2013/01/20 ローマ書八5-8「御霊に従う者」
エレミヤ書四二章 詩篇六三篇
肉と御霊、という対比が何度も出て来ます。ローマ書の特徴的な表現ですが、前回も申しましたように、ここで言う「肉」とは、文字通りの「肉体」とか「物質」という意味ではありません。また、肉体の欲望が汚らわしく忌むべきものだ、という意味でもありませんし、広く道徳的な悪全般を指しているわけでもありません。その人自身としては真面目に正しく生きようとしているとしても、神から離れたまま、その正しさを果たそうとする。そのような、根本において神から離れて、自分が中心になっている生き方を、「肉」と呼んでいるのです。
「 5肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。」
神に背を向けたまま、自分の考え、願い、欲、そうしたものに従って生きる者は、自分のことしか考えません。そこから、結局は、あらゆる罪や汚れが出てこないわけには行かないのです。それをパウロは、結局は「死」だと言い切ります。
「 6肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」
この、5節の「もっぱら考えます…ひたすら考えます」という言葉も、6節の「思い」という名詞も、同じギリシャ語の動詞形と名詞形です。これは、後の十四6では、「(日を)守る」とある言葉で 、マタイ十六23では、イエス様がペテロに、
「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」
と叱りつけた言葉でもあります。新共同訳で「重んじる」「評価する」「うぬぼれる」などと訳されています。肉に従う者が重んじること、肩入れをして、過大に評価していることは、肉的なことであり、最後には死に至ること、いのちなる神に背くことでしかありません。神のことを思わないわけではないけれど、大事にしているのは、肉のこと、自分のことなのです。御霊によって導かれるところでは、いのちと平安だと言いますが、肉に導かれるのは死であり、平和を捨ててでも自分の思いを貫こうという思いでしかないのです。
「 7というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」
肉に導かれてある限り、根本的な性質上、神に対して反抗するし、神の律法に服従しようとはしない、いや出来ないのです。
「 8肉にある者は神を喜ばせることができません。」
肉にある者がどんなに真面目に一生懸命に、立派な生き方をしたとしても、社会では絶賛されて、歴史に名を残すこともあるかも知れないとしても、神を喜ばせることはない、と言われます。それは、その人の根本的な願いが、神に向いていないからです。神を、天地万物の主であり、永遠のお方である神を本当に思うなら、神に相応しく、恐れ畏(かしこ)んで、思わずにはおれないものです。しかし、「肉にある者」は、自分が中心です。神様も、自分の脇役とか、人生の引き立て役だとしか考えようとしません。それが「肉」という表現の指すものだからです。ですから、神を神とするという根本がないのですから、神を喜ばせることは出来ないのです。
けれども、何度も申していますように、これは、私たちに対して、「あなたがたは肉に従っていませんか。肉の思いを持っている限り、神を喜ばせることは出来ませんよ。肉に従うのではなく、神に従いなさい」と命じたり警告したりしているのではないのですね。パウロは八章でも命令や勧告は一切していないのです。言っているのは事実であり、これを知ってほしい、というのがパウロの願いです。
「 1こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」
そう歌い上げて始まった八章です。そのことを頭に入れておいていただきたいのです。 「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してない、という驚くべき宣言、文字通りの「福音」を語っているのです。4節でもハッキリと、
「肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たち」
と言っていたのです。キリスト者は、「肉に従う者」ではなく「御霊に従う者」である。そうパウロは言っているのです。私たちキリスト者は、自分が「まだまだ御霊に従わず、肉に従っているなァ。御霊に属することよりも、肉的なことばかり考えているなァ。神を喜ばせることが出来ていないなァ」などと考えてはいけないのです。それよりも、神が私たちを、御霊にある者としてくださった。
「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」
と言われたとおり、私たちはキリスト・イエスにある者、御霊にある者である。そう信じなさい、とパウロは言っているのです。
確かにまだまだ私たちは、肉的なことを考えることが多く、御霊に属すること、神の律法に服従することを考えるには貧しいものです。しかし、それが大事なのではありません。大事なのは、私たちが、キリスト・イエスにある者とされている、という事実であるのです。私たちのわざが第一なのではなく、神のみわざが第一に仰がれ、重んじられるべきなのです。そこに私たちの慰めも希望も生じるのです。
注意してください。私たちの中に、御霊の思いや肉の思いがある、とは言われていないのです。私たちの心の中に、善と悪が宿って葛藤している、悪を選んでしまう、そういう次元の話ではないのです。私たちが、御霊の中にある、ということです。神の大きな御手の中に私たちが既にある、ということです。また、「御霊に従う」とあるのも、私たちが御霊に従おうと名乗り出て、勝手に御霊に従おうとしたり、挫折して「もう無理だ」となったりする、そういうものではありません。まず、
「 2…キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放した…」
のです。まず、神が力強く働いてくださったのです。その導きによって、私たちが御霊に従うことも始まったのです。(ここでパウロが、七章後半の「私」「私」から、「あなた」に舵を切ったことにも気づきましょう。これは、「あなた」なのです。)神があなたを導かれたからこそ、あなたは御霊に従う者とされたのです。そして、いろいろな雑念(ざつねん)、煩悩(ぼんのう)が今なお根強く残ってはいるとしても、御霊に属することを重んじる、その素晴らしさを認める、結局は自分の欲や願いよりも、神様の御心がなりますようにと祈る者とされており、そうした信仰において成長を与えられているのです。いのちと平安を思う者としていただいているのです。そして、8節の裏を返せば、なんと神が私たちを喜んでくださっているのです。神を喜ばせることが出来る者とされている…。
「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。
救いの勇士だ。
主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、
その愛によって安らぎを与える。
主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」
この主の喜びの中に、私たちが今ある。私たちが神を喜ばせるようなわざをしたら、御霊にある者となる、のではないのです。神が喜んで、何の重んじるに値することのない私たちを、不思議にも、有り難くも、選んで救ってくださった。キリスト・イエスの贖いに与らせ、御霊に導かれる者としてくださった。私たちが今なお不十分で、失敗ばかりしているとしても、それでも神は私たちを喜んでくださって、養い育ててくださるのです。
そのことを踏まえた上で、私たちがますます御霊に従い、心の奥深くまで、生活の隅々にまで神様の恵みが染み渡るようにとの招きも語られます。恵みによって生かされているのですから、私たちもまた恵みに生きる。人を裁いたり、利用しようとしたりするのでなく、掛け値なしに愛するようにとの勧告も語られます。特に十四18には、互いの違いを踏みにじることをせず、本当に相手を生かそうとするよう勧める中で、
「このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。」
と言われます 。神様が、私たちをそのように成長させてくださる。御霊が私たちを導き、従わせ、御心に生きる者、神の恵みによって生活する者とならせてくださる。主の恵みの大きさに包まれている事実を知るときに、今まだ自己中心で人を傷つけてしまう肉的な私も、主の喜びを滲み出す者へと工事中なのだと信じさせていただくのです。
「いのちと平安を追い求める心は、小さいようでも、私共が御霊の中にあることのしるしであり、かけがえのない宝です。肉の思いはまだ大きくありますが、あなた様がこれを打ち砕いて、恵みの思いを育て、実らせてくださることを、ますます信じ、願わせてください。主の御愛とご計画の偉大さに捉えられているとの福音に安らがせてください」
文末脚注
1 他に、ローマ書では、十二3、16、十五5、名詞形で八27「御霊の思い」で出て来ます。名詞形は、新約聖書でもローマ書の四節だけで用いられています。
2 ゼパニヤ書三17。
3 他にも、Ⅰテサロニケ二4「私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。」、Ⅰテサロニケ書四1「終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。」などがあります。
エレミヤ書四二章 詩篇六三篇
肉と御霊、という対比が何度も出て来ます。ローマ書の特徴的な表現ですが、前回も申しましたように、ここで言う「肉」とは、文字通りの「肉体」とか「物質」という意味ではありません。また、肉体の欲望が汚らわしく忌むべきものだ、という意味でもありませんし、広く道徳的な悪全般を指しているわけでもありません。その人自身としては真面目に正しく生きようとしているとしても、神から離れたまま、その正しさを果たそうとする。そのような、根本において神から離れて、自分が中心になっている生き方を、「肉」と呼んでいるのです。
「 5肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。」
神に背を向けたまま、自分の考え、願い、欲、そうしたものに従って生きる者は、自分のことしか考えません。そこから、結局は、あらゆる罪や汚れが出てこないわけには行かないのです。それをパウロは、結局は「死」だと言い切ります。
「 6肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」
この、5節の「もっぱら考えます…ひたすら考えます」という言葉も、6節の「思い」という名詞も、同じギリシャ語の動詞形と名詞形です。これは、後の十四6では、「(日を)守る」とある言葉で 、マタイ十六23では、イエス様がペテロに、
「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」
と叱りつけた言葉でもあります。新共同訳で「重んじる」「評価する」「うぬぼれる」などと訳されています。肉に従う者が重んじること、肩入れをして、過大に評価していることは、肉的なことであり、最後には死に至ること、いのちなる神に背くことでしかありません。神のことを思わないわけではないけれど、大事にしているのは、肉のこと、自分のことなのです。御霊によって導かれるところでは、いのちと平安だと言いますが、肉に導かれるのは死であり、平和を捨ててでも自分の思いを貫こうという思いでしかないのです。
「 7というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」
肉に導かれてある限り、根本的な性質上、神に対して反抗するし、神の律法に服従しようとはしない、いや出来ないのです。
「 8肉にある者は神を喜ばせることができません。」
肉にある者がどんなに真面目に一生懸命に、立派な生き方をしたとしても、社会では絶賛されて、歴史に名を残すこともあるかも知れないとしても、神を喜ばせることはない、と言われます。それは、その人の根本的な願いが、神に向いていないからです。神を、天地万物の主であり、永遠のお方である神を本当に思うなら、神に相応しく、恐れ畏(かしこ)んで、思わずにはおれないものです。しかし、「肉にある者」は、自分が中心です。神様も、自分の脇役とか、人生の引き立て役だとしか考えようとしません。それが「肉」という表現の指すものだからです。ですから、神を神とするという根本がないのですから、神を喜ばせることは出来ないのです。
けれども、何度も申していますように、これは、私たちに対して、「あなたがたは肉に従っていませんか。肉の思いを持っている限り、神を喜ばせることは出来ませんよ。肉に従うのではなく、神に従いなさい」と命じたり警告したりしているのではないのですね。パウロは八章でも命令や勧告は一切していないのです。言っているのは事実であり、これを知ってほしい、というのがパウロの願いです。
「 1こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」
そう歌い上げて始まった八章です。そのことを頭に入れておいていただきたいのです。 「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してない、という驚くべき宣言、文字通りの「福音」を語っているのです。4節でもハッキリと、
「肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たち」
と言っていたのです。キリスト者は、「肉に従う者」ではなく「御霊に従う者」である。そうパウロは言っているのです。私たちキリスト者は、自分が「まだまだ御霊に従わず、肉に従っているなァ。御霊に属することよりも、肉的なことばかり考えているなァ。神を喜ばせることが出来ていないなァ」などと考えてはいけないのです。それよりも、神が私たちを、御霊にある者としてくださった。
「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」
と言われたとおり、私たちはキリスト・イエスにある者、御霊にある者である。そう信じなさい、とパウロは言っているのです。
確かにまだまだ私たちは、肉的なことを考えることが多く、御霊に属すること、神の律法に服従することを考えるには貧しいものです。しかし、それが大事なのではありません。大事なのは、私たちが、キリスト・イエスにある者とされている、という事実であるのです。私たちのわざが第一なのではなく、神のみわざが第一に仰がれ、重んじられるべきなのです。そこに私たちの慰めも希望も生じるのです。
注意してください。私たちの中に、御霊の思いや肉の思いがある、とは言われていないのです。私たちの心の中に、善と悪が宿って葛藤している、悪を選んでしまう、そういう次元の話ではないのです。私たちが、御霊の中にある、ということです。神の大きな御手の中に私たちが既にある、ということです。また、「御霊に従う」とあるのも、私たちが御霊に従おうと名乗り出て、勝手に御霊に従おうとしたり、挫折して「もう無理だ」となったりする、そういうものではありません。まず、
「 2…キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放した…」
のです。まず、神が力強く働いてくださったのです。その導きによって、私たちが御霊に従うことも始まったのです。(ここでパウロが、七章後半の「私」「私」から、「あなた」に舵を切ったことにも気づきましょう。これは、「あなた」なのです。)神があなたを導かれたからこそ、あなたは御霊に従う者とされたのです。そして、いろいろな雑念(ざつねん)、煩悩(ぼんのう)が今なお根強く残ってはいるとしても、御霊に属することを重んじる、その素晴らしさを認める、結局は自分の欲や願いよりも、神様の御心がなりますようにと祈る者とされており、そうした信仰において成長を与えられているのです。いのちと平安を思う者としていただいているのです。そして、8節の裏を返せば、なんと神が私たちを喜んでくださっているのです。神を喜ばせることが出来る者とされている…。
「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。
救いの勇士だ。
主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、
その愛によって安らぎを与える。
主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」
この主の喜びの中に、私たちが今ある。私たちが神を喜ばせるようなわざをしたら、御霊にある者となる、のではないのです。神が喜んで、何の重んじるに値することのない私たちを、不思議にも、有り難くも、選んで救ってくださった。キリスト・イエスの贖いに与らせ、御霊に導かれる者としてくださった。私たちが今なお不十分で、失敗ばかりしているとしても、それでも神は私たちを喜んでくださって、養い育ててくださるのです。
そのことを踏まえた上で、私たちがますます御霊に従い、心の奥深くまで、生活の隅々にまで神様の恵みが染み渡るようにとの招きも語られます。恵みによって生かされているのですから、私たちもまた恵みに生きる。人を裁いたり、利用しようとしたりするのでなく、掛け値なしに愛するようにとの勧告も語られます。特に十四18には、互いの違いを踏みにじることをせず、本当に相手を生かそうとするよう勧める中で、
「このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。」
と言われます 。神様が、私たちをそのように成長させてくださる。御霊が私たちを導き、従わせ、御心に生きる者、神の恵みによって生活する者とならせてくださる。主の恵みの大きさに包まれている事実を知るときに、今まだ自己中心で人を傷つけてしまう肉的な私も、主の喜びを滲み出す者へと工事中なのだと信じさせていただくのです。
「いのちと平安を追い求める心は、小さいようでも、私共が御霊の中にあることのしるしであり、かけがえのない宝です。肉の思いはまだ大きくありますが、あなた様がこれを打ち砕いて、恵みの思いを育て、実らせてくださることを、ますます信じ、願わせてください。主の御愛とご計画の偉大さに捉えられているとの福音に安らがせてください」
文末脚注
1 他に、ローマ書では、十二3、16、十五5、名詞形で八27「御霊の思い」で出て来ます。名詞形は、新約聖書でもローマ書の四節だけで用いられています。
2 ゼパニヤ書三17。
3 他にも、Ⅰテサロニケ二4「私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。」、Ⅰテサロニケ書四1「終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。」などがあります。