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聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/8/8 出エジプト記7-12章「わざわい」こども聖書㉖

2021-08-07 12:49:09 | こども聖書
2021/8/8 出エジプト記7-12章「わざわい」こども聖書㉖

 神は、今から三五〇〇年ぐらい前、エジプトの国で奴隷として苦しめられていたイスラエル人を、その生活から救い出して、神の民となさいました。しかし彼らを奴隷としていた王ファラオは、簡単に彼らを手放しはしません。イスラエル人を嫌ってもいましたが、彼らの労働力に頼ってもいたので、いなくなられても困るのです。それに、エジプトの王は自分を「神の子」だと言っていました。人間とは違う、神の力があると威張っていました。その自分に、ただの奴隷の一人、モーセが「神様が、イスラエル人を去らせなさいと仰せです」と言ってくるなんて、生意気だ、俺に命じるな、と思ったのでしょう。ですから、ファラオはなかなかイスラエル人を解放しようとしませんでした。

 そこで神はモーセを通して、十の災いをエジプトに下しました。最初は大河、ナイル川が真っ赤に染まる災い。ナイルはエジプトの中央を流れる大きな川。いのちそのものといえ、神の河でした。その河にモーセが手を伸ばすと、川が真っ赤に変わり、飲むことが出来なくなったのです。

 しかし、ファラオはこれでもモーセを認めませんでした。

 次に、神はモーセを通して、蛙を出没させました。町も家も蛙だらけ。これにはファラオも溜まりません。

 ファラオは「やめてくれ。そうしたらイスラエルの民を去らせるから」と言いました。そこでモーセは、主に祈りましたが、蛙が死に絶えると、なんとファラオは、約束を破って、イスラエルの民を去らせることを止めてしまいました。

 その次に、ブヨという小さな虫が群がり、その次には、もう少し大きなアブの大群が襲って来ました。


 するとファラオはまた、「おまえたちを去らせよう。行って良い。私のために祈ってくれ」と言いました。モーセは、それを聴いてこう言いました。
出エジプト八29…「今、私はあなたのもとから出て行き、主に祈ります。明日、アブがファラオとその家臣と民から離れます。ただ、ファラオは、民が主にいけにえを捧げるために去ることを阻んで、再び欺くことなどありませんように。」
 しかし、アブがいなくなると、ファラオはまた、心を堅くし、民を去らせません。次は第五の災いです。動物が病気にかかり、たくさん死んでしまいました。次に動物だけでなく人にも腫れ物が出来る重い疫病がエジプト中を襲いました。


 しかし、イスラエル人は大丈夫です。次の第七の災いも同じです。天から雹(大きな氷の塊)が降ってきました。雹にやられて、エジプト人の畑の麦は、倒されてしまい、収穫できません。しかし、イスラエル人の住む地には雹は降りませんでした。

 ファラオは、またモーセにお願いして、自分が悪かった、主に祈ってくれ、私はおまえたちを去らせようと言います。しかしモーセはこれを聴いても、ファラオの心を見抜いています。祈るは祈ります。
出九30しかし、あなたとあなたの家臣がまだ、神である主を恐れていないことを、私はよく知っています。」
 そしてモーセが祈ると雹は止み、ファラオは矢張り約束を破って、心を頑なにします。次の第八の災いは、イナゴが空を暗くするほど飛んできて地の作物を食べ尽くしてしまうこと、でした。

 この時もファラオは最後には音を上げてモーセに悪かった、許してくれ、祈ってくれと言いますが、イナゴがいなくなると、ファラオは心を頑なにします。

 第九の災いは、三日間、全地が真っ暗になった出来事でした。互いに見ることも、立つことも出来ないぐらい、真っ暗になったのです。

 この後も、ファラオはイスラエル人を手放そうとしません。こうして、とうとうファラオは最後のわざわいを迎えます。

 最後十番目の災いは、エジプト中の長子、最初に生まれた男の子、動物の最初の雄の子が死ぬ、という最悪の災いです。自分が死ぬ、という以上に、つらく、将来も希望も断たれてしまう災いです。

 ファラオはこれを止めることは出来ません。そして、ファラオはこの災いで、大切な自分の長男を失ってから、ようやくモーセに言うのです。
出十二31彼はその夜、モーセとアロンを呼び寄せて言った。「おまえたちもイスラエル人も立って、私の民の中から出ていけ。おまえたちが言うとおりに、行って主に仕えよ。32おまえたちが言ったとおり、羊の群れも牛の群れも連れて出て行け。そして私のためにも祝福を祈れ。」

 ようやくこう言うのです。ようやく、ファラオの頑固な心も尽き果てました。

 ところで、神である主は最初からモーセに、災いを見れば、ファラオもどこかで負けを認めるかもしれない、などとは約束していません。ファラオは、頑固で自分が神だと思っていましたが、その態度を神は放っておくと言っていました。
「わたしはファラオの心を頑なにし、わたしのしるしと不思議をエジプトの地で行う」 (7:3)
 ファラオの願いを放っておかれたのです。自分が強く、神よりも力があって、神をさえ誤魔化して、欺すことが出来ると考える。それはファラオばかりか、今の多くの権力者も、私たちの中にも実はある思いではないでしょうか。そんなファラオが災いを見ても、なんとかして神に反抗し、少しでも神と取引したり、神の手を煩わしたりしてやろう、と考えたでしょう。

 神はファラオに少しも手を焼いてはいません。むしろ、ファラオは本当に無力で、災いをどうすることも出来ないし、それに対する自分の頑固な反応も、どうにも出来ないのです。自分では神に対抗しているつもりでも、実は愚かで、無駄な抵抗だけ。神だと言いながら、子ども染みた惨めな悪あがきをジタバタしているに過ぎない。そして、思い上がりの先には、自分の大事な子どもさえ失ってしまう。そんなファラオの無力さが、徹底的に浮き彫りにされるのが、この「十の災い」でした。

 世界には、自然災害もあります。食糧や健康が脅かされ、仕事を失ったり、子ども・家族を亡くす悲しい出来事もあります。エジプトのファラオは、イスラエル人の自由や生活、食べ物やいのちを奪って、「自分たちはそんな災いには遭わない」と思い、暴力を続けていました。しかし、誰も「自分は大丈夫」などとは言えません。自分も神ではなく、同じ人間だ。だから、災いや悲しみの中にある人に優しく寄り添うこと、自分の持っているものも神の恵み、贈り物で感謝するべきことなのだ。そう思うのが相応しいのです。神は、人間が神を忘れ、神になっている冷たい世界から、人間を解放し、救出し、心までも新しくしたいのです。それは王様も誰も止めることの出来ない、神のご計画です。

「大いなる力の神様。世界の全てを創造したあなたは、どんな災いもどんな奇蹟も出来ないことはありません。どうぞその力によって私たちの思いと心も新しくしてください。あなたの命のわざを受け入れ、あなたの祝福を分かち合う交わりへと自分を献げます。その御業を阻もうとするすべての悪が御前に平伏し、あなたの民が喜び歌いますように」

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