聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

創世記四一章「苦しみの地で実り多い者と」

2014-09-28 17:38:01 | 創世記

2014/09/28 創世記四一章「苦しみの地で実り多い者と」

 

 父ヤコブに溺愛されていたヨセフが、兄たちの妬みを買ってエジプトに奴隷として売られ、更に、無実の罪で監獄に投げ込まれて十三年。今日の四一章では、エジプト王の見た不思議な夢をヨセフが説き明かすことになり、なんとエジプトの大臣に任命されます。あのパロ(ファラオ)に、

40「あなたは私の家を治めてくれ。私の民はみな、あなたの命令に従おう。私があなたにまさっているのは王位だけだ。」

と言わしめるのです。

 本当に不思議な展開です。私たちはここに、神様の摂理というものをまざまざと思い知らされます。妬みを買って、奴隷に売り飛ばされる。大好きな父親から引き離されて、言葉も何も分からない異国に来て、慣れない労働に明け暮れ、その挙げ句に冤罪でぶち込まれ、臭い飯を食わされる。そんなヨセフの不条理な歩みにさえ、神様はともにいてくださり、思いがけない展開を用意しておられました。私たちも、それぞれに痛い目をしたり、夢にも思わなかったような人生の曲がり角を曲がったりすることがあります。大事な人を喪失したり、理不尽な汚名を着せられて生活を変えざるを得なかったりした方もおられるでしょうか。神の民とされた、私たちの先輩たちも絶えずそのような人生を通らされてきました[1]。しかし、その苦難は、苦しむための苦しみや、耐えるしかない暴力ではありません。このヨセフに真実であられたように、インマヌエルの神が私たちとも共におられて、苦難を通らされながらも、測り知れないご計画をもって、導き、時にかなったご計画を進めておられるのです。

 勿論、みんながみんな、ヨセフのようにエジプトの大臣となる程の、大河ドラマのような展開があるということではありません。私たちも思うでしょう。「ヨセフが奴隷や囚人からエジプトの大臣になったなんて、神様はスゴい!ヨセフの物語は素晴らしい! でも、私はエジプトの大臣でなくてもいいから、もっと身近な、自分の身の丈にあった幸せがほしい」。そうです。当の本人だって大臣になれて嬉しかったのでしょうか。私はいつもここを読むと、パロの言葉が胡散臭(うさんくさ)く聞こえるのです。ヨセフを褒めそやし、大きな権威を与えます。絶賛して、信頼しきっているようです。でも、内心、ホッと胸を撫で下ろしていたのではないでしょうか。

55やがて、エジプト全土が飢えると、その民はパロに食物を求めて叫んだ。そこでパロは全エジプトに言った。「ヨセフのもとに行き、彼の言うとおりにせよ。」

 「責任や面倒臭いことは全てヨセフに押しつけます。問題が起きれば、ヨセフのせい、夢を説き明かしたり不吉な話を持って来たりした怪しいこのヘブル人のせいにしてしまえばいいのです。七年間の豊作の間、その食糧を集めるのだって反対はあったでしょう。飢饉の時の分配はなお大変です。パロの宮中での権力争いやあったでしょう。大臣なんてなるもんじゃない。大統領や総理大臣を見たって、大変なんてもんじゃなさそうですから、そう思います。そのような大変な責任だったのです。神の摂理は、ヨセフを奴隷から大臣に引き上げましたが、それはドラマとか名誉挽回という以上の、重い使命でした。ヨセフ自身、後に言います[2]

四五5「…神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」

 それは、格好いいとか英雄的なものではなくて、泥臭い、誘惑と葛藤に満ちたものです。でも、神は、いのちを救うために、ヨセフをここまで導かれ、訓練し、鍛えておられたのです。53節以下で、飢饉の七年が始まります。これは、本当に大変な禍でした。備蓄がなければ、エジプトだけではない、全世界が滅びる所でした。56節、57節では「ききんは全世界に」と繰り返して、この大災害の規模を印象づけていますね[3]。実は、創世記には以前も全世界を覆った災害がありました。そうです。ノアの大洪水です。創世記の研究者は、ノアの大洪水とヨセフの大飢饉とには重なるものがある、と言います。ノアが箱舟を造ったように、ヨセフは食糧の備蓄をしました。ノアが家族を救ったように、ヨセフは家族を救い、そして、エジプトや世界の人々に食糧を求めて来た時に穀物をあげていのちを救うのです。神様の世界大のご計画の要として、ヨセフはノアのような使命を担うのです。

 でも、そのためにはヨセフ自身がノアのように、神とともに歩み、恵みを得て、相応しく整えられる必要がありました。神様のご計画は、世界の創造、大洪水や大飢饉というダイナミックなものであると同時に、アダムの罪、アブラハムの献身、ヤコブとの格闘など、一人一人の心の奥深くに関わられるものです。その両面が結びついています。ここでも、ヨセフがそうでした。パロはヨセフに「ツァフェナテ・パネアハ」というエジプトの名前をつけます。でも、彼はその名前を一度も使いません。自分のヘブル人としてのアイデンティティに留まります。そして、ヨセフが家族を得て、その子等に名前をつけたとあります[4]。その名前の意味が、

51…「神が私のすべての労苦と私の父の全家とを忘れさせた」…「神が私の苦しみの地で私を実り多い者とされた」…

と言うのですね。ヨセフの内面の吐露です。静かですが、深い言葉で、ヨセフの今までの労苦、家から引き剥がされた悲しみの深さを物語っていますね。同時に、新しい家族を得たことが、ヨセフにとってどれほど大きな慰めであったかとしみじみと思わされます。しかし、忘れたと言いつつ、この名前も、エジプトの名前ではなく、ヘブル語の名前なのですね。彼は、エジプトにあって、エジプトに流されることなく、なお神と共に歩み続けたのです。過去の労苦や現在の苦しみは大きくても、神がそれを乗り越えて、私を今導いておられる、という告白に生きています。ヨセフの成熟を深く思わされます。

 大臣となって得た権力、立場があれば、家族の元に飛んでいって、兄たちに復讐をすることや父親に会うことも出来たでしょう。あの家にいたときに、麦の束や星々が自分を拝むという夢を、自分の力で実現させて、兄たちを平伏させることも出来たでしょう。しかし、彼はそのような行動は取りませんでした。主は、ヨセフの心から復讐心の棘を抜いてくださっていた。そして、思いも掛けない形で、この時の精一杯の慰めを下さっていました[5]。これで終わり、ではありません。次章から全世界の命を救うという大仕事が始まります。そして、兄たちとの和解、父との再会という本当の回復が待っていますが、ヨセフはそれをまだ知りません。今はここで、新しい家族が与えられることで、精一杯の、十分な慰めが与えられたのです[6]

 主イエス・キリストが十字架と復活において果たしてくださった御業は、神が創造された世界の回復と完成であると同時に、私たちをすべての罪からきよめ聖なる者とする事でした。私たちに対する神様の御心とか摂理は、様々な苦難や事件をも巻き込みながら、全てを働かせて益としながら前進していきます。でもそれは「ハッピーエンド」とか「無駄なことは何もない」とか言う以上に、私たち一人一人を変えて、成長させるご計画です。人に仕えること、怒りや恨みを手放しつつ、深い所で癒され、慰めを戴くのです。過去に失ったものを取り戻すことは出来ませんが、そこからでなければ始まらなかった今、新しい自分の歩みに、完全ではなくとも、十分な恵み、出会い、務めがあって、それをしっかり受け止めて歩み出すのです。神様の、世界大のご計画は大きくて、私たちには今自分がどこで何をしているのか、何をすべきなのかもよくは見えません。けれども、今私たちを仕える者として鍛えられ、心の底に触れつつ導いていてくださる主が、長い大きなご計画を実現しつつあることを信じるのです。

 

「天地万物の造り主よ。今もあなた様が世界を治め、私達の心の襞(ひだ)までご存じで、全てを働かせて益となさるとの約束をヨセフの生涯にも教えられて有難うございます。私達はこの世界にあって鍛えられ、どんな時もともにいて最善をなしてくださる主を信じ、その主の御真実を現すしもべとして、共に新しくされている群れです。この恵みにますます与らせてください」



[1] 旧約の時代でも、初代教会でも、いつの時代でも、信仰があることが癒やしや奇蹟を保証するわけではなく、熱心な祈りが苦しみや喪失の免除となることもありませんでした。聖書は、神の民の試練や、世にあっては艱難があることを、これでもかと言わんばかりに強調しています。

[2] 「父と母を離れ(創世記二24)」るべきヨセフが、父の家を「忘れた」ことは、人としての自立・大きな成長・不可欠な成熟を示唆する。「あなたの父の家を忘れよ」(詩篇四五10)

[3] 54-57節で、「すべてコル」が8回も使われ、全世界的な規模を強調しています。

[4] 本章での命名は実に意味深長です。ヨセフが与えられた「ツァフェナテ・パネアハ」という名前の意味は「神語る、彼生きん、大地の糧は生命、生命の支え手」などが提唱されています。(小畑進『創世記 講録』711頁)。しかし、この名前は二度と登場しないのです。名前を与えたり、変えたりすることは、創世記では特別な意味を持ちます。アダムの動物に対する命名(二19)、神がアブラムをアブラハムに、ヤコブをイスラエルにと変名されたこと。いずれも、新しい出発、性質の改変。しかし、ヨセフはパロによっての命名(それがどんな意味であろうと!)を聞き流し、二度使用しないのです。ヨセフは自分のアイデンティティに留まります。55節では、パロ本人でさえ、ヨセフを自分がつけたエジプト名ではなく、「ヨセフ」と呼びます。また、アブラハムも、イサクも、ヤコブの十二人の子どもへの命名も、いずれも妻によってなされ、夫(父親)はしませんでしたが、ヨセフが自らわが子に命名するということも特筆すべきことです。

[5] 42節で「そこで、パロは自分の指輪を手からはずして、それをヨセフの手にはめ、亜麻布の衣服を着せ、そのクビに金の首飾りを掛けた」とあるのは、父からもらい兄たちにはぎ取られた長服や、ポティファルの妻の手元に残した上着を思い起こさせます。

[6] ここでは「忘れた」と言えます。しかし、主は後に思い出させるのです(四二章。特に、9節)。四〇23でいえば、忘れさせることも主の御業であり(ただし、ここで使われている「忘れる」という動詞は、別々の単語です)、忘れて癒されることもあるのでしょうが(そうするしかない場合も)、しかし主がヨセフに用意されていたのは、真の和解であって、忘却ではなかったのです。


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