2013/02/03 民数記二三章「祝福はくつがえせない」
詩篇一一五篇 マタイ伝六5-15
この民数記二三章は、二二章から二四章まで続いている、モアブの王バラクと呪術師バラムとのエピソードの真ん中に当たります。ですから、二二章のおさらいをしておきましょう。エジプトから出て来たイスラエルの民、数十万は、四〇年の放浪を終えて、いよいよ約束の地に入ろうとしています。最後に、ヨルダン川の対岸、モアブの草原に宿営を張って、備えたと二二章の頭にありました。これを脅威としたモアブの王は、神頼みを思いつき、ひとりの呪術師、バラムを呼び寄せます。二二章では、バラムがイスラエルの民を呪うことは、神の御心ではない、ということを示す出来事が続きましたが、そのような出来事を経て、バラクの所に辿り着いたバラムが、いよいよイスラエルの民を前にして、さて何を言うか、というのが今日の二三章、そして次の二四章です。
今、一度読んでお分かりかと思いますが、結果的にバラムはイスラエルの民を呪うことは出来ませんでした。次の二四章と合わせて、四度、バラムは神から授かった祝福の言葉を述べます。もちろん、それは、バラムの霊力によって実際にイスラエルが何かの祝福(御利益とか恩恵)を授かった、という意味ではありませんし、神がご自身の民を祝福されるのにバラムの力を借りた(借りなければならなかった)ということでもありません。モアブの王は、バラムの力でイスラエルを呪おうとしましたが、それは神の御心ではなく、神がイスラエルを祝福されることこそが神の御心であり、それがどれほど豊かな祝福であるか、がバラムの口を通して、モアブの王たちに対して明らかにされた、ということに他なりません。
そのような、二つの「祝福」が二三章にあるわけですが、キディという注解者が、この内容をまとめているものをお借りして、簡単に見ておきましょう 。7節から10節の、第一の託宣では、次の四つのことが言われているとキディは言います。一、神はイスラエルを呪われない。(それゆえ、バラムが彼らを呪うことは不可能です)。二、神はイスラエルを「ひとり離れて住む」民として区別されている。(諸国の中にあって、イスラエルは神との特別(ユニーク)な関係を与えられています。)三、神はイスラエルを明らかな力をもって祝福される。四、神はイスラエルをご自身の契約の民とされている。(彼らの性格と運命は、恵みの契約によって、主に結びつけられています)。」だからバラムは、イスラエルの民の先行きまでも主の契約に守られていることを見やって、「10私は正しい人が死ぬように死に、私の終わりが彼らと同じであるように。」と言うのです。
また、18節から24節の、第二の言葉の内容をキディはこう纏めます。「一、神はご自身の約束を守られる。(神がバラムにモアブへ行く事を許したのも、御心が変わったためではなく、御心の変わらないことを示すためであったのです。)二、神はご自身の民を守られる。(神のイスラエルに対する約束の言葉は、彼らのための歴史においてその全能のみわざによって保たれてきました)。三、神は御民にご自身を現し続けられる。(23節は未来形です。「神のなさることは、時に応じてヤコブに告げられることになり、イスラエルに告げられることになっている。」)、四、神は御民が敵を破るのに必要な力をお与えになる。(24節「見よ。この民は雌獅子のように起き、雄獅子のように立ち上がり、獲物を食らい、殺した者の血を飲むまでは休まない」)」
つまり、モアブやカナンの民の王たちがイスラエルと戦おうとしても、決して勝つことは出来ず、百獣の王の餌食となる他ない、と言っているのですね。このような、確かで豊かな祝福が、バラムを通して明らかになるのです。
「19神は人間ではなく、偽りを言うことがない。
人の子ではなく、悔いることがない。
神は言われたことを、なさらないだろうか。
約束されたことを成し遂げられないだろうか。」
との言葉も、バラムがバラクに突き付けた言葉です。
しかし、それ程までの祝福を、確かな御心を、念には念を入れて示されても尚、何とかして民を呪えるのではないか、と考える、モアブの王バラクの姿もまた、この章で強烈に印象づけられることではないでしょうか。神が祝福する、と言われるのに、場所を変え、生贄を捧げ、
「27…もしかしたら、それが神の御目にかなって、あなたは私のために、そこから彼らをのろうことができるかもしれません。」
と、藁(わら)にも縋(すが)ろうとするのです。
いいえ、イエス様は先ほどのマタイ六章で言われていました。
「マタイ六7また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。」
異邦人の祈り。バラクとバラムの祈りはまさに「異邦人の祈り」です。言葉数が多いこと、祈る人間の側の熱心や繰り返し、数によって、神を拝み倒せると考えます。バラムは結果的には祝福だけを述べ、呪うことはしません。しかし、七つの祭壇と、七頭の雄牛と七頭の雄羊の生贄を三度も捧げさせ 、それを、
「 3…あなた[バラク]の全焼のいけにえ…」
と呼んでいるところには、バラクが捧げる高価な生贄によって、神の心を変えさせることも出来るのではないか、と当て込んでいた気持ちが覗いて見えます。七という完全数をくり返しているのも、雄牛と雄羊という最高級の生贄を捧げたのも、結局は神のご機嫌を伺うためでした 。また、28節の「ペオルの頂上」以外、あとの二つが精確にどこであったのかは分からないのですが 、草原に広がるイスラエルの民を、違う角度から見るためにはかなり移動しなければならなかった筈です。しかし、それだけの移動も、
「神の御目にかなって、…のろうことができるかもしれません」
という下心になっていたのです。
主の御心は、動かない祝福です。私たちにとってそれは本当に感謝な、素晴らしく、慰めに満ちた真理です。しかし、それが自分のことであればよくても、他の人、取り分け自分と利害が衝突する人や、感情的に受け入れがたい人であったら、神がその人を祝福されると言われても、苛立ち、妬み、否定し、変更を願い出て、聞いてもらえるのではないか、と思う所があるのではないでしょうか。敵の不幸にほくそ笑み、自分の損得をいつも数えている。けれども、主の御心は他者を呪わない、というだけでなく、祝福を願い、祈る(勿論それは、全焼のいけにえの思いをもって、心底から、です)。そのために、自分が現状を手放さざるを得なくなろうと、傷つかなければならないとしても、主の祝福を運ぶことです。それを望まず、自分の思いをあくまでも握り締めようとするのであれば、そのような頑なさ、主の御心に対して心を閉ざしてしまう問題と、確り向き合わなければなりません 。この箇所にこういう説明書きがありました。
「バラクはバラムを幾つかの場所に連れて行き、イスラエル人たちをのろうよう、誘い出した。彼は、景色を変えれば、バラムの心情が変わるかもしれないと思ったのだ。しかし、場所を変えたところで、神の御心は変わらない。私たちは、自分の問題の原因と向き合うことを学ばなければならない。問題から逃げることは、解決することをより難しくするだけである。私たちの中に根づいた問題の数々は、景色を変えることによっては解決されないのである。私たちの心を変えることが必要なのに、場所や仕事だけを変えることによって、逆に、私たちの心がかき乱されることもある。」
いくら場所を変え、やり方を変えても、形の上での礼拝は完全で惜しみなく敬虔そうであったとしても、その心には、自分がしたいようにしたい、神の祝福の定めをも自分の願いに融通を利かせて欲しい、そんな思いが深く取り扱われ、変えられるまでは、何の解決にもならないのです。
二二章でバラムが乗ってきたロバがしゃべった、というエピソードがありましたが、先のキディは、ここで面白いことを言っています。「私たちはこの部分を、バラムの託宣と呼ぶことがあるが、バラムという、気乗りのしない、神の代弁者によって語られた、神の託宣、というのが事実である。バラムは「神のロバ」であって、神の言葉をモアブに運ばざるを得なかったのである。」 ならば、私たちも祝福を運ばせていただきましょう。イエス様をお乗せしたロバの子を思いだし、小さいながらも、微力ながらも、私たちが謙り、主の祝福を運べるように祈りましょう。怒り憎み、赦せない、自分の頑固なエゴは、ロバ以下の愚かな思いだと弁えて、主の祝福の御心に自分を従わせましょう。主が私たちを、恵みの御心に沿って生きる者へと祝福してくださいますように。
「祝福の主が私共の心を開いて、すべての呪わしい思いから、強いてでも救い出してください。あなた様が示された、祝福の定めを受け入れさせてください。上辺ばかりの敬虔さの下に隠した、人への非難、赦すまいとする自分の心を誤魔化しませんよう。あなた様の、永遠からの祝福によって、卑しい心を日々新しくされたいと願わせてください」
文末脚注
1 Keddie, p. 159.
2 1-2節、14節、29-30節。
3 ウェンナムの注解より抜粋「神聖数の七。(天地創造は七日間かかった。一年の第七の月は宗教的祭儀で満ちていた。七年目と五十年目(七×七+一)も特別な意味があった。七頭、あるいは十四頭の子羊が、主要な祭りの時にささげられた(民数28・19、27、29・4、13、17以下)。雄牛と雄羊、最も高価な生贄。それを全焼のいけにえとすることは、神に対する最高の(外見上は)ささげ物であった。バビロニアの粘土板にも酷似した記述あり。)」そこに明らかなように、七という完全数の繰り返しが、自分の願いの保証として用いられるに過ぎない。神への媚びであり、神を操作しようとしての完全な生贄である。イスラエルの神はそのような「完全」を望まれない。外見が整っていても、心に神への恐れがなければ、神は退けられる。
4 第一の箇所、二二40「バモテ・バアル」は「バアルの高き所(つまり祭儀場)の意で、アバリム山脈の東側面に位置するはずであるが、その地点は確定出来ない。」 第二の箇所、二三14「セデ・ツォフィム」「見張り人の野原」の意。「ピスガの頂」は、特定の地名ではなく、アバリム高地に属する小高い丘を指す。ちなみに、モーセが死んだネボ山はその最高峰の一つである(申32:49)」。 第三の場所「ベオルの頂上」は「モアブの神ペオルの聖所があった場所で、シティムの南東約4kmにある小丘と思われる。」(ウェンナム)
5 マタイの話の続きは、「だからあなたがたは祈るとき、このように祈りなさい」と「主の祈り」を教えられますが、その後に加えて、「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」となります。8節で「あなたがたに必要なものをご存じ」と言われた主がこのように教えておられるということは、私たちにとって、「日ごとの糧」と同じぐらい、人の罪を赦すということが必要であるからに他なりません。異邦人の祈りは、他者を赦そうなどとしない祈りです。しかし、主の民の祈りは、赦さない心と戦う祈りです。
6 『BIBLEnavi』(いのちのことば社、2012年)241頁。
7 Gordon J. Keddie, According to promise: The message of the book of Numbers, Evangelical Press, 1997, p.158.
詩篇一一五篇 マタイ伝六5-15
この民数記二三章は、二二章から二四章まで続いている、モアブの王バラクと呪術師バラムとのエピソードの真ん中に当たります。ですから、二二章のおさらいをしておきましょう。エジプトから出て来たイスラエルの民、数十万は、四〇年の放浪を終えて、いよいよ約束の地に入ろうとしています。最後に、ヨルダン川の対岸、モアブの草原に宿営を張って、備えたと二二章の頭にありました。これを脅威としたモアブの王は、神頼みを思いつき、ひとりの呪術師、バラムを呼び寄せます。二二章では、バラムがイスラエルの民を呪うことは、神の御心ではない、ということを示す出来事が続きましたが、そのような出来事を経て、バラクの所に辿り着いたバラムが、いよいよイスラエルの民を前にして、さて何を言うか、というのが今日の二三章、そして次の二四章です。
今、一度読んでお分かりかと思いますが、結果的にバラムはイスラエルの民を呪うことは出来ませんでした。次の二四章と合わせて、四度、バラムは神から授かった祝福の言葉を述べます。もちろん、それは、バラムの霊力によって実際にイスラエルが何かの祝福(御利益とか恩恵)を授かった、という意味ではありませんし、神がご自身の民を祝福されるのにバラムの力を借りた(借りなければならなかった)ということでもありません。モアブの王は、バラムの力でイスラエルを呪おうとしましたが、それは神の御心ではなく、神がイスラエルを祝福されることこそが神の御心であり、それがどれほど豊かな祝福であるか、がバラムの口を通して、モアブの王たちに対して明らかにされた、ということに他なりません。
そのような、二つの「祝福」が二三章にあるわけですが、キディという注解者が、この内容をまとめているものをお借りして、簡単に見ておきましょう 。7節から10節の、第一の託宣では、次の四つのことが言われているとキディは言います。一、神はイスラエルを呪われない。(それゆえ、バラムが彼らを呪うことは不可能です)。二、神はイスラエルを「ひとり離れて住む」民として区別されている。(諸国の中にあって、イスラエルは神との特別(ユニーク)な関係を与えられています。)三、神はイスラエルを明らかな力をもって祝福される。四、神はイスラエルをご自身の契約の民とされている。(彼らの性格と運命は、恵みの契約によって、主に結びつけられています)。」だからバラムは、イスラエルの民の先行きまでも主の契約に守られていることを見やって、「10私は正しい人が死ぬように死に、私の終わりが彼らと同じであるように。」と言うのです。
また、18節から24節の、第二の言葉の内容をキディはこう纏めます。「一、神はご自身の約束を守られる。(神がバラムにモアブへ行く事を許したのも、御心が変わったためではなく、御心の変わらないことを示すためであったのです。)二、神はご自身の民を守られる。(神のイスラエルに対する約束の言葉は、彼らのための歴史においてその全能のみわざによって保たれてきました)。三、神は御民にご自身を現し続けられる。(23節は未来形です。「神のなさることは、時に応じてヤコブに告げられることになり、イスラエルに告げられることになっている。」)、四、神は御民が敵を破るのに必要な力をお与えになる。(24節「見よ。この民は雌獅子のように起き、雄獅子のように立ち上がり、獲物を食らい、殺した者の血を飲むまでは休まない」)」
つまり、モアブやカナンの民の王たちがイスラエルと戦おうとしても、決して勝つことは出来ず、百獣の王の餌食となる他ない、と言っているのですね。このような、確かで豊かな祝福が、バラムを通して明らかになるのです。
「19神は人間ではなく、偽りを言うことがない。
人の子ではなく、悔いることがない。
神は言われたことを、なさらないだろうか。
約束されたことを成し遂げられないだろうか。」
との言葉も、バラムがバラクに突き付けた言葉です。
しかし、それ程までの祝福を、確かな御心を、念には念を入れて示されても尚、何とかして民を呪えるのではないか、と考える、モアブの王バラクの姿もまた、この章で強烈に印象づけられることではないでしょうか。神が祝福する、と言われるのに、場所を変え、生贄を捧げ、
「27…もしかしたら、それが神の御目にかなって、あなたは私のために、そこから彼らをのろうことができるかもしれません。」
と、藁(わら)にも縋(すが)ろうとするのです。
いいえ、イエス様は先ほどのマタイ六章で言われていました。
「マタイ六7また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。」
異邦人の祈り。バラクとバラムの祈りはまさに「異邦人の祈り」です。言葉数が多いこと、祈る人間の側の熱心や繰り返し、数によって、神を拝み倒せると考えます。バラムは結果的には祝福だけを述べ、呪うことはしません。しかし、七つの祭壇と、七頭の雄牛と七頭の雄羊の生贄を三度も捧げさせ 、それを、
「 3…あなた[バラク]の全焼のいけにえ…」
と呼んでいるところには、バラクが捧げる高価な生贄によって、神の心を変えさせることも出来るのではないか、と当て込んでいた気持ちが覗いて見えます。七という完全数をくり返しているのも、雄牛と雄羊という最高級の生贄を捧げたのも、結局は神のご機嫌を伺うためでした 。また、28節の「ペオルの頂上」以外、あとの二つが精確にどこであったのかは分からないのですが 、草原に広がるイスラエルの民を、違う角度から見るためにはかなり移動しなければならなかった筈です。しかし、それだけの移動も、
「神の御目にかなって、…のろうことができるかもしれません」
という下心になっていたのです。
主の御心は、動かない祝福です。私たちにとってそれは本当に感謝な、素晴らしく、慰めに満ちた真理です。しかし、それが自分のことであればよくても、他の人、取り分け自分と利害が衝突する人や、感情的に受け入れがたい人であったら、神がその人を祝福されると言われても、苛立ち、妬み、否定し、変更を願い出て、聞いてもらえるのではないか、と思う所があるのではないでしょうか。敵の不幸にほくそ笑み、自分の損得をいつも数えている。けれども、主の御心は他者を呪わない、というだけでなく、祝福を願い、祈る(勿論それは、全焼のいけにえの思いをもって、心底から、です)。そのために、自分が現状を手放さざるを得なくなろうと、傷つかなければならないとしても、主の祝福を運ぶことです。それを望まず、自分の思いをあくまでも握り締めようとするのであれば、そのような頑なさ、主の御心に対して心を閉ざしてしまう問題と、確り向き合わなければなりません 。この箇所にこういう説明書きがありました。
「バラクはバラムを幾つかの場所に連れて行き、イスラエル人たちをのろうよう、誘い出した。彼は、景色を変えれば、バラムの心情が変わるかもしれないと思ったのだ。しかし、場所を変えたところで、神の御心は変わらない。私たちは、自分の問題の原因と向き合うことを学ばなければならない。問題から逃げることは、解決することをより難しくするだけである。私たちの中に根づいた問題の数々は、景色を変えることによっては解決されないのである。私たちの心を変えることが必要なのに、場所や仕事だけを変えることによって、逆に、私たちの心がかき乱されることもある。」
いくら場所を変え、やり方を変えても、形の上での礼拝は完全で惜しみなく敬虔そうであったとしても、その心には、自分がしたいようにしたい、神の祝福の定めをも自分の願いに融通を利かせて欲しい、そんな思いが深く取り扱われ、変えられるまでは、何の解決にもならないのです。
二二章でバラムが乗ってきたロバがしゃべった、というエピソードがありましたが、先のキディは、ここで面白いことを言っています。「私たちはこの部分を、バラムの託宣と呼ぶことがあるが、バラムという、気乗りのしない、神の代弁者によって語られた、神の託宣、というのが事実である。バラムは「神のロバ」であって、神の言葉をモアブに運ばざるを得なかったのである。」 ならば、私たちも祝福を運ばせていただきましょう。イエス様をお乗せしたロバの子を思いだし、小さいながらも、微力ながらも、私たちが謙り、主の祝福を運べるように祈りましょう。怒り憎み、赦せない、自分の頑固なエゴは、ロバ以下の愚かな思いだと弁えて、主の祝福の御心に自分を従わせましょう。主が私たちを、恵みの御心に沿って生きる者へと祝福してくださいますように。
「祝福の主が私共の心を開いて、すべての呪わしい思いから、強いてでも救い出してください。あなた様が示された、祝福の定めを受け入れさせてください。上辺ばかりの敬虔さの下に隠した、人への非難、赦すまいとする自分の心を誤魔化しませんよう。あなた様の、永遠からの祝福によって、卑しい心を日々新しくされたいと願わせてください」
文末脚注
1 Keddie, p. 159.
2 1-2節、14節、29-30節。
3 ウェンナムの注解より抜粋「神聖数の七。(天地創造は七日間かかった。一年の第七の月は宗教的祭儀で満ちていた。七年目と五十年目(七×七+一)も特別な意味があった。七頭、あるいは十四頭の子羊が、主要な祭りの時にささげられた(民数28・19、27、29・4、13、17以下)。雄牛と雄羊、最も高価な生贄。それを全焼のいけにえとすることは、神に対する最高の(外見上は)ささげ物であった。バビロニアの粘土板にも酷似した記述あり。)」そこに明らかなように、七という完全数の繰り返しが、自分の願いの保証として用いられるに過ぎない。神への媚びであり、神を操作しようとしての完全な生贄である。イスラエルの神はそのような「完全」を望まれない。外見が整っていても、心に神への恐れがなければ、神は退けられる。
4 第一の箇所、二二40「バモテ・バアル」は「バアルの高き所(つまり祭儀場)の意で、アバリム山脈の東側面に位置するはずであるが、その地点は確定出来ない。」 第二の箇所、二三14「セデ・ツォフィム」「見張り人の野原」の意。「ピスガの頂」は、特定の地名ではなく、アバリム高地に属する小高い丘を指す。ちなみに、モーセが死んだネボ山はその最高峰の一つである(申32:49)」。 第三の場所「ベオルの頂上」は「モアブの神ペオルの聖所があった場所で、シティムの南東約4kmにある小丘と思われる。」(ウェンナム)
5 マタイの話の続きは、「だからあなたがたは祈るとき、このように祈りなさい」と「主の祈り」を教えられますが、その後に加えて、「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」となります。8節で「あなたがたに必要なものをご存じ」と言われた主がこのように教えておられるということは、私たちにとって、「日ごとの糧」と同じぐらい、人の罪を赦すということが必要であるからに他なりません。異邦人の祈りは、他者を赦そうなどとしない祈りです。しかし、主の民の祈りは、赦さない心と戦う祈りです。
6 『BIBLEnavi』(いのちのことば社、2012年)241頁。
7 Gordon J. Keddie, According to promise: The message of the book of Numbers, Evangelical Press, 1997, p.158.