聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

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ルカ20章9~18節「礎の石」

2014-12-20 13:10:52 | ルカ

2014/12/14 ルカ20章9~18節「礎の石」

 

 今日はイエス様が、十字架に掛けられる数日前にお話しになった喩(たと)えの箇所です。まだ喩えをお話しにはなりますけれど[1]、ちゃんとまとまったストーリーのある「例え話」としては、ルカが伝える最後の例え話がこのお話しです。イエス様の、多くの例え話の締め括りなのです。

 話の筋は今読んだとおりです。ぶどう園を作った主人が、それを農夫たちに貸して、長い旅に出かけました。数年後でしょう、その分け前を受け取るために、僕(しもべ)を遣わしたけれども、農夫たちは僕を袋叩きにして手ぶらで送り返した。その後も主人は、二度三度と僕を送るのですが、農夫たちの仕打ちはエスカレートする一方で、何も持たせません。しかし、それでも、

13ぶどう園の主人は言った。『どうしたものか。よし、愛する息子を送ろう。彼らも、この子はたぶん敬ってくれるだろう。』

 そう言って、農夫たちへの呼びかけとして、三度どころではない四度目の使いを送る。ところが、農夫たちは心を開くどころか、あれさえ殺せばこのぶどう園の収穫も、ぶどう園そのものも自分たちのものとなる、と言い合って、主人の息子を殺してしまった、というのですね。でも、どうでしょうか。そんなことで農夫たちは農園を自分たちのものに出来ますか。

16彼は戻って来て、この農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。…

 農夫たちの思い上がった勘違いと暴力は必ずや罰せられて、ぶどう園はちゃんと管理する他の人に預けられるようになりますね。それは当然のことです[2]

 お気づきのように、このお話しは、イスラエルの歴史の物語です。神様が御自身のお仕事をイスラエルの民にお任せになったのに、イスラエルの指導者たちは自分勝手なことをして神様に逆らってきました。神様は、預言者たちを何度もお遣わしになったのに、イスラエルの民は預言者に聞くことは殆どありませんでした。そして今、イエス様が、神様の愛する息子であるお方が遣わされて語っておられる[3]。でも、祭司長たちは、あれを殺して口封じをしてしまえば自分たちの天下だ、とばかりに、まもなくイエス様を十字架に殺すことになるのです[4]

 でも、ここで言いたいのは、そういう彼らの頑なさへの「警告」ではないのですね。指導者たちの横暴への非難でもありません。

17イエスは、彼らを見つめて言われた。「では

 『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』

と書いてあるのは、何のことでしょう。

18この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。」

 ここで言われているのは、イエス様が「礎の石」であるという事です。それも、家の要となるような大きな石(岩)です。その岩にぶつかれば、岩を砕くどころか自分がダメージを受けます。18節は、イザヤ書八14とダニエル書二44-45を組み合わせたものですが[5]、イエス様はご自分が世界の国々を最終的に打ち砕いてしまうお方だと仰っているのです。

 ですから、イエス様はこの喩えで、祭司長たちの罪を非難され、横暴な農夫のようになるな、(「わたしを殺すな」)、と警告されているのではなく、そのような傲慢さを貫いたとしても、最後にはイエス様が栄光を現されること、確実な御力を現されること、指導者たちの手から神の民としての特権が取り上げられて、「ほかの人たち」即ち異邦人に福音が広がっていって、神の御国が展開していく、そのような主の力強い栄光を高らかに宣言されているのです[6]

 この喩えはそのまま事実を準えた寓意ではなく、ルカが今まで伝えてきた、「不正な裁判官の喩え」「不正な管理人の喩え」などと同様、少し極端な話をしながら、まして真の神様は、と説得する類いの喩えです。何よりも13節で農園の主人は、愛する息子を遣わすに当たって、

…「彼らの、この子はたぶん敬ってくれるだろう。」

と期待を掛けます。ですが、天の神である主は愛するひとり子イエス様を遣わされるに当たって、「ひとり子イエスならみんな敬ってくれるだろう」という甘い期待は端(はな)からありません。むしろ、イエス様が十字架にかけて殺すほどに憎むことを知っておられます。でも、儚(はかな)い一(いち)縷(る)の望みを掛けた農園の主人でさえ、最後には邪(よこしま)な農夫たちの思い通りになどするわけがないとしたら、まして、真の神がお遣わしになったイエス様に対してどんなに反逆し、殺そうとも、神様のご計画はちっとも損なわれることなく、全ては織り込み済みで、必ず最後には悪人は粉々に散らされ[7]、イエス様は「礎の石」としての御栄光を現される。そう言いたいのです。

 「礎の石」と引用されている言葉は、「隅の頭石」とも訳される言葉で、基礎の部分の大事な土台石のことなのか、それとも、建物の天辺(てっぺん)で全体をまとめる一番肝心で、目立っている石なのか、どちらとも取れるようです。いずれにしても、イエス様は教会にとって「礎(いしずえ)」であると共に「かしら」でもあられます[8]。そしてそれ以上に、もとの詩篇一一八22では続けて、

23これは主のなさったことだ。

 私たちの目には不思議なことである。

と続くのですね[9]。主のなさることは不思議。人の思いを越えて、人間にとっては意外なこととして、神様の業が展開していく。これは、ルカがこの福音書の最初から繰り返しているテーマです。イエス様が十字架の苦しみ、辱めを経て、よみがえり、御業を実現されるお方である。それは余りに意外なことなので、弟子たちも最後まで気づききれないのですが、でも、その逆説的な御心に気づくようにと、イエス様は繰り返して、最後まで語っておられるのですね[10]。弱く、小さな、ひねり潰せるような形でイエス様はおいでになるのですが、それを当局が十字架で殺してしまっても、そこからイエス様のよみがえりと栄光の御業が展開しています。今も私たちに、苦しみや辱めや死が臨む時の励まし、支え、希望を与えてくれるのです。

 アドベント第二週に、天の主が私たちに愛するひとり子を送ってくださったことを覚えましょう。主は私たちに多くの分け前を期待されるのではありません。ただ全てが私たちのものではなく、主のものであって、私たちはお預かりしている管理人であることを思い出させて、主への感謝と賛美をもって生きることがまず大事なのです。その事を忘れて、自分の思いや人間の力が全てだと思って生きていることは何と殺伐として、味気ないことでしょう。

 でも、神が世界も仕事も収穫も、私たちのすべてを治めておられるのです。その主との正しい関係に私たちを生かすために、ひとり子イエス様をお遣わしになり、貧しく低く、十字架への道を歩ませてくださいました。それほどに、主は私たちを愛しておられ、私たちの歩みに御栄光を現そうとしておられます。人が神も正義も希望も捨て去ってしまっても、そこからさえ、主の尊いご計画が前進していく。そんな力強く尊い約束を与えられて、私たちは歩んでいます。

 

「私共を見つめて、主の不思議な御栄えをお語りなさる、その眼差しに気づかせてください。あなた様の作られた素晴らしい宇宙、大地の成長と収穫の奇蹟、クリスマスの測り知れない神秘、そして十字架と復活。その中で生きる小さな私たちも、あなた様の愛とご計画とを信じて歩む者としてください。砕かれるべき所は砕かれて、朽ちない希望と信仰を持たせてください」



[1] 二一29「それからイエスは、人々にたとえを話された。「いちじくの木や、すべての木を見なさい。30木の芽が出ると、それを見て夏の近いことがわかります。31そのように、これらのことが起こるのを見たら、神の国は近いと知りなさい。」 これも「たとえ」ですが、「良きサマリヤ人」や「放蕩息子」のような物語(ナラティブ)とは区別して、「例え話」ではないと考えるなら、今日の箇所が最後の「例え話」です。

[2] ここまで、「不正な管理人のたとえ」、「ミナの喩え」でも繰り返されてきたモチーフ。主人の遠出、留守中の管理、決算の提出。そして、「16ほかの人たちに与えてしまいます」は、十九24以下を思い出させます。

[3] この言葉は、ルカでは三22「あなたはわたしの愛する子、わたしは、あなたを喜ぶ」とここのみです。

[4] また、この話はある面、前回の続きです。ユダヤの祭司長、律法学者たちがイエス様に、何の権威で、宮の商売人を追い出したり、民衆を教えたりしているのか、と問い質したのですが、今日の所でイエス様は実は非常に率直にあの答えに答えていらっしゃるのです。

[5] イザヤ八13「万軍の主、この方を、聖なる方とし、この方を、あなたがたの恐れ、この方を、あなたがたのおののきとせよ。14そうすれば、この方が聖所となられる。しかし、イスラエルの二つの家には妨げの石とつまずきの岩、エルサレムの住民にはわなとなり落とし穴となる。」。ダニエル二34「あなたが見ておられるうちに、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕きました。35そのとき、鉄も粘土も青銅も銀も金もみな共に砕けて、夏の麦打ち場のもみがらのようになり、風がそれを吹き払って、あとかたもなくなりました。そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちました。」その解釈が、同二44「この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。45あなたがご覧になったとおり、一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と青銅と粘土と銀と金を打ち砕いたのは、大いなる神が、これから後に起こることを王に知らされたのです。その夢は正夢で、その解き明かしも確かです。」

[6] 前回は、私たちの側から見た物語(ナラティブ)を。今回は、神の側からの物語。ご自分を与え尽くすとともに、必ず最後には勝利される。

[7] 使徒二36「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(新共同訳)。これは、教会を滅ぼそうとしていたころのサウロに主が言われたとおりです。「とげのついた棒を蹴るのは、あなたにとって痛いことだ」(使徒二六14)

[8] エペソ書二20「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」また、同一22「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。」五23「なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、…」

[9] この詩篇の言葉は、(マタイ、マルコの)平行記事以外に、使徒四11、Ⅰペテロ二7でも引用されています。初代教会の頻用聖句と言えるでしょう。

[10] ルカ二四25-26、など。

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