聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問98「私たちの願いをささげる祈り」ピリピ4章8節

2015-12-01 21:01:18 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/11/29 ウ小教理問答98「私たちの願いをささげる祈り」ピリピ4章8節

 今日は「祈り」についてお話しします。夕拝でずっとウェストミンスター小教理問答からお話しをしているのですが、ちょうど順番が、「祈りとは何ですか」という問98なのです。今回の「帰国者クリスチャンの集い」にもピッタリの内容だと思います。

 祈りについては、とても沢山の聖書の言葉がありますし、良い本が何冊も書かれています。そして、このウェストミンスター小教理問答でも、問98から107まで、10回かけて教えていますので、今日はその最初の「祈りとは何か」を簡単にお話しします。これは、きっと私たちの信仰生活にとっての大事な足がかりになることです。

問98 祈りとは、何ですか。

答 祈りとは、神の御心にかなう事柄を求めて、キリストの御名により、私たちの罪の告白と、神の憐れみへの心からの感謝と共に、私たちの願いを神にささげることです。

 これも日本語に訳すと仕方のないぎこちなさなのですが、祈りとは「私たちの願いを神に捧げること」です。何を目的にですか。「神の御心にかなう事柄を求めて」。どうしてそんなことが出来るのですか。「キリストの御名により」です。そして、その祈りにはいつも「私たちの罪の告白と、神の憐れみへの心からの感謝」が伴っていなければなりません。そのようにまとめているのですね。

 なんだかややこしいと思う方もいるかも知れません。確かに私たちが、祈りって何だろう?とゼロから学ぶなら、ややこしい定義です。でも、私たちは、ゼロではないのです。何かしらの祈りについてのイメージを必ず持っているのです。イエスもマタイ六章で、祈りについて教える時に、まず、見せかけで祈ってそれが祈りだと思っている人の真似をしてはいけません。また、長々と祈れば聞かれると考えている異邦人の真似をしてはいけません、と話されて、私たちの祈りがどれほど間違った影響を受けているか、から教え始められました。私たちはみな何かしらの「祈り」のイメージを持っています。言ってみれば「自分の願いに叶うことを求めて、人間の努力により、取り繕って、神の憐れみにお世辞を言いつつ、私たちの願いを神に叶えさせることです」ではないでしょうか。

自分が中心ですね。祈り、というよりも、交渉術とか霊感とかそういうものを考えています。神を動かして、自分が幸せになることを考えています。神は手段に過ぎません。言ってみれば、神に祈らなくても、自分が幸せになれるなら、祈りなんかしなくていい、というだけです。神を信じる事自体、面倒臭いことでしかありません。

 イエス・キリストが示してくださったのは、もっと大きく、温かく、素晴らしく、致命的な神との関係です。私たちよりも遥かに大きく、想像も出来ないほど豊かで、正しく、聖く、美しいお方です。その神は、私たちを愛して私たちをお造りになり、私たちと親子の関係を結び、永遠の交わりに生かそうとお考えです。最初の人間アダムは、その神との約束を破って、神に背を向けてしまいました。神はその人間の甚だしい無礼を怒って滅ぼしても良かったでしょうに、代わりにひとり子イエス・キリストをこの世に送って、神との関係を回復する犠牲として、その命を十字架において捧げられました。そうまでして、神は私たちが神の方を向き、神との親しい関係を取り戻されるのです。私たちは今、イエス・キリストを通して神の愛、神の偉大さ、御真実を知らされています。その神との関係を回復され、ただ自分の願いを叶えてもらうため祈る、そうでなければ祈らない、というような勘違いした関係よりも深く尊い信仰をもらったのです。

ピリピ四6何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい

そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

という関係を戴いているのですね。

 この関係が明らかにしているのは、ただ祈りとは何か、だけではありません。

 神とはどんな方か、それは私たちの祈りを聞き、私たちと親しい関係を求めて止まないお方である。そして、神に自分の願い事を捧げ、神との交わりに永遠に生かされてゆく者、それが私たちだ、ということです。祈りは、神が与えて下さったプレゼントとして、私たちを神と結びつけるのです。

 けれども、そう言われると、躊躇いが生まれるかも知れません。祈りとは何かでは分からなかった事が、自分と神との関係が祈りで結ばれていると考えると、尻込みしたい自分に気づくかも知れません。

 自分が、神とのそんなに親しい関係に生かされるだなんて実感が湧かない。神にホントにそんなに信頼していいのか、自分なんかの願いを祈ったら「厚かましい」と思われるんじゃないか、自分の弱さや失敗をまだ神は赦していないかもしれない、神の御心にかなうことを求めたら裏切られたような思いをしないだろうか…。自分が愛されるなんてムリムリ~。色々な思惑が出て来るのです。

 「祈りを妨げる一番の原因は恐れです」

とジェームス・フーストンという方がハッキリ言っています。祈りは、神との人格的な交わりです。上手や下手などない、神との素晴らしい交わりです。でも、私たちは、罪や限界があって、破れた人間関係が当たり前になっています。その影響で、神との関係をも、私たちは神に信頼しきることが出来ません。親子関係の痛い傷や人間関係での失望が、神との関係にも影響を与えてしまいます。それが、祈りに尻込みをさせたり、口先だけの祈りの文句を繰り返したり、神を操作しようとする祈りになったり、期待もなく味気ない祈りになる原因です。そして、そのような自分と神との関係の貧しさ自体、どうせそのようなものだと諦めているのです。

 でも、神が求められるのは、そんな薄っぺらい表面的な関係でもないし、恐れや疑いを無視した、当たり障りのない祈りの生活でもありません。神は、ご自身の愛によって、私たちの恐れを取り除き、傷を癒やし、本当に信頼できる神との親しい関係に生かしたいのです。いえ、既にその関係に入れられているから、祈りへ招かれているのです。

 神の御心は、このありのままの私たちが神を心から愛し、互いに愛し合うことです。そんな大それた神に、私たちは自分の心の願いを祈っておささげしなさいと言われています。恐れも疑いも傷も罪も告白し、憐れみへの感謝も心から祈りつつ、神の御心に自分をゆだねるのです。その祈りの中で私たちは確かに成長させられていくのです。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ルカ二三章44~49節「イエス... | トップ | 申命記十四章「食べ、喜べ」 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ウェストミンスター小教理問答講解」カテゴリの最新記事