも、私たちの人生を振り回し、惨めにし、見失わせるだけです。

 私たちが、まことの神を神とするときに、実は、その他のもの、お金や勝負事や、恋人や食べ物、他の人やあらゆる生活のことが、正しい関係に収まっていくのです。それは、もう悩まないとか絶対に失わないし、うまくいく、という意味ではありません。神様ではないものなのですから、問題や限界はあるのです。でも、それによって、私たちが恐れたり絶望したりすることはなく、むしろ、神様を仰ぎながら、希望をもって歩むことが出来るので、振り回されることがなくなっていく、ということです。

 神様は、私たちに、神ではないものを神とすることを禁じるだけではありません。神ではないものを奪われたり、壊されたりするお方でもあります。でも、それよりも良いのは、私たちが毎日自分から、すべてのものを神にささげ、主イエス・キリストを通しての礼拝を進んでし続けることです。この方は、天地万物を造り、治め、私たちのためにひとり子イエス・キリストをさえ惜しまずに与えてくださるほどに、私たちを愛しておられる、真の神です。その神だけが神であることを認めて、他の何かに期待や幸せを求めすぎている間違いから目を覚ましましょう。その時、私たちは本当に自由にされ、神から来る救いの喜びが与えられます。第一戒もまた、恵みであり、自由の律法です。

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申命記八章(1~10節)「訓練する神」

2015-05-05 12:01:57 | 申命記

2015/5/3 申命記八章(1~10節)「訓練する神」

 

 神様は恵み深いお方です。私たちに豊かな祝福を下さるお方です。でも、その豊かな祝福を戴くと私たちの心はいつの間にか、恵みを下さった神を忘れ始めます。楽しみ、浮かれてしまい、神の恵みではなく自分の力で今の立場を築き上げたかのように天狗になってしまう。これは、何と情けなく申し訳ない…喜劇というか、皮肉というか、そしてありがちな事でしょうか。

 今日の申命記八章は、今までの申命記で語ってきたように、主の命令を守り行いなさいと繰り返しています。けれども特に「豊かになるときの危険」という点から強調しています。これまでの荒野の四十年を振り返りつつ、これからの約束の地での豊かな歩みにおいても、主を忘れずに歩みなさい。厳しく苦しい荒野をも主が導いてくださった恵みを、荒野とは正反対の、潤って、作物も果物も豊かにある地での歩みでも覚え続けなさい。何もない荒野では、苦労や飢えがありました。食べるものや水の保証もない生活でしたが、主が飲む水も食べ物となるマナも奇跡的に備えてくださいました。着物はすり切れず、足も腫れずに過ごしてきました。主が私たちを生かしてくださることを味わい知らされてきたのです。また、

 3…人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたがたにわからせるためであった。

ということを、身を以て学んだ四十年だったのですね。その事を、これから始まる、約束の地での満ち足りた生活でも、忘れることなく、覚えていなさい、と繰り返されているのです[1]

 主は私たちをただ苦しめ悩まそうとは思ってはおられません[2]。豊かに祝福したいのです。溢れる祝福で、私たちを潤し、幸せにされるのが主の御心です。でも、その祝福を戴いた途端に、人間の心は高ぶり始めます。四十年も荒野で体験してきた、自分たちの無力さ、小ささ、主の力と御真実、主の御言葉の尊さ、それに従うことの幸いも、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、神様なんかなしで、自分たちで幸せになれるかのように思い始めるのです。勿論、それをあからさまにそう言う程、恩知らずではないかもしれません。ここで、

17あなたは心のうちで、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ」と言わないように気をつけなさい。

とあるのが鋭いなぁと思いますね。口では神様の恵みだ、神様の祝福だ、と感謝はしているのですが、心のうちに「(神よりも)私がやったんだ」と言い出しているのです。それは、他から入ってくる言葉ではありません。どこかから忍び込んでくる言葉ではありません。心の中から出て来るのです。人間の心の内側にこういう、神を恐れぬ思い上がったものがあるのです。そして、祝福や豊かさ、安全や将来の心配をしなくても良い状態で、一見、神に拠り頼まなくてもよいような楽な生活において、その思いが膨れだして、神を忘れてしまうのです。

 よい生活、ご馳走、緑豊かな生活環境など、それは神様の溢れる祝福であって、決してそれ自体が悪いのでも誘惑や魔力があるのでもありません。問題は人間の側にあります。私たちの心に、神を忘れようとする性質があるのです。「豊かな暮らしや楽しい毎日、充実した仕事や不安のない家庭生活が営みさえ出来ればいい」。その幸せを下さるのは神様であり、幸せの中心にあるのは、パンでも満ち足りた生活でもなく、神の口から出る言葉に従うことであるのに[3]、神よりも自分の心地よさを愛する言葉が、私たちの心の底から涌き上がってくるのです。

 そして、実際に聖書には、そのような歩みが繰り返された歴史が語られていますね。このモーセの言葉を聞いた民は、この後まもなく主を忘れて、高ぶってしまいます。申命記の次、ヨシュア記、士師記はもうそんな歩みばっかりです。更に、イスラエル王国で豊かさを極めたソロモンも、晩年に主を忘れて、偶像崇拝を持ち込ませてしまいます[4]。また、ホセア書で主は、

ホセア十三5このわたしは荒野で、かわいた地で、あなたを知っていた。

 6しかし、彼らは牧草を食べて、食べ飽きたとき、彼らの心は高ぶり、わたしを忘れた。

とあって、今日の申命記八章を踏まえた言い方をしています。これが旧約聖書で主の民が示したパターンでした。奴隷生活をしていたエジプトから連れ出されて、沢山の恵みと憐れみを荒野で味わって、彼らは「主の契約の民」として約束の地に入りました[5]。でも、豊かな祝福を戴けば、人間はすぐに神を神として恐れ敬うことを止める。祝福の中でこそ、人間の不信仰や滑稽な思い上がり、「バベルの塔」を築き始めるのです。ですが、主が願っておられるのは、その心の中でこそ、私たちが主を褒め称え、「自分が」という勘違いを捨てることです。そして、そのために主イエス様はおいでになりました[6]。そして、ご自身の十字架と復活の御業だけでなく、聖霊を私たちの心に与える御業によって、私たちの心を新しくしてくださるのです。聖霊なる神が私たちの心に主を思い出させてくださいます[7]。私たちの心を照らして、福音を理解させて、キリストへの信仰、罪の悔い改めをもたらしてくださるのです。そして、私たちの心が、「この私の力が自分を築き上げたのだ」というような言葉ではなく、新しい言葉に聞くようにしてくださいます。「私ではない。神が私を導き、苦しみも幸いも与え、私たちを訓練され成長させ、私たちを幸せにしてくださるのだ」という言葉です[8]。そして、そのような言葉になっていくようにと、主は私たちを訓練されるお方です。今も私たちに荒野を通らせたり、恵みを溢れたりさせながら、私たちの生涯をかけてじっくりと、御霊によって深く、私たちの心の言葉を、「私」から「神の民の言葉」へと書き換えておられます。

 思い出してください。主の掟は、私たちが神を礼拝し、互いに神の民として愛し合うことを命じる掟です。事細かで高尚な要求だと思わないでください。神は、私たち一人一人に「立派になれ、聖人になれ」などという成長は望んでおられません。私たちが神の民、神を中心とした礼拝の「共同体」としてともに歩んでいくという成長であり、そこに向けての訓練です。個人的な成長をして、私たちが強く逞しくなる、という事ではありません。立派なクリスチャンになる成長なんかではありません。主が願っておられる成長は、私たちが、神の民として結ばれていくための「訓練」です。そしてそれは痛みを伴うことなのです。私たちに苦しみに相応しい問題があるからではなく、私たちが変えられて行くために苦しみは必要なのです[9]。思い上がりや独り善がりを捨てて、自分の危うさを弁えるのです。神の前に謙り、人を大切にせよという御心に従っていく「成長」です[10]

「キリスト者が苦しみに会うのは、苦しみに負けない強い人間になるためではなく、他者とともに苦しむことが出来るようになるためです」[11]

 今日の言葉は、私たちが普段、心で何を言っているかを問うてくれています。自分の中でどんな言葉を言っているでしょうか。神を忘れた言葉を口ずさんでいる事に気づいたら、今日の聖書の箇所は、そんな私たちのために語られていると思いましょう。神に愛され、他者とともに生かし合って、私たちは幸せになるのです。その現実に気づかさるためですから、苦しみも尊いのです。心の中に、「自分が」ではなく、主を礼拝し、他者を愛する言葉を育てましょう。

 

「主よ。あなたは私たちを愛され、荒野や楽園を通らせながら、私たちの思い、言葉を替えることによって、私たちを幸せに導いてくださいます。その深い御心を感謝します。主よ、私たちが高ぶるとき、取り返しがつかなくなる前に、遠慮なく速やかにそれを挫いてください。傲慢からも孤独からも救い出し、あなた様の愛の言葉によって生かし合う者とならせてください」



[1] 12節から14節aでは、将来への警告を語った上で、2節から5節で語られた度荒野での主の導きをもう一度思い出させます。この長い挿入をしてから、そのような主が、私たちを訓練され、私たちを幸せにしてくださる主を忘れて、「17あなたは心のうちで、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ」と言わないように気をつけなさい。」と言われるのです。

[2] 哀歌三33「主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。」

[3] この言葉は主イエスの「荒野の誘惑」で引用された言葉として有名です。マタイ四4「イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」 補足ですが、ここで主イエスは、申命記の「すべてのことば」を「一つ一つのことば」と言い換えています。ちなみにルカでは、申命記の前半部分「人はパンだけで生きるのではない」だけを引用しています。そうした編集の意味についても注目する価値はありますが、今回は省力します。いずれにせよ、これは、「神の言葉に聞くこと(=デボーションなど)」が人を生かす、と捕らえがちですが、申命記も主イエスの実践も、ただ「聞く」だけでなく、「従う」という、より積極的な行動を表しています。

[4] そのことを書いたⅠ列王一〇章一一章には、この申命記の七章八章が実によく重なります。

[5] 決してその律法を守ることで救われて契約を戴いたのではありません。ただ恵みによって神の民とされたのです。律法は、その恵みを戴いた民としての、新しい道、生き方です。救われるための条件ではなくて、神様の恵みに与った民の、当然の生き方なのです。

[6] そのイエス様が来られることも、旧約の預言者たちが予告していたことですが、石に書かれた律法ではなく、人の心に律法を書き刻んでくださるお方としてキリストが来られ、新しい契約を立ててくださる、というメッセージです。エレミヤ書三一31「見よ。その日が来る。-主の御告げ-その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。…33…わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」など。

[7] ヨハネ十四26「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」

[8] ダニエル書四章では、バビロンの王ネブカデネザルさえ、そのように訓練されました。

[9] 5節は、ヘブル書十二7で、「主の懲らしめ」の中で弱り果てることなく戦い抜くよう勧める奨励において、次のように引用されています。「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。8もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生児であって、ほんとうの子ではないのです。」

[10] 「従う」は律法主義的に聞こえるでしょうか? いいえ、「従いなさい」と言われるのは、主がご自身の民に繰り返して呼びかけてくださる、深い恵みの歩みです。復活後のペテロにも、主は「赦し」以上の言葉として、「わたしに従いなさい」と仰いました(ヨハネ二一章)。「従う」とは、主の御心が「細かな規則を遵守する」という以上に、「主を礼拝し、互いに愛し合う」(十戒に示された通り)という御掟であることを覚えながら、赦された者、尊いいのちに召された主の民として歩み続けるのです。

[11] 出典は分かりませんが、ある書評からです。聖書的根拠は、Ⅰコリント一二章や、Ⅱコリント一章など、きりがありません。

 

「思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。」 マザー・テレサ

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