聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

申命記二章26節~三章11節「強い町はひとつもなかった」

2014-09-06 18:55:43 | 申命記

2014/09/07 申命記二章26節~三章11節「強い町はひとつもなかった」 (#237)

 

 今日の箇所は、イスラエルの民が、ヘシュボンの王シホンと、バシャンの王オグと戦って、その地を聖絶したことが書かれています。現代の私たちの感覚で考えますと、信じられないほど残酷だと思ってしまうところでもあります。特に、

33私たちの神、主は、彼を私たちの手に渡された。私たちは彼とその子等と、そのすべての民とを打ち殺した。

34そのとき、私たちは、彼のすべての町々を攻め取り、すべての町々-男、女および子ども-を聖絶して、ひとりの生存者も残さなかった。

 同じ事が三章の6-7節にも書かれて、最後には略奪もしています。「皆殺し」にした訳ですから、残酷だと思うのは当然です。反対にこの箇所を逆手に取って、「今でも、聖戦・聖絶というのはあるのだ。神に逆らう国家があれば、力尽くでねじ伏せるのが正義だ。その財産を分捕ってもいいのだ」と言って憚らない人々もいます。それは、完全にこの箇所を読み誤っています。確かに、現代の私たちと、三千五百年以上昔の当時では、かなり「国際感覚」や「平和」のイメージが違います。今では誰もが願う世界平和も、当時の民族主義の時代にはなかった感覚です。戦うにせよ同盟を組むにせよ、あくまでも「他民族」でした[1]。そうした時代に、その中でも取り分け暴力的で、道徳的にも甚だしく乱れていたこの地域の人々を、長い忍耐の末に、神がイスラエルの民を通して裁き、滅ぼすことにされたのです。その戦争は、現代の私たちが感じるほど強引ではなかったのでしょう。

 けれども、その中でも特に目を引くことがあります。その一つは、イスラエルの民が、この二つの国と戦うことは非常に不利だった、圧倒的な劣勢という事実です。二36で、

…私たちよりも強い町は一つもなかった。

とありますが、それはイスラエルの民の方が強かった、ということではなくて、

…私たちの神、主が、それらをみな、私たちの手に渡されたのである。

と説明されていますね。主が渡してくださったから、すべての町々に負けなかったのです。次のバシャンの地は、更に強大でした。

三2…「彼を恐れてはならない。…」

 こう言われたのは、モーセの中には恐れがあったからでしょう。決して、軍隊の数や勢い、戦術において有利だったのではありませんでした。

 5これらはみな、高い城壁と門とかんぬきのある要害の町々であった。…

というのも彼らの地がどれほど堅固で難攻不落であったかを確認しています。三8以下ではここで占領した、ヨルダン川東部の地域の広大さを改めて確認しています。11節に、バシャンの王オグが並外れた巨体の持ち主で、4メートル×2メートル近い超ビッグサイズのベッドに寝ていたとありますが、それもまた、強大な彼らをイスラエルが倒したことが、自分たちの力によったのではない、驚くべき証しとして書かれているのです。

 後に、イスラエルの民がカナンの地に入った時、エリコというこれまた堅牢な要塞都市と戦うのですが、その前にスパイを遣わした所、エリコの住民はこう言います。

ヨシュア記二10あなたがたがエジプトから出て来られたとき、主があなたがたの前で、葦の海の水をからされたこと、また、あなたがたがヨルダン川の向こう側にいたエモリ人のふたりの王シホンとオグにされたこと、彼らを聖絶したことを、私たちは聞いているからです。

11私たちは、それを聞いたとき、あなたがたのために、心がしなえて、もうだれにも、勇気がなくなってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです。[2]

 イスラエル民族がシホンとオグを打ち負かした、という事は真の神が彼らとともにいるからに違いないと周囲の人々さえ納得せざるを得なくさせる、驚くべき勝利だったのです。

 今日の箇所、申命記二章三章で、モーセがこの出来事をわざわざ思い出させているのは、彼らが自分たちを強めてくださるお方、そして、悪を憎まれる聖なる神であることを心に刻むためでした[3]。これから約束の地に入ろうとしているイスラエルの民は、次々に起こってくる困難を前にして、怖じ気づき、逃げ腰になり妥協したくなるでしょう。あるいは、その地の、忌むべき習慣に流されて、不品行や偶像崇拝、欲や不正にまみれた生き方にも誘惑されていきます。だからモーセは言うのです。シホンとオグを打ち負かさせて下さった主は、これからも私たちを支えて下さる。そして、シホンとオグを裁かれた神は、罪に染まる者を、やがて必ず滅ぼされる。だから、この出来事を覚えていなさい[4]

 ですから、私たちもここから、正しく、シッカリと教訓を聞き取りたいと思います。時代的な制約を無視して、今も「聖戦」とか正義の戦争があるわけではないし、ましてそんな看板を掲げて、自分たちの欲や利権のために戦うことが「集団的自衛権」だなどと言ってはならないことが一つ。そして、やはり主は本当に聖なるお方、厳しい方でもあられて、私たちも世界も、このお方の完全な裁きの前に立つのです。今も罪を悔い改めて、神さまの祝福を喜び楽しみながら生きるように変えられることが大切です。そして、もう一つは、私たちが今の生活にあって、目の前に本当に困難な壁が高くそびえていて、にっちもさっちもいかないような思いをするとき、到底勝ち目の無いような相手に負けそうになるとき、主が私たちを強めてくださって、御心ならば勝利させてくださる、という望みです。

 加えて言うなら、勝てそうにないような小さなイスラエルを通して、主はシホンとオグに最後の呼びかけをなさいました。これが、主の方法です。脅迫して、脅しながら、有無を言わせず服従させる、ということも出来るのに、主はあえて、取るに足らないと見えるような方法で、人間に語りかけられます。私達が、神を信じ、私たちのために十字架にかかりよみがえってくださったイエス様を信じたのもそうではありませんか。
 本当は、シホンとオグのように、滅ぼされても文句は言えませんでした。神様は、ご自身に逆らう人間を全員聖絶されてもよかったでしょう。しかし、主はそうなさらず、私たちの心を征服してくださって、悔い改めて信じるように導いてくださいました。だが、力で圧倒しての説得ではありません。奇跡や癒しやしるし、華やかな方法で心を痺れさせても、本当の回心や愛や信仰にはなりません。主の御業は今も、私たちに静かに語り続けています。自分のためにも、他の人が信じるためにも、そういう力を求めてはならないのです。
 大きく強く、圧倒的な存在感を持てたら伝道も効果的に出来るなどと夢見てはなりません。小さい私たちの労苦を通して、主が聖なる計画をお進めになっていることを、私達は信じるのです。

 

「聖なる主よ。聖絶という厳粛な出来事の前に、私達は戸惑い、恐れます。分からないことは多くありますが、聖なるあなた様がやがて万物を裁かれ新しくされるとの予告が改めて身に迫ります。私達を滅ぼすのではなく、聖徒としてお救いくださった御心を感謝します。私達を強めて、誘惑から救い、置かれた場で、小さくとも喜び歩む者としてください」



[1] そして、戦う以上は、白兵戦で、相手の血を流すことはアタリマエだったのです。

[2] ヨシュア記九10では、ギブオンの住民が同じ理由から、イスラエルとの同盟を申し出ています。

[3] 後々もこの出来事は教訓とされます。申命記二九7でも繰り返されますし、ヨシュア九10、詩篇一三五11、一三六20なども参考に。

[4] この面は、たとえば、申命記二八52などに。「その国民は、あなたの国中のすべての町囲みの中にあなたを包囲し、ついには、あなたが頼みとする高く堅固な城壁を打ち倒す。彼らが、あなたの神、主の与えられた国中のすべての町囲みの中にあなたを包囲するとき、」

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問18 「いつも悪いことだけに傾く」創世記六5-8

2014-09-06 18:52:50 | ウェストミンスター小教理問答講解

2014/09/07 「いつも悪いことだけに傾く」創世記六5-8

                                                                                    ウェストミンスター小教理問答18

 罪についての問答が続いています。前回、堕落によって陥ったのが、罪と悲惨の状態であることを見ました。その罪の状態を、今日の18が、そして「悲惨の状態」について、次回の19で見ることになります。

問 人間が堕落して陥った状態の罪性は、どのような点にありますか。

答 人間が堕落して陥った状態の罪性は、アダムの最初の罪の罪責と、原義の欠如と、一般に原罪と呼ばれている、人間の全本性の腐敗、および、原罪から生じるすべての現実の違反、とにあります。

 ここには、私たち人間が負っている罪が、四つの面から教えられています。

 第一の「アダムの最初の罪の罪責」は、問16で学びましたように、アダムとともにアダムにおいて神に背いた、その有罪判決を負っている、ということです。

 第二の「原義の欠如」とは、神様によって作られた時点では、知識と義と聖性において神に似た、正しい者であったのに、その本来の義を失ってしまった、ということです。この二つは、簡単にしておいて、第三をよくよく考えて見ましょう。それは、

一般に原罪と呼ばれている、人間の全本性の腐敗

とあります。「原罪」という言葉を聞いたことのある方もいるでしょう。広辞苑では「アダムが神命に背いて犯した人類最初の罪行為(旧約聖書の創世記)。また、人間が皆アダムの子孫として生まれながらに負う虚無性。宿罪」と説明されています。でも、何となくそこには、過去の罪の咎め、心の底にある暗いシミ、というようなニュアンスがあるのではないでしょうか。ウェストミンスター小教理問答は、

一般に原罪と呼ばれている、人間の全本性の腐敗

という言い方をわざわざします。そうすることで、原罪というイメージをただそうとしてくれているのだと思います。つまり、アダムから引き継いだのは、その罪責とか一つの原罪、というものではなくて、人間の全本性が腐敗していることなのだ、と念を押すのです。私たちの本性は基本的に、概ねはきよくて、無垢なのだけれども、悲しいことに原罪というどうしようもない罪も背負っている…というのではないのです。私たちの全本性が腐敗して、正しい事を願うよりも、自己中心的な願いを持っている。きよらかな心に、罪の大きな染みがある、というのではなく、心の全体が、どこをとっても、罪によって本来の状態でなくなっている。それが聖書の教えだ、というのです。

 先に読みました創世記の六章は、アダムが堕落した後の歴史を神様がご覧になって、その行き着いた状態を見て下された結論です。

創世記六5主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

 6それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。

 7そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の表から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」

 神である主がご覧になったのは、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くという現実でした。勿論、それは、人間が悪い事、悪事だけを行って、善を願うことが全くない、という意味ではありません。人間は、神のかたちに造られたものですから、願うのは善であり、愛や協力、祝福です。犠牲的な行為を褒め、善のために労を惜しまない人を偉いなぁと思い、社会貢献を勧め、子どもには正しい生き方を教えようとします。けれども、そう願いながら、どんな時も私たちは自己中心的なエゴイストでもあり、評価や損得を考えます。完全な愛によって生きる神のかたちに造られたのに、完全な愛ではなく、自分の利益や打算が入るのです。人を支配しようとしますし、また、神様からの支配を拒みます。それが、人間の姿です。

 主がこう仰せられて、ノアの大洪水が引き起こされました。そうでもしなければ、人間はもっと酷くなったでしょう。主は、どうしようもなくなった人間を、地から一掃されました。ノアの家族だけが、箱舟を造って、生き延びました。けれども、箱舟から出て来たノアたちを見ながら、主が仰ったのは、

創世記八21「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心に思い計ることは、初めから悪であるからだ。…」

というシビアな言葉だったのです。ノアの大洪水ほどの大竹篦返しを食らっても、人は「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、また悪を思い計るようになります。旧約の歴史を見ると、どんな奇蹟を見ても、律法を与えられ、失敗を繰り返しても、人は懲りることなく、神から離れ、神を侮り、自分のしたいようにしよう、という姿です。エレミヤは、

エレミヤ十七9人の心は何よりも陰険で、それは直らない。

と嘆きました。人の心が、まだ完全に真っ黒けにはなっていなくても、どこも罪で薄汚れ、段々と黒くなっていく一方であることは明らかです。願っている所が神様から離れているのですから、人間の力で良くなったり悔い改めたりすることは出来ません。

 けれども、聖書はそこから再出発させてくださる主のご計画を語ります。

創世記六8しかし、ノアは、主の心にかなっていた。

 ノアの心も原罪と無縁ではありませんでした。でも、主はノアをその心にかなうものと認めてくださいました。そして、そのノアの子孫が初めから悪を思い計る事もご承知で、それをいくら罰しても懲りはしないことも、熟知されるからこそ、ご自身からの一方的な恵みによる救いを備えて、ひとり子イエス・キリストの十字架と復活による、尊い贖いを果たしてくださったのです。

 私たちは今も、この自分の罪を深く思い知らされて、自分に呆れます。そこから初めて、一方的な恵みによる救いを痛み知って、主に栄光を帰するのです。そして、善人ぶるのではなく、主が私たちをすべての罪からきよめて、新しくしてくださることを願うのです。

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ルカ18章18~30節「天に宝を積む生き方」

2014-09-06 18:50:24 | ルカ

2014/08/31 ルカ18章18~30節「天に宝を積む生き方」(#336)

 

 今日の箇所、取り分け、最初の部分は、今までルカの福音書を読んでこられた方々にとっては、難しくなく読めることではないかと思います。

18…ある役人が、イエスに質問して言った。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」

 永遠のいのちを神様から戴くために、何をしたらいいのか。これは、ルカの福音書で、何度も出て来た問です[1]。そして、イエス様が今まで教えてこられたのは、何をしたらとか、人よりも正しく立派に生きてきたからとか、自分の側の「資格」を追い求めても神様に認めて戴くことは出来ない、という真理でした。私たちが相応しいかどうかではないのです。ただ神様の憐れみに与って、幼子のように神の国を求める者に、神は目を留めてくださる、のでした。

 ですから、ここでこのお役人が、イエス様の20節のお答えに対して、

21…「そのようなことはみな、小さい時から守っております。」

と答えましたのも、イエス様の教えとは向いている方向が違うのです[2]。彼らなりの理解、守れる程度に引き下げた甘い理解の中で、神様の戒めを守っていると胸を張ります。けれどもそれは、聖書の律法の字面だけを追うことでした。それは、イエス様が22節で、

22…その人に言われた。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」

と言われた時の彼の反応で、明らかになります。

23すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである。

 20節でイエス様は、人間関係についての律法を挙げられますが、その根本にあるのは、隣人を自分のように愛せよ、という戒めです。引いては、神ご自身を愛すること、神を(神だけを)恐れ、愛し、礼拝することが、神様の律法の根幹です。このお役人が、財産を売り払い、手放すなら、天に宝を積むと言われたのは、今までは天に宝を積まず、自分のために生きてきたからです。施しをしたら永遠のいのちを得られる、という意味ではありません。彼の生き方そのものが、天ではなく、自分の財産を見ていたのです。その財産の上に、永遠のいのちも自分のものとするにはどうしたらいいかと考えていただけです。まず、見るべき所を変えようとイエス様は招かれます。そして、天に宝を積む生き方に方向転換した上で、

 わたしについて来なさい。

と仰るのです。それが、永遠のいのちを得ること、神の国に入ることです。イエス様について行くこと、イエス様に従って生きることそのものが、永遠のいのち、神の国なのです。けれども、人はそこで、神様を信じてお任せしきることが出来ずに、立ち止まってしまいます。自分の持っているものを握りしめ、自分の側にあるものを誇ろうとしがちです。

23…非常に悲しんだ。

は、悶えたとか死ぬほどの苦しみを指す、大変強い言葉です[3]。永遠のいのちを手に入れたいと願い、清廉潔白な生活を送り、それでもなお、イエス様のもとに来て尋ねるほどの真面目な生き方をしながら、そして、イエス様のこの厳しい言葉に逆上したり抵抗したりせず、その言葉の正しさを分かりながらなお、それが出来ずに、非常に深い悲しみを覚えて、立ち尽くしているのです。でも、今日の話は、この悲しみで終わりません。

24イエスは彼を見てこう言われた。「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。

25金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」

26これを聞いた人々が言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」

27イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」

 これです。今日のメッセージは。子どものように神の国を受け入れればいいのに、それが出来ない私たち。金銭や財産に望みを置かずに、ただイエス様を信じて、天に宝を積む生き方を進めばいいのに、そこで惜しみ出してしまう人間。その人間の中からは、財産を売り払って必要な人に施すことも、イエス様に従うことも、産み出せないのです。だから、私たちが努力して、少しでも頑張って、イエス様にお捧げしなければ永遠のいのちがいただけないかもしれない、などとは読まないでください。そんなことは私たちには出来ないのです。けれども、神には出来る。私たちがイエス様に従えない。色色なものが邪魔をして、いや私たち自身が二心だったり本当に神様を信じ切れなかったりしてお金やモノにしがみついてしまう。そういう私たちの悲しい、頑なな心に、神様が救いを与えてくださる。神様の恵みによって、迷い、惜しみ、虚しいものを追いかけてしまう私たちの心が、深く深く変えられながら、実際の生活においても、モノとの関わりを整えられて、天に宝を積む生き方に変えられて、イエス様に従う人生としていただける。そこに今日の箇所が語っている、私たちの望みがあるのです。

 私たちを神様から引き離すものは、不道徳とか罪もありますが、今日の所を考えていると、意外とモノの誘惑が大きいのだなぁ、と改めて気付かされます。お金や財産、テレビや趣味…。それ自体が悪いわけではなくて、必要だったり祝福だったりしても、でも人間がそれを、神様以上に大事にしてしまう。色んな宣伝が「幸せになるにはこれが必要だ」と言い切っています。ストレスが溜まると、買い物をして発散しようとすることもあります。自分が宝をどこに置いているのかは、モノと関わり、時間の使い方から分かってしまうのです。そして、イエス様は、そういう私たちの実際の生き方、ライフスタイル、価値観そのものを取り扱われて、神の国に生きるように変えてくださるお方なのです。

 28節で、ペテロが、自分たちが家を捨てて従って来たことを誇った時、イエス様は、

30…この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。

と仰います。捨てたものを幾倍にして余りある恵みをくださり、後の世では永遠のいのちを約束されます。それでも、私たちが捨てたものをいつまでも惜しみ、数えることは出来るでしょう。無いものを愚痴り、損することを嫌う心-そういう心そのものを変えて、本当に主に信頼して、自分でもモノでもなくただキリストに信頼する者とするのが主の御力です。私たちの心と生活を、恵みによって新しくなさるのです。時には奪われ、失って、深く悲しむしか出来ないとしても、それでもイエス様に従わせていただきたい。最後には、とてもシンプルな人生だったけれども、失ったものとは比べものにならない祝福だったと、心から言わせていただける。そういう歩みを下さる神を仰いで、持っているものも自分自身も差し出していたいのです。

 

「主よ。あなたには出来ないことはありません。私たちが自分の生活を整えてあなた様に従うこと、この世のものならぬあなた様の恵みと祝福に満たされ、証しすること-これもまた、御業と信じて、期待します。モノや虚しい惑わしから救われて、全能のあなた様に従う喜びを、そして教会の交わりや様々な尊い贈り物を味わい、潤され、命の道を歩む者としてください」



[1] 十25「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」など。

[2] この「小さい時から」というのも、当時のユダヤ教的な理解で、物心ついた頃から、というような甘い限定ですが。

[3] マタイ二六38(マルコ十四34)「そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。…」、マルコ六26「王は非常に心を痛めたが、…」

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問17 「罪と悲惨の状態に」ローマ三10~18

2014-09-06 18:47:52 | ウェストミンスター小教理問答講解

2014/08/31 「罪と悲惨の状態に」ローマ三章十節~十八節

                                                                                    ウェストミンスター小教理問答17

 

 人間の堕落、罪の状態についての問答がもう少し続きます。今日の17は、

問 堕落は、人類をどのような状態に陥れましたか。

答 堕落は、人類を罪と悲惨の状態に陥れました。

とまとめます。次の問18で、罪の状態について、更に問19で、悲惨の状態について述べます。ですから、今日は罪と悲惨とについて詳しく説明する必要はないでしょう。そして、その次の問20から、罪と悲惨との状態から神が私たちを救い出してくださることに話が発展していきます。そうした展開に希望を置きつつ、今は、その前に、堕落が人類を罪と悲惨の状態に陥れた、ということに注目しておきたいと思います。

 つまり、ここで私たちは、聖書が現在の状態を、堕落によって陥れられた、罪と悲惨の状態である、と言い切っているとの告白をするのです。今の状態は、人間の本来の状態ではありません。神様が計画された、もともとの世界は、今の状態とは違う、もっと素晴らしい世界だった、と信じるのです。

 多くの人が、「神様がいるなら、どうしてこんな悲惨なことが世界にはあるんだ。こんな酷いこと(大震災や病気、悲しい出来事、訳の分からない暴力的な不幸)が降りかかるのに神様を信じるだなんて、無理だ」と言います。そう言いたくもなるような悲惨な目に遭う辛さには、心から同情します。けれども、ここには二つの間違いがあります。

 第一は、さっきから言っていますように、神様はこの世界を、もともとは悲惨がない世界、祝福に満ちた、素晴らしい世界としてお造りになりました。災害も、病気も死も、暴力もない、幸いに満ちた世界をアダムとエバに提供されたのです。しかし、アダムはそこで神に背きました。神様との契約を破ったら、死ぬことになると知らされていたのに、掟を破ったのです。「死んでもいいや」と思ったのでしょうか。どう思ったにせよ、本当に死は招き入れられました。でも、それは、神様が厳しすぎる呪いを与えて、人間を不幸に陥れたのではありません。人間が神様に背いたという「堕落」によって、創造された状態から落ちてしまい、世界に悲惨が引き起こされたのです。それは、人間が神に背く選択をした当然の結果でした。崖っぷちから踏み出せば、危ないよ、と言われていたのに、面白半分であっても近づいて足を踏み外せば、崖を転がり落ちるしかないでしょう。痛い目に遭うのは、言うことを聞かないで行動した当然の結果です。危ないよと禁じていた親が、意地悪や怒り任せに痛い思いをさせたのではありません。世界の悲惨は、人間が選んだ堕落の結果です。神様のせいには出来ません。

 しかし、もう一つの間違いがあります。それは、人間が往々にして問うのは、悲惨のことばかりで、罪については(ことに、自分の罪については)取り上げたがらない、ということです。今日の問16で大切なのは、

堕落は、人類を罪と悲惨の状態に陥れました。

と言っている順番です。聖書は、やはり、まず先に「罪」を取り上げて、それから、「悲惨」に言及します。世界の悲惨以上に、神に対する罪を由々しいこととして取り扱います。先に見た、ローマ書3章10~18節で、

義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。

と述べて浮き彫りにしていくのも、人間の罪であり、言葉や行動、思いの歪みです。その罪や、自分自身の自己中心、毒舌、二枚舌、好戦的な生き方を問わずに、ただ周りで起きる悲惨な出来事ばかりを問題にして、神様を責めるとしたら、可笑しくはないでしょうか。ですから私たちは、悲惨が起きるのは神様が悪い、と文句を言うよりも、自分自身の罪を認め、神様から離れている状態が悲惨を引き起こしているのであって、神に立ち帰ることこそが、すべての出発点であることを受け入れなければなりません。

 ウェストミンスター小教理問答と並ぶ、改革派の信仰問答の「ハイデルベルグ信仰問答」は、「唯一の慰めとは何か」という問から始まります。その慰めを答えた上で、

問2 この慰めの中で喜びに満ちて生きまた死ぬために、あなたはどれだけのことを知る必要がありますか。(問3、86、117も参照)

答 三つのことです。第一に、私の罪と悲惨がどれほど大きいか、第二に、わたしのあらゆる罪と悲惨から、どうすれば救われるのか、第三に、そのような救いに対してわたしはどのように神に感謝すべきか、ということです。

 ここでは、私たちが自分の罪と悲惨がどれほど大きいかを知ることが、神様の真の慰めの中で喜びに満ちて生き、また死ぬために、知らなければならないことの第一だと言っています。罪と悲惨を認め、しっかりと知ることによって、私たちは今の世界に降りかかる悲惨を恐れるだけではない、生き方へと導かれるのです。この世界を造られた神様が、悲惨から守る以上の祝福をご計画なさっておられたのだと知るのです。世界のあちこちに開いた穴を継(つ)ぎ接(は)ぎだらけで何とかしようというのではなく、本来の祝福と栄光に満ちた世界へと、目を高く上げることが出来るのです。「どうせ世界はこんなものだ」「人生なんて大して期待をするだけ無駄だ」と悟ったような言い方をするのではなく、神様のご計画は、こんなものではない、長い目で万物を新しくし、祝福を回復なさる御業が、この世界に注がれているのだと信じるのです。

 その回復のために、イエス・キリストはこの世に来てくださいました。主イエス様が十字架で成し遂げてくださった御業は、私たちを悲惨に遭わせないというだけのものではありません。私たちと神様との関係を修復するため、罪の贖いをご自身のいのちをもって果たしてくださったのです。そして、それも、ただ罪が赦され、将来も罰せられなくて済む、ということで終わりではありません。私たちを、罪と悲惨へと陥れていた堕落そのものから引き上げて、創造された状態の、本来の祝福へとこの世界を取り戻していく、ダイナミックなご計画の一環なのです。でも、その壮大なご計画は、私たち一人一人が、自分の罪に気付き、主イエス・キリストにある赦しと和解をいただくことから始まるのです。罪と悲惨の中にいた私の救いが、神様の創造と救いの御業にとっての「鍵」でもあるのです。

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ルカ18章15~17節「子どものように神の国を」

2014-09-06 18:44:47 | ルカ

2014/08/17 ルカ18章15~17節「子どものように神の国を」(#460)

 

15イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た。…

という、とても麗しい情景から始まります。しかし、

…ところが、弟子たちがそれを見てしかった。

 子どもに触ってもらって祝福を願うことは、当時の習慣でしたから、それ自体を軽視したのではないでしょう。恐らく弟子たちは、この時のイエス様のお疲れとか、エルサレムに向けて真っ直ぐに進んで行かれる重々しさなどから、イエス様を気遣って、子どもたちを連れて来る親たちを叱ったのでしょう。「イエス様は、それどころじゃないんだ」ということです。

16しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。…

 イエス様は、子どもたちを連れて来る親たちを呼び寄せられます。神の国は、このような者たち(子どもたち)のものだと仰います。この「幼子」とある言葉は「赤ん坊」とか「胎児」とも訳されることがあって、本当に小さな子どもも含まれていたのです[1]。その子どもたちがイエス様の祝福に与ることは、止めてはならないし、連れて来なければならない、と仰いました。彼らは、まだイエス様の福音や説教を聴いても、サッパリ理解できないでしょう。献金や奉仕をすることも出来ません。自分で祝福を求めに来ることさえ出来ないので、連れてきてもらうしかない幼子たちです。でも、その子どもたちがイエス様のもとに連れて来られて、祝福に与れるようにすることは、止めてはならない、イエス様の命令なのです[2]

 けれどもイエス様はさらに仰います。

17まことに、あなたがたに告げます[3]。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。

 決して神の国に入ることが出来ない、という言い方はそうそう使われません[4]。でも、イエス様はそれを、子どものように神の国を受け入れる者でなければ、と仰るのです。では、

 子どものように神の国を受け入れる

とはどういうことでしょうか。子どものように、純真で、無垢で、かわいらしくなれ、ということでしょうか。子どもは天使のようで、罪がない、ということでしょうか。いいえ、子どもも罪がありますし、私たちが罪のない人間になることも無理です。神の国は、子どもたちのようなものだと言われるのも、子どもに神の国に入る資格があるからではありません。彼らは、連れて来られるから、呼び寄せられるから、イエス様のところに行く事が出来るのです。

 前回見た、「パリサイ人と取税人」の喩えは、何と言っていたでしょうか[5]。自分が他の罪人のような罪深い生き方をせず、断食やささげ物も熱心に行っています、と自慢したパリサイ人は義とされませんでした。罪人の私をあわれんでください、と祈るしかなかった取税人は、義とされて帰ったのです。自分には神様に受け入れて戴く資格があります、と胸を張った善人は低くされます。自分には全くその資格はありません、と胸を叩いて憐れみを乞うだけだった罪人は、受け入れて戴けました。これが、子どものように神の国を受け入れる者だ、と繋がっているのです[6]

 まだ知恵のつかない、小さな子どもがモノをもらう時、自分の権利を主張するでしょうか。自分の方がちゃんとやってきたからとか、母親を喜ばせたらおっぱいがもらえると考えるでしょうか。そんなことはしませんね。ところが段々と知恵がつき、大人になるに従って、人は自分の権利とか資格とかを考え始め、周りと自分を比較しはじめます。神様の恵みを戴きながらも、自分の相応しさとか見せかけを取り繕ったりし始めます。そういう人間に対してイエス様は仰るのです。自分の方が相応しいと言いたがっても、神の国に入ることは出来ない。自分を低くする者、子どものように神の国を受け入れる者だけが、神の国に入ることが出来るのだよ。そう仰ったのです。
 だから私たちは、子どものように、可愛くなろう、純粋になろう、初々しくなろうなどとするのではないし、自分はそんな純真な人間には今更なれないと言って投げ出すのでもありません。私たちの側に、相応しさを持て、ということではないのです。自分の中に相応しさなど一切ないからこそ、子どものように、図々しく、厚かましく、連れて来られた者、呼び寄せていただいた者として、神の国を受け入れればいいのです[7]

 ところで、幼子たちは、そのような教えの「サンプル」としてだけここにいたわけではありません。実際にイエス様は幼子たちを祝福されたのであり、神の国はこのような者たちのものだと言われたのです。幼子は、本当に神の国に入れられていること、親たちは自分の子どもたちをイエス様のもとに連れて来るよう命じられていることを覚えましょう。幼くして亡くなった子どもたちは、イエス様によって神の国に呼び集められている、とさえ仄めかされています。それは、子どもにはまだ罪がないという意味ではなくて、イエス様が招いて下さるゆえに、です。イエス様を信じることが出来て、イエス様のもとに来ることが出来るようになっても、まだ、信じようともせずイエス様に行こうともしなくても、誰でも救われる、ということではありませんよ。でも、まだ信じる力も理解力も持つ前に死んだ場合、信仰がなかったから救われない、という事ではないでしょう。その時その時に相応しく、神様は一人一人に働いて、その歩みを祝福し、導いて、御国に招いておられるのです。

 素朴な感想ですが、この時イエス様に触って戴いた子どもたちは、その後どんな成長をしたのかなぁ、などと考えてしまいます。ただの儀礼的な祝福ではなかったはずです。イエス様の祝福です。手を置いて戴いたその祝福の力が、子どもたちの人生にどう現れたのかな、などと想います。でもイエス様の祝福とは勿論、病気にならないとか商売が繁盛するとかお金持ちになる、といった祝福ではなく、イエス様に従う祝福、愛するために自分を捧げる祝福、教会のために苦しみや辱めを受けるという祝福だったに違いありません。
 けれども、それは、その子どもたちだけの特権ではありません。イエス様は、この子どもたちだけでなく、大人たちにも語っておられます。祝福を拒まれてはならない存在として、私たちも神の国を求めるべきことを教えておられます。
 それならば、私たちは今、ここで、自分の中に相応しさが全くないのだけれども、イエス様の元に行って祝福をいただくことが出来ると、素朴に信じてよいのではありませんか。この時ここで、触って戴いた幼子たちと変わらない、祝福を戴いていると約束されています。幼子の時から、主が私を祝福しておられて、今日まで導かれてきたのです。悲しみや困難があっても、罪や失敗を重ねて、

「私をあわれんでください」

としか言えない人生であったとしても、それは天の御国を受け取るための準備、祝福でした。そして、ますます、この憐れみに満ちた方、私たちを無償で招いて下さる方を、この方にある慰めと祝福を証しする人生であることを確かめるのです。

 

「幼子を集めたもう主が、私たちをも呼び寄せ、祝福し、神の国への旅路を踏み行かせてくださいます。いよいよ傲慢を捨てて、幼子のようになるために、この人生を導いてくださっています。どうぞ、幼子も大人も、共々に主によって招かれた幸いに喜び合う歩みを重ねさせて下さい。赦されて、恵みによって立ち上がれる祝福の交わりを、ここにますます現して下さい」



[1] 幼子 NIV babies。16節の「幼子たち」はautaで「彼ら」。

[2] 九46-48では、誰が偉いか、と論じ合う弟子たちに、神の国では子どもを受け入れる者が一番偉い、と言われた。ここでは、神の国に入る者は子どものように神の国を受け入れなければならない、と。

[3] 「まことにあなたがたに告げます。」も、旧約の預言者の言い方を受けた、強い言い回し。ルカでは6回。四24、十二37、十八29、二一32、二三43。

[4] 「決して御国に入れない」ルカではここだけ。マタイは五20「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、」、十八3「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません」の二回。(マルコ十15は平行記事)。黙示録二一27「しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入れない。」

[5] 九51以来、ルカ独自のエピソードが続いていたが、ここでまた、マタイ・マルコと合流。むしろ、これまでが、この結論に至るための脱線・説明? そう考えると、10章からのエピソード全体が、ここに集約されているとも言える。

[6] 次回の「富める青年」の教えにもつながっていく。彼は、神の国に入ろうとしない。入れなかったのではなく、入ろうとせずに悲しむのだ。

 

[7] 「もし子どもたちが神の国に属するあらゆる特質(謙遜、自らを任せること、信じること、愛等)をもっているとしたら、彼らは神の国を受けるに値する者ということになり、イエスが指摘した内容を全く否定することになってしまう。幼年者たちは何も持たずに来るから、受けるのである。それを聞き、またそれを述べるだけで充分なのだ。」(F・B・クラドック『現代聖書注解 ルカによる福音書』(宮本あかり訳、日本キリスト教団出版局、1997年)351頁)

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