聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2013/01/20 ローマ書八5-8「御霊に従う者」

2013-02-27 10:29:52 | ローマ書
2013/01/20 ローマ書八5-8「御霊に従う者」
エレミヤ書四二章 詩篇六三篇

 肉と御霊、という対比が何度も出て来ます。ローマ書の特徴的な表現ですが、前回も申しましたように、ここで言う「肉」とは、文字通りの「肉体」とか「物質」という意味ではありません。また、肉体の欲望が汚らわしく忌むべきものだ、という意味でもありませんし、広く道徳的な悪全般を指しているわけでもありません。その人自身としては真面目に正しく生きようとしているとしても、神から離れたまま、その正しさを果たそうとする。そのような、根本において神から離れて、自分が中心になっている生き方を、「肉」と呼んでいるのです。
「 5肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。」
 神に背を向けたまま、自分の考え、願い、欲、そうしたものに従って生きる者は、自分のことしか考えません。そこから、結局は、あらゆる罪や汚れが出てこないわけには行かないのです。それをパウロは、結局は「死」だと言い切ります。
 「 6肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」
 この、5節の「もっぱら考えます…ひたすら考えます」という言葉も、6節の「思い」という名詞も、同じギリシャ語の動詞形と名詞形です。これは、後の十四6では、「(日を)守る」とある言葉で 、マタイ十六23では、イエス様がペテロに、
「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」
と叱りつけた言葉でもあります。新共同訳で「重んじる」「評価する」「うぬぼれる」などと訳されています。肉に従う者が重んじること、肩入れをして、過大に評価していることは、肉的なことであり、最後には死に至ること、いのちなる神に背くことでしかありません。神のことを思わないわけではないけれど、大事にしているのは、肉のこと、自分のことなのです。御霊によって導かれるところでは、いのちと平安だと言いますが、肉に導かれるのは死であり、平和を捨ててでも自分の思いを貫こうという思いでしかないのです。
「 7というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」
 肉に導かれてある限り、根本的な性質上、神に対して反抗するし、神の律法に服従しようとはしない、いや出来ないのです。
 「 8肉にある者は神を喜ばせることができません。」
 肉にある者がどんなに真面目に一生懸命に、立派な生き方をしたとしても、社会では絶賛されて、歴史に名を残すこともあるかも知れないとしても、神を喜ばせることはない、と言われます。それは、その人の根本的な願いが、神に向いていないからです。神を、天地万物の主であり、永遠のお方である神を本当に思うなら、神に相応しく、恐れ畏(かしこ)んで、思わずにはおれないものです。しかし、「肉にある者」は、自分が中心です。神様も、自分の脇役とか、人生の引き立て役だとしか考えようとしません。それが「肉」という表現の指すものだからです。ですから、神を神とするという根本がないのですから、神を喜ばせることは出来ないのです。
 けれども、何度も申していますように、これは、私たちに対して、「あなたがたは肉に従っていませんか。肉の思いを持っている限り、神を喜ばせることは出来ませんよ。肉に従うのではなく、神に従いなさい」と命じたり警告したりしているのではないのですね。パウロは八章でも命令や勧告は一切していないのです。言っているのは事実であり、これを知ってほしい、というのがパウロの願いです。
「 1こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」
 そう歌い上げて始まった八章です。そのことを頭に入れておいていただきたいのです。 「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してない、という驚くべき宣言、文字通りの「福音」を語っているのです。4節でもハッキリと、
 「肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たち」
と言っていたのです。キリスト者は、「肉に従う者」ではなく「御霊に従う者」である。そうパウロは言っているのです。私たちキリスト者は、自分が「まだまだ御霊に従わず、肉に従っているなァ。御霊に属することよりも、肉的なことばかり考えているなァ。神を喜ばせることが出来ていないなァ」などと考えてはいけないのです。それよりも、神が私たちを、御霊にある者としてくださった。
 「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」
と言われたとおり、私たちはキリスト・イエスにある者、御霊にある者である。そう信じなさい、とパウロは言っているのです。
 確かにまだまだ私たちは、肉的なことを考えることが多く、御霊に属すること、神の律法に服従することを考えるには貧しいものです。しかし、それが大事なのではありません。大事なのは、私たちが、キリスト・イエスにある者とされている、という事実であるのです。私たちのわざが第一なのではなく、神のみわざが第一に仰がれ、重んじられるべきなのです。そこに私たちの慰めも希望も生じるのです。
 注意してください。私たちの中に、御霊の思いや肉の思いがある、とは言われていないのです。私たちの心の中に、善と悪が宿って葛藤している、悪を選んでしまう、そういう次元の話ではないのです。私たちが、御霊の中にある、ということです。神の大きな御手の中に私たちが既にある、ということです。また、「御霊に従う」とあるのも、私たちが御霊に従おうと名乗り出て、勝手に御霊に従おうとしたり、挫折して「もう無理だ」となったりする、そういうものではありません。まず、
「 2…キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放した…」
のです。まず、神が力強く働いてくださったのです。その導きによって、私たちが御霊に従うことも始まったのです。(ここでパウロが、七章後半の「私」「私」から、「あなた」に舵を切ったことにも気づきましょう。これは、「あなた」なのです。)神があなたを導かれたからこそ、あなたは御霊に従う者とされたのです。そして、いろいろな雑念(ざつねん)、煩悩(ぼんのう)が今なお根強く残ってはいるとしても、御霊に属することを重んじる、その素晴らしさを認める、結局は自分の欲や願いよりも、神様の御心がなりますようにと祈る者とされており、そうした信仰において成長を与えられているのです。いのちと平安を思う者としていただいているのです。そして、8節の裏を返せば、なんと神が私たちを喜んでくださっているのです。神を喜ばせることが出来る者とされている…。
「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。
救いの勇士だ。
主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、
その愛によって安らぎを与える。
主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」
 この主の喜びの中に、私たちが今ある。私たちが神を喜ばせるようなわざをしたら、御霊にある者となる、のではないのです。神が喜んで、何の重んじるに値することのない私たちを、不思議にも、有り難くも、選んで救ってくださった。キリスト・イエスの贖いに与らせ、御霊に導かれる者としてくださった。私たちが今なお不十分で、失敗ばかりしているとしても、それでも神は私たちを喜んでくださって、養い育ててくださるのです。
 そのことを踏まえた上で、私たちがますます御霊に従い、心の奥深くまで、生活の隅々にまで神様の恵みが染み渡るようにとの招きも語られます。恵みによって生かされているのですから、私たちもまた恵みに生きる。人を裁いたり、利用しようとしたりするのでなく、掛け値なしに愛するようにとの勧告も語られます。特に十四18には、互いの違いを踏みにじることをせず、本当に相手を生かそうとするよう勧める中で、
 「このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。」
と言われます 。神様が、私たちをそのように成長させてくださる。御霊が私たちを導き、従わせ、御心に生きる者、神の恵みによって生活する者とならせてくださる。主の恵みの大きさに包まれている事実を知るときに、今まだ自己中心で人を傷つけてしまう肉的な私も、主の喜びを滲み出す者へと工事中なのだと信じさせていただくのです。

「いのちと平安を追い求める心は、小さいようでも、私共が御霊の中にあることのしるしであり、かけがえのない宝です。肉の思いはまだ大きくありますが、あなた様がこれを打ち砕いて、恵みの思いを育て、実らせてくださることを、ますます信じ、願わせてください。主の御愛とご計画の偉大さに捉えられているとの福音に安らがせてください」


文末脚注

1 他に、ローマ書では、十二3、16、十五5、名詞形で八27「御霊の思い」で出て来ます。名詞形は、新約聖書でもローマ書の四節だけで用いられています。
2 ゼパニヤ書三17。
3 他にも、Ⅰテサロニケ二4「私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。」、Ⅰテサロニケ書四1「終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。」などがあります。

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2013/01/13 ローマ書八1―4「御霊に従って歩む私たち」

2013-02-27 10:28:26 | ローマ書
2013/01/13 ローマ書八1―4「御霊に従って歩む私たち」
エレミヤ書三一31~37 イザヤ書三八10~20

 ローマ書八章に入ります。いくつもの、有名な言葉があります 。また、この八章の素晴らしさを歌い上げる言葉も沢山あるようです。私自身、この八章最後の言葉を愛唱聖句としてきたこともありますから、一節々々に取り組むことを楽しみにしています。
「 1こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」
 こういうわけ、とはどういうわけかと言いますと、やはり五章、六章、七章で展開してきた福音を受けて、でしょう 。こういうわけで、と今まで語ってきたこと。しかし、パウロは改めて、もう一度言います。
「 2なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」
 人間の中に働いているのは、「罪と死の原理」です。罪を犯そう、何でも自己中心に考えよう、神にだって自分の生活を明け渡したくはない。そういう「原理(法則)」が重力のごとくに人間を支配しています 。そこで、いくら律法や道徳を与えられたところで、それさえも罪と死の原理は取り込んでしまうだけでしょう。しかし、そうした人間が、キリスト・イエスにあって、「いのちの御霊の原理」に支配されるようになります。御霊が私たちを支配し、いのちへと導いてくださる。まだ罪や死の残党は残っているのですけれども、その全てを通しても、御霊が私たちを御心に適う者へと整えてくださる。それは、万有引力の法則のように、それ以上に確実に私たちを導くのです。
 もちろん、それは私たちが何もしなくていい、ということではありません。罪や頑なさを握り締めたままでも大丈夫、というのではなく、いのちの御霊の原理は、私たちの罪を悔い改めさせ、頑なな心を砕かれた心へと導かれるのです。罪と死を握り締めたままでも永遠のいのちもいただける、ということはあり得ません。私たちの両手を開き、すべてを主の手に委ねるようにされていく。それが、救いの恵みです。しかし、私たちが何かをする、という以前に、まず、キリスト・イエスにあって、なされた救いの御業に私たちの土台を確(しっか)りと据えなければなりません。
「 3肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」
 ここで注意したいのは、「肉によって無力になったため、私たちにはできなくなっていることを、神はしてくださった」と言っているのではない、ということです。律法が出来なくなっていること、です。私たちが無力になっていることは、ここまででも散々述べられてきました。ですから、律法という本来素晴らしいものさえも、罪を処罰することは出来ませんでした。いくら人間に律法を与え、努力して罪から救われよ、と発破をかけたところで、人間の罪ある性根(しょうね)を叩き直すことは不可能です。この場合の「肉」とは、悪いこと、不道徳なこと、という意味ではありません。むしろ、パリサイ人やガラテヤ教会に宛てて言われているように、人間が神様に百パーセント頼るのでなく、自分の力を頼みとして生きることを、「肉」と言っているのですね。神様の恵みに委ねるのではなく、自分を誇り、真面目に正しく生きていれば良い、それが肉の思いであり、それは結局、無力で、神様を喜ばせることが出来ようはずがないのです。律法でさえ、そんな人間を生まれ変わらせ、罪を処罰することは出来ませんでした。
 しかし、神がひとり子イエス・キリストを私たち人間と全く同じように、肉体を持つ存在としてお遣わしになり、その肉において、罪を処罰してくださいました。それは、勿論、イエス様の十字架を第一に指しています。罪がもたらす処罰を全部御自身に引き受けてくださったのです。それによって、逆に罪を処罰し、無効化されました。しかし、それだけではありません。イエス様は、その肉体において歩まれた三十年余りの生涯において、完全に律法に従われ、罪の誘惑に完全に打ち勝たれたのです。そういうイエス様の聖なる歩みにおいて、罪の罰をすべて引き受けるという消極的面と、律法を守り抜くご生涯を歩まれたという積極的面と、両方で、イエス様は罪を処罰されたのです。それは、律法にはなし得なかったことでした。
 なぜそのようなことをクドクドというのかと言いますと、4節にこう纏められている言葉を、今日特に覚えたいからです。
「 4それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」
 この、御霊、聖霊、という言い方を、パウロはこれまで4回しか使っていませんでした 。しかし、この八章では19回も、聖霊が登場します。この後、九章以下で使われる回数よりも多いのです。それは、それだけこの八章の内容と御霊との関係が深いことを物語っているのでしょう。そして、言うまでもなく、
 「肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たち」
というのも、この肉体を離れて死んだとき、あるいは、この世界とはなるべく関わらずに生きる、という意味ではなく、イエス様が肉体を取られたように、私たちもまた、この肉体の中にありつつ、肉の思いに従うのではなく、御霊に従って歩む、ということです。それが大事でないなら、イエス様もわざわざ肉体を取ってご苦労されることはなかった。イエス様が肉のからだを取られたのは、人間がこの肉の体において、罪に打ち勝ち、神に従うようにならせるためであった。この事を深く心に留めたいと思うのです。
 御霊に従う。いのちの御霊の原理が私たちを解放した。こういう素晴らしい言葉を聞くと感心はします。けれど、いざ自分の現実生活が始まると、そんな綺麗事は言っていられないと私たちは思い始めるのではないでしょうか。礼拝と生活をわけて、諦めてしまうところがないでしょうか。しかし、パウロは言います。イエス様は、肉を取ってきてくださった、と。私たちのこの体と同じ体で、「…罪深い肉と同じような形でお遣わしになり…」とわざわざ言われるような形で、イエス様はこの世に遣わされました。その続きで、私たちが、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む、と言われるのは、私たちのこの体での生活-罪を犯し、神から離れてしまう、そのままでは本当に惨めに滅ぶしかない、この私たちのありのままの人生-の中に、「律法の要求が全うされるためなのです。」と言われているのです。
 しかし、ここでも注意してください。律法の要求を全うしなさい、と命じられているのではありません。以前にも言いましたように、このローマ書の前半、十一章までの間には六11から19節の間に出てくる命令以外、いっさい、命令はありません。ここでもそうです。私たちが律法を守らなければならない、律法の要求を全うしなければならない、ではないのです。それは私たちには出来ないことでした。しかし、そのような私たちを、キリストが肉体を取られて、御自身の生涯において罪を処罰されたことによって、いのちと御霊の原理に生きる者としてくださいました。御霊に従って歩む者、キリスト・イエスにある者としてくださいました。ただし、そこから引き離そうとするものがあるのです。神を忘れた肉の思い、罪と死の原理というものがこの世界にも、私たちのうちにもまだあります。自分で律法を全うできるとか、自分の生き方で神様を喜ばせることが出来るとか、一方的な恵みによる救い、ということを忘れたり小さく考えたりする原理が働いているのです。ですからパウロはこの手紙を書いているのですし、私たちにもこれが聖書という形で保存されて伝えられているのです。
 私たちは、この、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してない、と言い切れる程の、いのちの御霊の原理の中に捉えられている事実を味わい、覚えるように、と呼びかけられています。まだ、罪の力は働いています。私たちも罪を犯すし、肉の思いを抱えています。それも、本当に心の奥に、自分でも気づかないほど、深く、広く、神に逆らう思いに病んでいる私です。それでも、どんなにボールを高く放り投げても、絶対に万有引力の法則の方が強くて、地面に戻って来るように、私たちは、いのちの御霊の原理に捉えられていて、何が起ころうとも、私たちがどんな者であろうとも、必ずやいのちへと導かれていく。御霊が導いてくださっているのです。
 私たちが、ではなく、主が、私たちの歩みの中に、律法の要求を全うしてくださる。私たちは自分で頑張ろうとか、人を批判したりとかしがちですが、私たちが欠けだらけであっても、そこに生きて働く主を信じるのです。人の願いや貧しい思いを遥かに超えた、主のみわざが必ず現される。そのように、この八章を通じてパウロが歌い上げていく声に、本当に深く励まされ、慰められ、希望をもって新しくされていきたいのです。

「私共は今、御霊に従って歩む者である、と教えてくださり、ありがとうございます。まだまだ不完全であり、肉の思いに囚われてしまう者ですが、いのちの御霊の原理は罪と死の原理よりも遥かに勝っていますから、平安を持つことが出来ます。どうぞ、主が私共の歩みの中に、この約束の御真実を現してください。真にそれを待たせてください」


文末脚注

1 たとえば、「11もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」、「14神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」、「26御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」、「28神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」、「31では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。32私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。33神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。34罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。35私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。36「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。37しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。38私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、39高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」など。
2 元の文章では、最初に「決してない」が来ます。それだけに、パウロの言いたいことが、今までのことを全部受けて、キリスト・イエスにある者が絶対に、罪に定められることがないと確信を歌っているのだと覚えたいのです。
3 「今は」も時間的に取るよりも、キリストにある現在の現実を指す言い方でしょう。
4 シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』参照。
5 一4「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。」、二29「…文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。」、五5「…なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」、七6「…その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」

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2013/1/6 民数記二二章「ろばの口を開いて」

2013-02-27 10:26:36 | 民数記
2013/1/6 民数記二二章「ろばの口を開いて」
ルカ伝一29-32 Ⅱペテロ書二15-19

 民数記の二二章から二四章まで、このバラムとバラクの話が続きます。どっちがバラムでどっちがバラクか、よく分からなくなることがありますが、今読みましたペテロの手紙のように、新約聖書にも三箇所、このバラムが引き合いに出されています 。旧約の中でも有名な、ずる賢い、主の敵です。
 しかし、今日の箇所を読むと、むしろバラムは、主に従おうとしているように見えます。最初は、主が、バラクの使いと一緒に行くことを禁じたので、
 「13…主は私をあなたがたといっしょに行かせようとはなさらないから。」」
と同行を断っています。二回目も、最初は、
「18…「たといバラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても、私は私の神、主のことばにそむいて、事の大小にかかわらず、何もすることはできません。」
と宣言しているのですね。それでも、神が20節で許可なさったので、出掛けたのです。ところが、そうして出掛けたら、22節で、
 「…神の怒りが燃え上がり、主の使いが彼に敵対して道に立ちふさがった。…」
ということになるのです。
 異邦人の呪術師とはいえ、ここまで誠実に答えている人物もなかなか珍しい、ということと、それなのに主が御自身で出立を許可しておきながら、バラムを殺そうとするとは一体どういうことか、よく分からなくなってしまうような戸惑いを覚えるのです。
 けれども、この民数記自体、三一章の8節や16節で、バラムの悪が罰せられるべきだと評価しているのです 。バラムの言葉が、バラムの誠実さを保証するわけではない。いいえ、そもそも人間の言葉も、私たちが何を言うかも、「口では何とでも言える」と言われる通りで、その内容を保証することにはなりません。
 また、この後、二三章二四章と続けて、バラクはバラムにイスラエルを呪わせようと再三するのですが、主はバラムに命じてイスラエルを祝福させられます。直接出てくるだけでも三章も掛けてこのエピソードは続きますし、このまま民数記の最後三六章まで、「モアブの草原」が舞台となる、大きな区分が続きます。そういう意味でも、この最初の長いエピソードは重要なのですが、そこでバラムがイスラエルを祝福します。けれどもそれも、バラムが正しいとか、信仰を持っていたということではなくて、イスラエルを呪おうとした、欲深いバラムを通してさえ、主なる神はイスラエルを祝福され、また御自身の御心がイスラエルを祝福することであると大々的に啓示された。そこにこそ、この部分の意味があるのですね。
 勿論、私たちはバラムの問題を通して教えられること、悔い改め、自己吟味するべきことは多々あるのですが、それと共に、これが主の民の外で起きた、という第一の意味を確り心に刻みたいのです。主は、主の民を祝福されるだけでなく、主の敵にも働いておられます。私たちを祝福される、また、私たちの心の底にまで働き、バラムのように言葉の裏に秘めた真意を問うてこられるお方であるとともに、私たちの敵、神を憎む者たちのうちにも働いておられ、その悪意を牽制し、益に変えてくださる。キリスト者の祝福を妨げるものに対しても、神は強く、御心をなしておられる。そのような力強い宣言であるのです。
 とはいえ、やはりバラムの罪が、教会の中に入っていると、ペテロやユダや黙示録が警告していることを考えると、敵対者や他人事、対岸のことと安心しているだけ、というのでも片手落ちとなるでしょう。バラムから学ぶべきこともまた、謙虚に学びたいと思います。それは、ロバの口が開いて暴露されているような愚かさ、だったのです。
 ロバが話す、というのは、まことに不思議な記事です。それだけで興味津々になって、ロバならぬ野次馬となって終わっている人も多いようです。私は勿論本当にこの時ロバが口を開いて話したのだと信じていますし、それが一番自然な読み方であるわけです。けれども問題は、ロバが話せるかどうか、という事ではないのです。バラムがロバよりも愚かになっている。ロバには御使いが見えたのに、だから進むべきではないと分かったのに、バラムがそれに気づかずに無理にでも行こうとする。今まで逆らったことのないロバが身を巡らしたのだから、何かあるに違いない、と思ってもよかったのに、そうは気づかずに、
 「29…おまえが私をばかにしたからだ。…」
という理由で、ロバを鞭打つのです。このことだけではないのですね。前夜も、その以前にも、神がバラムに現れて、行く事を許される、という特別な啓示を受けたのです。夕べのことだけでなく、主がバラムに言うべき事を告げる。また、それだけを語るかどうかも見ておられる。そういう約束に、逆らうことの出来ないという緊張と恐れがあって然るべきでした。そこでのロバの不可解な行動にも、何かあると気づけてよかったのです。しかし、それが出来なかった、と言うところにバラムの霊的な盲目さ、暗さが馬脚を現していたのです。
 バラクが何としてでもバラムを招き、イスラエルを呪わせたいと思ったぐらい、バラムは凄腕の呪術師だと思われていました。本当に神や霊と語り、呪うことが出来た魔術師というよりも、インチキや怪しげなことをして人々を誑かす者だったとしても、それは相当な策謀家でなければ出来なかったことです。バラクがバラムを何としてでも招きたいとしたための労力や出費は並大抵ではなかったでしょう。しかし、それほど頼みにされるような賢人バラムが、実は、ロバよりも愚かだった、という皮肉です 。そして、その目を塞(ふさ)ぎ、知恵を霞ませていたのは、彼の貪欲さだったのです。
 新約において、ペテロもユダも口を揃えて、バラムは利益を求めて何でもした、と非難します。「不義の報酬を愛したベオルの子バラム」と言われ、「利益のためにバラムの迷いに陥り」と言われるのです 。そして、バラムの行為は、他者に
「自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷なのです。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷なのです」
と言われるのですね。
 バラムは神々と語り、イスラエルの神の名が主であることにも通じていました。しかし、その心にあったのは、自分の利得、報酬を愛する貪りでした。パウロが言う通り、
 「むさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです」
だとすると、バラムはどんなに敬虔そうな言葉を語り、もっともらしく主の言葉の通りに従いますと見得を切ったところで、その心の目は瞑っており、総身の知恵もたかが知れる他なかったのです。出掛けるときは、主が告げたことだけを語ろうと思い定めていたかもしれませんが、何歩も進まないうちに、もう彼の心はバラクからの報酬がどれだけになるかの算盤(そろばん)を弾(はじ)きはじめていて、早く前に進もうとばかり考えていたのではないでしょうか。
 そういうバラムをも、主は窘めつつ、怒りつつ、民を祝福するための器としてお用いになります。呪いを祝福に変えられます。でもそれは、言わば「外側から」の制御です。主に逆らう人がどんなに悪事を企んでも、その悪意を損ね(あるいは叶えることさえして)主は御心を成し遂げられます 。しかし、主が御自身の民に向かわれるときはそのようではありません。私たちの心に偶像や罪を秘めたまま、ただ外側で摂理的に働かれて万事を益としてくださる-そういうおつもりではありません。主は、私たちの心を取り扱われ、新しくしようとなさってくださる。これは、生易しいことでは決してありませんし、そのただ中にあっては、私たちはあらん限りの力を振り絞って抵抗しようとさえしてしまう事ですけれども、しかし、そのようにして、天の父が私たちを御自身の子として真摯に訓練してくださることは、測り知れない慰めに違いありません。御自身の民には、内側にも働いて、心を新しくしてくださる。したくないと願うことをもさせる、よりも、したいと願うように変えてくださる、それが御自身の民に対するお取り扱いであり、御心である。それは、バラムにはない、民に許された確信なのです。
 私たちの中にも、様々な形で、主ならぬものを愛し、頼り、すがろうとする偶像があります。それがないと、怒り、絶望し、自分を捧げてしまうものは偶像です。神が、これほど大いなるお方であるのに、まだ自分が中心となり、神への感謝よりも自分の損得を考えて突き進もうとしていることがないでしょうか。口先だけではしおらしくても、ロバならぬ何かが警告を発してくれているのに、自分の握り締めているものを突き進めようとしていることが、地上にある限りはあるものなのです。主がそれに気づかせて、本当に主にある喜びと自由をもって歩ませてくださることは感謝に堪えません。

「今、主の聖晩餐に与ります。私共の心を主によって真実に養ってください。エマオ途上で主がパンを取って祝福し裂いて弟子達に渡されたとき、弟子達の目が開けました 。私共の目も開いてください。十字架に証しされた祝福の道を、一心に進ませてください。主の細き御声を聞き分ける、よき心をも保って、あなた様だけに従い行かせてください」


文末脚注

1 Ⅱペテロ二章「15彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。16 しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の狂った振舞いをはばんだのです。19 その人たちに自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷なのです。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷なのです。」、ユダ11「ああ。彼らはカインの道を行き、利益のためにバラムの迷いに陥り、コラのようにそむいて滅びました。」、黙示録二14「しかし、あなた[ペルガモ教会]には少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた。」
2 民数記三一8「彼ら[イスラエルの軍隊]はその殺した者たちのほかに、ミデヤンの王たち、エビ、レケム、ツル、フル、レバの五人のミデヤンの王たちを殺した。彼らはベオルの子バラムを剣で殺した。」、同16節「ああ、この女たちはバラムの事件のおり、ペオルの事件に関連してイスラエル人をそそのかして、主に対する不実を行わせた。それで神罰が主の会衆の上に下ったのだ。」 その他の旧約のバラム批判は、申命記二三4-5、ヨシュア記十三22。
3  「罪がもたらす大きな皮肉の一つは人間が人間以上に、つまり神のようになろうと努力するとき、人間以下になり下がってしまうということにあります。自分が自分の髪になり、自分の栄光と権力のために生きると、誰よりも獣のような残酷さを帯びた行動を生み出します。高慢は、あなたを人ではなく、人を食い物にする者にするのです。」(ティモシー・ケラー『偽りの神々 かなわない夢と唯一の希望』(廣橋麻子訳、いのちのことば社、2012年)160頁。ここでも、バラムにロバが語っていることは、バラムがロバと同列になっている、いいえ、ロバ以下になっている、という事実を語っているのです。
4 脚注1参照。
5 Ⅱペテロ書二19。
6 コロサイ書三5。
7 このような事例は聖書にも随所にあります。ですから、私たちは、誰かが「用いられ」ているからといって、それがその人の救いや信仰深さを保証すると考えてはなりません。例えば、申命記十三一-五、Ⅰサムエル記十九23-24、ヨハネ伝十一51-52、マルコ伝九38-39、使徒十九13-16など。
8 ルカ伝二四30-31。バラムの目が開けたのは、自分の非を(渋々ではあっても)認めたときでした。

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