2022/1/16 Ⅰ列王記17章「エリヤとからす」こども聖書㊸
前回は「栄華を極めたソロモン王」の話をしました。誰よりも賢く、繁栄の絶頂を築いたソロモンの足元では民衆が、重税に喘ぎ、重労働に疲れ果てていました。
そうして、ソロモンの子どもの時代には王国は南北に分裂してしまいます。
半分以上の人々が、もう一緒にやっていられない、自分たちこそ神様の民だ、と違う王を立てて、分かれてしまったのです。そのような時代が三百年ほど続きました。そして、王が何度も変わり、六番目の王がアハブ王でした。彼は、イスラエルの国の歴史でも最悪の王の一人でした。
Ⅰ列王記十六章30節オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行った。31…彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻とし、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。32さらに彼は、サマリアに建てたバアルの神殿に、バアルのために祭壇を築いた。33アハブはアシェラ像も造った。こうしてアハブは、彼以前の、イスラエルのすべての王たちにもまして、ますますイスラエルの神、主の怒りを引き起こすようなことを行った。
誰よりも主の目に悪であることを行い、外国の王妃を娶って、その神バアルを拝んで、神殿と祭壇まで作りました。そうして、ますます主の怒りを引き起こすようなことばかりをしたのです。このアハブ王と妻イゼベルの時代のことが、列王記には十九章にも亘って詳しく記されています。その時代に活躍した一人が、預言者エリヤでした。
神様に背いて分裂していた時代、最悪だった時代の、最悪なアハブ王の時代。それは、神様が無視するか、すぐに滅ぼしても良かったような時代です。けれども、その時代にこそ聖書はじっくりと目を留めています。大預言者エリヤが登場して、活躍をします。それによって、アハブが反省したり、国が改善されたりしたわけではありません。しかし主はエリヤを遣わして、いくつもの大切な言葉を伝えさせました。
この主の言葉を預かる人。聖書にいう「預言者」は、神の言葉を預かった人です。予言者というと、まだ起きていない未来の出来事を予め言葉にする人です。聖書の預言者は将来のことを話すこともありますが、それよりも大事なのは、神の言葉を預かって伝えることです。今、ここに生きる人に、神が何を仰っているかを伝える事です。
17:1 ギルアデの住民であるティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」
アハブは、北イスラエル王国の首都サマリアにいました。バアルのための神殿を建てていました。そのバアルの神は、農業の神、豊作の神、つまり雨を降らせる神ともいわれていました。そこにエリヤがやってきました。
エリヤはギルアデの住民と言われます。ギルアデは、イスラエルより東の、ヨルダン川を挟んだ向こう、田舎の地域です。田舎者のエリヤが、王の前に立っていうのです。
「私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない」
と。アハブ王がどんなに威張って、バアルが雨の神様だとか何だとか言おうと、主が遣わされた、田舎者のエリヤはその前に立って、アハブ王にもの申すのです。そして、実際に、この時から数年間、雨は降りません。民の水も、畑の農作物や家畜の飲み水も少なくなり、どうやって生きられたのでしょうか。どうしようも出来ません。アハブ王とイゼベルの勢いはまったくの空威張りに過ぎなくなってしまうのです。しかし、エリヤ自身も雨が降らなければ困ります。
17:2それから、エリヤに次のような主のことばがあった。3「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。4あなたはその川の水を飲むことになる。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」
エリヤはサマリアを去って、身を隠せと言われます。アハブは、エリヤの言葉が図星なのに何も言い返せず、負けを認めるより腹を立て、捕まえて殺そうとしたのでしょう。主はエリヤをヨルダン川の東のケリテ川に行かせるのです。この川もまもなく枯れるのですから、細い川だったのでしょう。
それはエリヤにとっては、とても心細い事だったかもしれません。そんな所に身を隠さなければならないなんて。でも、
5 そこでエリヤは行って、主のことばどおりにした。彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。6 何羽かの烏が、朝、彼のところにパンと肉を、また夕方にパンと肉を運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。
エリヤは、逃げた先で、主は約束通り、烏を遣わしました。どうやってか、烏は朝にも夕方にも、パンと肉を運んできたのです。不思議ですね。どうやったのでしょう。誰かの家からもらってきたパンを、エリヤの前に届けてくれたのでしょうか。それとも、うっかりエリヤの頭の上に毎日落としてしまっていたのでしょうか。
エリヤも不思議だったに違いありません。それ以上に、烏を使う、という主のやり方そのものが、不思議でした。烏は律法では、汚れた動物でした。生贄にしたり、食べたりすることは禁じられている、あまり好ましくないような鳥です。でも神は、その烏に命じて、エリヤを養わせたと言います。何故か毎日、エリヤにパンと肉をどこからともなく運んできてくれます。それも、肉なんて一回でもご馳走だったはずです。それを一日二回食べるなんて、ビックリするようなご馳走だったのでしょう。神様は、烏も用いるし、田舎者のエリヤも預言者とされますし、最悪の北イスラエル王国にも語りかけておられました。私たち人間には計り知ることの出来ない不思議を、神はなさるのです。
その不思議をエリヤは信じました。王の前に立つなど思いも及ばなかったでしょうが、王より遙かに偉大で、雨も烏もすべてを支配しておられる神を信頼しました。水がない時、主はエリヤをケリテ川に逃れさせ、烏の運ぶパンと肉で養わせました。その不思議な導きを、私たちは信じるのです。アハブを打ち負かすことは出来なくても、アハブよりも確かな主を信頼して、御力によって強められることこそ、私たちの証しなのです。
ヤコブ書5:17エリヤは私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、雨は地に降りませんでした。
「天と地を作り、雨も烏も、エリヤも私たちも愛したもう神様。私たちも、あなたの声を運ばせてください。人の言葉に振り回され、人の力に屈しそうになる時、どうかその愚かさから救い、勇気をもってあなたに信頼させてください。あなたが私たちを養い、導き、苦しみや渇きを通っても、必ず、主の恵みを観させてくださることを信頼します」
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