聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問16 「アダムにおいて全人類が」ローマ5章12~17節

2014-09-10 08:59:47 | ウェストミンスター小教理問答講解

2014/08/17 「アダムにおいて全人類が」ローマ5章12~17節

                                                                                    ウェストミンスター小教理問答16

 

 先週までは、アダムが神様との約束を破って罪を犯したこと、罪とは神様の律法に対する背きであること、などを学んできました。今日のローマ書5章12節にも、

…ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がった…

と書かれています。アダムの最初の罪から、世界に罪が入ったのです。

 ここで、こんなギモンを持つ人もいるでしょう。「アダムが罪を犯したせいで、その子孫や私までも堕落したり、罪に汚れてしまったりだなんて、不公平だ。」「私が罪を持っているのは、私のせいじゃなくて、アダムのせいだ。だから、私を責めないでほしい」。そんな声は昔からあったのです。そこで、今日の問16はこう言うのです。

「問 アダムの最初の違反において、全人類が堕落したのですか。

答 契約は、ただアダム自身のためだけでなく、彼の子孫のためにも、アダムと結ばれていたので、通常の出生によって彼から出る全人類は、アダムの最初の違反において、彼にあって罪を犯し、彼と共に堕落しました。」

 神様がアダムに「善悪の知識の木」から取って食べてはならないと仰ったのは、アダム個人との契約ではなかった。アダムからこの後生まれようとしている全人類を代表して、神様はアダムに、契約を与えられた。そこで、アダムが契約を守っていれば、アダムの子孫も全員が、契約を守った人類と見做されて、祝福に与ったはずなのです。けれども、代表者アダムは、契約に背いて、木の実を食べました。それによって、アダム一人だけではなく、全人類が罪を犯したことになりました。ただ、アダムの罪が「遺伝」するようになった、というのではなくて、人類は代表者であるアダムにおいて罪を犯したと見做される。というわけです。そして、勿論、罪の性質も受け継がれるようになりました。

 これは一見、不公平なようです。自分は契約を破ったのではないのだから、そんな風に見做される筋合いはない、と言いたくならないでしょうか。自分だったら、神様との約束は守り抜いたのだ。アダムみたいにヘマはしなかったのだから、責任を負ういわれはない、と言ってはいけないのでしょうか。

 しかし、全人類が、アダムの堕落以来、神様に敵対する立場になっているのは明らかです。私たちが罪を持っていること、死に支配されているために、やがて必ず死ぬばかりでなく、今も霊が死に、良心や愛も自己中心という死に勝てないのです。その死の状態、神に逆らっている状態が不公平だ、自分はいのちの側にいたい、と言うのなら、悔い改めて救いをいただけばよいのです。でも、生まれつきの人間はそれが出来ません。そうしたくないのです。自己中心で、神から離れたまま、なんとかやっていけないだろうか、と考えています。自分の心も人生も、神様にお任せしたいとは思いません。つまり、責任は負いたくないし、罰せられるのもゴメンだけれど、罪の生き方から救われたくもないのです。それは、矛盾した言い方でしかありません。それこそは、全人類が、アダムにおいて罪を犯しているという証拠なのです。

 けれども、それだけではありません。この「代表の原理」があるからこそ、アダムにおいて罪を犯したと同様、イエス・キリストの義によって、信じるすべての人が義とされて、満ちあふれる恵みにあずかることも出来る。今日のローマ書5章で、パウロはそう言っていますね。

14…アダムはきたるべき方のひな型です。

 私たちは、アダムのように善悪の知識の木から実をもいで食べはしませんでしたし、イエス様のように正しい生き方を全うしてもいません。でも、アダムの子孫として、罪を犯した側に生まれつきいたのであり、イエス様を信じて、神の子として新しく生まれた時に、正しい者と見做される立場になったのです。救いに与るために、私たち一人一人が神様の約束を守らなければならない、としたら、それが公平でしょうか。一人一人に違う約束が与えられて、それをクリアしなければ救われないとしたら、サタンは次々に新しい手で誘惑を仕掛けてくるでしょうから、私たちに勝ち目はないでしょう。まして、失敗によって心が罪に死んだまま、イエス様のように正しい生涯を送るなど、無理なことです。だから、「代表の原理」は有り難いのです。私たちが、アダムの子孫という立場から、ただイエス様を信じて、告白し、受け入れ、洗礼を受けることによって、

六3…キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けた…

と言われます。イエス様につくことによって、いのちを戴くのです。恵みの下にいれていただいたのです。そして、そのように救われたい、いのちを戴きたい、厳しい面もあるけれど、イエス様に従って、自分の罪を告白してきよくされたい、と願う心そのものが、イエス様からいただいた思い、恵みの賜物なのですね。

 今日の言葉に、

…通常の出生によって彼から出る全人類は、…

という一文がありました。「通常の出生」とわざわざ言うのは、イエス様が「通常の出生」ではなく、結婚する前の処女であったマリヤからお生まれになったことを考えての言葉です。イエス様は、普通の生まれ方ではなく、聖霊によって母マリヤの胎に身ごもられて、お生まれになりました。ですから、イエス様だけは、他の人と違って、アダムにおいて罪を犯した全人類の中には入らない。真の人間ではあられるけれど、罪はなかった、ということを覚えるために、この「通常の出生によって」という言葉をわざわざ入れているのです。イエス様は、罪のないお方ですが、私たちのために、わざわざ完全な人となってくださいました。そして、私たちのために、悪魔の誘惑にすべて打ち勝ち、十字架の死までも引き受けて、完全な生涯を送って下さいました。そのイエス様を信じて、イエス様につく者とされることによって、アダムの側にあった罪人の私たちが、そのイエス様の側、いのちの側につく者とされるのです。この尊い真理を、感謝しましょう。

 

コメント (1)
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