聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/12/19 ルカ伝1章26~38節「神に不可能はありません」

2021-12-18 12:55:59 | クリスマス
2021/12/19 ルカ伝1章26~38節「神に不可能はありません」

 クリスマス、イエス・キリストの誕生の出来事は、聖書の四つの福音書が全て記している訳ではありません。マルコとヨハネの福音書ではキリストの誕生は端折っています。ルカは1章と2章、七頁にも亘って詳しく、母マリアに御使いが現れた受胎告知やベツレヘムの羊飼いの事などを伝えています。いくつもの歌がこのルカの記事から造られて、今も歌われています。
 この舞台となるのは「ガリラヤのナザレ」という町。都エルサレムから遠く離れた、北の田舎の目立たない村でした。その村の娘の一人がマリア[1]。そのマリアの所に御使いが来て、

28…「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
29しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。

 勿論、御使いの登場そのものにも驚いたでしょうし、「恵まれた方。主があなたとともにおられます」との言葉にも戸惑ったろうと想像するのです。すると、御使いは彼女に言います。

30…恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。31見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。32その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。33彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」

 これは聖書の中の長い歴史で、ずっと悲願とされてきた方です。待ちに待っていた、よい王がいよいよ来る。それは当時、マリアも含めて多くの人が、待ち望んでいた約束の出来事です。しかし、マリアはその約束の王の到来はともかく、自分がその母になることには躊躇(ためら)います。

34…「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」

 母になると言われても、許嫁の状態でまだ同衾していないし、それで子を宿す話など聞いたことがありません。それだけでなく他にも沢山の疑問や戸惑いがあったでしょう。これに、御使いは、半年前のエリサベツの奇蹟的な懐妊の出来事を思い起こさせて応えます[2]。勿論、高齢の夫婦が子を宿すのと、処女のマリアが子を宿すことは全然違うことでもあります。でも御使いは、エリサベツの懐妊が
「神にとって不可能なことは何もありません」
という証だと言います。そして、この御使いの言葉に、マリアは十分として応えるのです。

38…「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。

 新改訳2017の欄外注には、37節の「不可能なこと」は

「「語られたことば」あるいは「語られた事柄」の意」

とあって、38節の「あなたのおことばどおり」とある同じ語です[3]。ですから、神が仰る言葉に何も不可能はない、という事で、私たち人間が神に要求するどんなことでも神には不可能では無い、ということではありません[4]。しかも、その神の仰った言葉とは、どんな事でしょうか。もし私やあなたが不可能のない力を与えられたらどんな使い方をするでしょう。いや、現に今も、世界の国々や支配者は、自分の願望を達成しようと競争しています。その足元で、貧しい国や追いやられた人々との格差が開くばかりです。しかし、本当に不可能はない神は、その力をご自分が最も低くなるために使われました。そして、都に住む美しく敬虔な女性ではなく、田舎娘で自分自身の肩書きを持たない少女マリアを選ばれて、その胎に宿ったのです。
 そして、生まれた時、居場所はなく、飼葉桶。最初にその誕生を知らされたのは、統計の数にも入らない羊飼いたちでした。それが、クリスマスが示すメッセージです。生まれたイエスは王であると共に、どんな王であるか、私たちの考えをひっくり返すメッセージです。その後の生涯でもイエスは、罪人や後ろ暗い過去ある女性、放蕩息子、嫌われ者の金持ち、裏切る弟子たちの側に立たれました。最後の十字架でも、処刑に終わる人生を送った強盗の友となり、死なれました。
 その三日目、イエスはよみがえって天に昇り、今も天の御座で、永久に私たちを治めておられます。地の低い一人一人を「恵まれた者」としてくださるのです。[5]

 それでも、世界には問題が溢れています。世界を左右しているのは、富豪や政治家、あるいはウイルスや偶然のようにも思いたくなります。ルカや福音書の記事でも、キリストの誕生後、周囲が大きく変化してはいません。一時的に驚き、熱狂しても、直ぐに冷めてしまう。でもそんな世界の中で、誰にも気づかれない密かな所で、小さくイエスの支配は始まっていました。田舎の少女の部屋で、その幼い胎の中で、ベツレヘムの馬小屋で、遠い東の国の博士たちの研究室で。闇の中に点ったような希望の光が、小さくて、闇を吹き飛ばしはしなくても、闇に消されることも決してなく、喜びと希望を点し続けて、確かにそれは広がっていきました。そして、そのキリストの光が、私たちにも届けられています。神の子キリストが私のためにお生まれになり、その不思議な支配を初め、私の中にもそれを始めていてくださる。[6]

 インドで死にゆく貧しい人々を助けたマザー・テレサは「あなたがしていることは大海の一滴に過ぎないのではないか」と質問されて「その一滴を止めたら、海から一滴分、水が減ってしまうのです」と応えたと聞いたことがあります[7]。クリスマスは、まさに、神が一人一人の王となってくださった出来事です。そのためにご自身が小さくなり、最後は十字架にいたる生涯をも厭わなかったのです。その言葉を、私たちはマリアとともに、私たちへの言葉として聞くのです。
「おめでとう、恵まれた方」
という言葉も、
「神にとって不可能なことは何もありません」
も、私たちを代表したマリアへの言葉です。この方の謙りに、私たちの生き方、願いをひっくり返されます。この方の言葉を、今この時、私たちへの言葉として聞くのです。そして、私たちも

「私は主のものです。お言葉通り、この身になりますように」

と言うのです。

「大いなる主よ、あなたの言葉には不可能はありません。あなたの御支配も世界の回復も、私たちの救いと新しいいのちも。あなたご自身が私たちへの捧げ物となってくださったからです。今あなたの飼葉桶と十字架を想って謙り、あなたを褒め称えます。「おめでとう、恵まれた者」との言葉を戴きます。この周囲でどんなに嵐が吹いても、力を競う声が誇り叫んでいても、あなたが私たちとともにいます。その喜びに支えられる幸いを、私たちの力としてください」


脚注:

[1] 「ダビデの家系のヨセフという人の許嫁」とあり、当時の結婚年齢が12歳ぐらいで、マリアもその年頃だったのでしょう。

[2] 35御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。36見なさい。あなたの親類エリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六ヶ月です。37神にとって不可能なことは何もありません。」

[3] ギリシャ語「レーマ」。

[4] 確かに、この大きく、不思議な世界を創造された神には不可能はないでしょう。でも、その何でも出来る神が、そこに生きる小さな星の人間、それもご自分に背いた人間に対するにも、いくらでも他に方法はあったかも知れません。そもそもご自分に背かないような世界を創ることだって出来たでしょう。背いた人間など放っておいて、もっといい世界を始めることだって出来る。せめて、その支配者として人間が望むような王を送ることも出来る。しかし、神はそんな自分の手を汚さず、痛みも少ない方法を採るよりも、違う形で「いと高き方の力」を現すことを選ばれました。神の子イエスご自身が、この星の人間となり、聖霊によって一人の女性の胎に宿るという方法を選ばれました。他にいくらでも方法はあるだろう、不可能はない方が、ご自身がマリアの胎に宿るという形でこの世界に来られました。

[5] この世界の、人間の計算とか思惑とか、もし力があればとんでもない事に使うことを思いつきかねないこの世界の大きな流れの中で、神のよい御支配を信頼する人々、この私たちのために自ら謙ってともに宿り、私たちをも神のこどもとし、神の業を生み出す者としてくださると仰る言葉を受け入れる人々がいます。私たちも、その一人です。

[6] 「そこでルカは、驚くべきことを告げます。神はその宝物を、その時代のあらゆる場所の中で最も弱く、最も小さく思われる場所――女性の子宮――にお預けになった、と。…きっとルカは、わたしたちに知らせたかったのです。福音という宝物は、いつの日か、みずからの力によってこの地を満たすものではあるが、最初は弱くて無力な場所にいる者たちの中に、その宝物を最も待ち焦がれ、その宝物に最も深く飢え渇き、それゆえ、それを最も信じて大切にすることの出来る者たちの中に植え付けられなければならない、ということを。…神が今ここにいてくださる、という驚くべき出来事が突然起こる場所は、わたしたちの人生やこの世界の弱い場所であることがとても多いのです。そして、まさにそのようなところこそ神が宝物を置く場所である、ということそれ自体が、福音の一部でもあります。」、トマス・G・ロング『何かが起ころうとしている アドヴェント・クリスマス説教集』、(平野克己、笠原信一訳、教文館、2010年)、84~87頁。

[7] 「私たちのしていることは、大海の一滴にしか過ぎないかもしれません。しかしもし私たちの誰かがこの活動を辞めてしまったなら、大海の水は確実に一滴減ってしまうのです。私たちは弱気になってはならないのです。勇気を失ったり、不幸になってもいけないのです。もちろん、イエスのために活動しているわけですから、そのようになることなどありえません。全世界に向けて、私たちは活動していきたいのです。全世界・・・・・。なんて壮大で力強い響きでしょう。貧しい人々は無数に存在します。しかし私たちはそれぞれ、一度に一人のことしか考えることができません。一度に一人の人には奉仕できるのです。その一人とは・・・そう、それはイエスです。貧しい人に食べ物を与えてあげれば、その人はきっとこういうでしょう。「私はとてもおなかが空いていたのです。あなたは私を元気づけてくれました」と。それはイエスの言葉でもあるのです。イエスはたった一人です。私は貧しい人々の言葉をイエスの言葉として受け止めてきました。「あなたは私のために・・・・をしてくれましたね」という言葉を・・・・。一度に一人の人を救うことはできるのです。そして、一度に一人の人を愛することもできるのです。」『マザー・テレサの愛という仕事』80頁より。

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