聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/3/21 マタイ伝17章24~27節「魚の口から」

2021-03-20 12:41:45 | マタイの福音書講解
2021/3/21 マタイ伝17章24~27節「魚の口から」

 魚の口から銀貨が見つかる。イエスがなさった多くの奇蹟の中でも、特に珍しい記事です。そもそもこれを奇蹟と呼んでいいのかも分かりません。手っ取り早く、会計係の財布から出してもいいし、これが出来るぐらいなら弟子たち十二人全員の神殿税を払うことだって出来たでしょうに、魚の口から銀貨一枚。手品みたいで、「遊び」と呼んだ方がしっくり来ます。

マタイ17:24彼らがカペナウムに着いたとき、神殿税を集める人たちがペテロのところに近寄って来て言った。「あなたがたの先生は神殿税を納めないのですか。」25彼は「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスのほうから先にこう言われた。「シモン、あなたはどう思いますか。地上の王たちはだれから税や貢ぎ物を取りますか。自分の子たちからですか、それとも、ほかの人たちからですか。」

 この「神殿税」は、欄外にありますように「二ドラクマ」という言葉です[1]。当時の二日分の労賃です。これがユダヤ人の毎年神殿に納めることになっていたお金でした。これは、出エジプト記30章11~16節に定められていたものです[2]。そこには「償い」としてこうあります。

出エジプト30:11~16…自分のたましいの償い金を主に納めなければならない。…聖所のシェケルで半シェケル。…償いのための銀…を会見の天幕の用に充てる。…

 この半シェケルがイエスの時代の二ドラクマに当たりますが、
「償い金」(贖い)
と言われています。自分の代わりの半シェケルなのです。神の民はみんな神のものです。そしてその納められたお金を「会見の天幕の用」、後には神殿の維持や必要のために用いる。だから「神殿税」と呼ぶのですが、それは税金という以上に、
「私たちは主の民として、私たちは丸ごと主のものです。そのしるしとして、毎年二ドラクマを納めます。私の代わりに、神殿のため、礼拝のためにお用いください」。
 そういう献身の意味が本来は込められていたのです。
 24節で神殿税の集金人たちがペテロに
「あなたがたの先生は神殿税を納めないのですか」
と聞きます。イエスが当時の習慣の、安息日の制限[3]とか宗教的な手洗い[4]、律法学者やパリサイ人への尊敬から自由だったので、神殿税も納めなくても不思議ではないと思ったのでしょう。ペテロが
「納めます」
と言ったのは、既にイエスが毎年神殿税を納めていたのを見ていたからでしょう。律法の肝心な所はイエスも、後の弟子たちも守っていたのです[5]。しかし、そうはいっても、ペテロの心にはカチンとくるものがあったのかもしれません。
 そのペテロの機(き)先(せん)を制するように、イエスの方から声をかけます。しかも本名で、
…シモン、あなたはどう思いますか。地上の王たちはだれから税や貢ぎ物を取りますか。自分の子たちからですか、それとも、ほかの人たちからですか。」ペテロが「ほかの人たちからです」と言うと、イエスは言われた。「ですから、子たちにはその義務がないのです。」
 王は子どもたちから税金を取りはしない。特にこの16章17章で、イエスが神の子である、という事がハッキリと確認されたばかりです[6]。イエスには天の父に税金を納める義務はありません[7]。イエスの弟子たちも、そのイエスの庇護の元で免税されることを期待してもいいでしょう。イエスがここでペテロが口を開くより先に、イエスの方から質問したことを、ここでは強調した珍しい言い方をしています[8]。まずイエスから。それは、ペテロの心にあった、神殿税を納める事への忸怩たる思い、払う義務がなければ払いたくない、どうなんですかイエス様、という思いを汲んだからでしょう。イエスはそれを組んで「その義務はないのです」
27しかし、あの人たちをつまずかせないために、湖に行って釣り糸を垂れ、最初に釣れた魚を取りなさい。その口を開けるとスタテル銀貨一枚が見つかります。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」
と言われます。
「つまずかせないために」。
 神殿税を納める義務はない。でも、この神殿税を集める人たちをつまずかせたくない。「義務はない、自由にして何が悪い」と権利を振りかざしかねないペテロを先回りするように、「どう思うか、そう義務はない、だけどつまずかせないために、しよう」。そう仰るのです。そして、次の18章では6節から「つまずき」の問題が丁寧に取り扱われていくのです[9]。これがこの箇所で一番のポイントでしょう。[10]

 直前の22、23節でイエスはご自分の死と復活を再び予告しました[11]。その「人々」は大祭司や神殿の運営者側の人々です。この「つまずかせないため」も、事を荒立てたらいけない、悶着を起こさぬよう、という義務感ではありません。本当に、「彼らに躓いてほしくない」、生きてほしい。本当に彼らを思いやった態度です。そして、やがては、ご自分の十字架をもって、私たちの代価を払ってくださいました。半シェケルという律法が指していたのは、やがて神の子キリストが人のために、ご自身のいのちを支払ってくださる、という代価です。それだって、神の「義務」ではないのに、私たちが滅びてほしくない、という惜しみない愛からでした[12]。

 そして最後も、釣った魚の口に銀貨だ、予想もしない方法でペテロに二人分の神殿税を納めさせました。義務感で犠牲を払うとか、躓かせたらいけないという我慢よりも伸びやかな、本当に自由な、遊び心のある道をイエスはペテロに示してくださいました。今でもガリラヤ湖のレストランでピーターズフィッシュを注文すると、口に銀貨を仕込んだ魚料理が出て来るそうです[13]。そんな遊びに繋がるようなことをイエスは頑固なペテロにしてくださいました。
 必要も無いのに、こんなユーモアたっぷりの方法をしてくださいました。
 義務はないのに、ご自分の分だけでなく、ペテロの分まで払ってくださいました。
 義務感からではなく、溢れる愛をもって、そして思いがけない方法を楽しませながら、ペテロと歩まれたのでした。
 そのイエスが、私たちのための神殿税をご自身の命で払ってくださいました。私たちも主のものです。義務からの解放と、自分と他者への思いやりを与えられ、小さな楽しみを鏤められているのです。[14]

「夢の森のブログ」より

「主よ。私たちはあなたのものです。あなたが私たちを愛し、躓きから救い出し、躓いてももう一度立ち上がらせてくださいます。どうぞ、恵みによる自由を噛みしめさせてください。あなたの子とされている特権を、解放を味わわせてください。そして、あなたが私たちに備えてくださっている小さな喜びを、毎日の中の奇蹟を見つけて、それを分かち合っていくことが出来ますように。大きなあなたの慈しみが、私たちの生活の隅々にまで命を吹き込みますように」

[1] ディドラクマ。「ドラクマが二つ」という文ではなく、一つの単語です。この一語で、出エジプト記30章11~16節で言われている神殿税を指します。

[2] 出エジプト記30章11~16節「主はモーセに告げられた。「12あなたがイスラエルの子らの登録のためにその頭数を調べるとき、各人はその登録にあたり、自分のたましいの償い金を主に納めなければならない。これは、彼らの登録にあたり、彼らにわざわいが起こらないようにするためである。13登録される者がそれぞれ納めるのは、これである。 聖所のシェケルで半シェケル。一シェケルは二十ゲラで、半シェケルが主への奉納物である。14二十歳またそれ以上の者で、登録される者はみな、主にこの奉納物を納める。15あなたがたのたましいのために宥めを行おうと、主に奉納物を納めるときには、 富む人も半シェケルより多く払ってはならず、 貧しい人もそれより少なく払ってはならない。16イスラエルの子らから償いのための銀を受け取ったなら、それを会見の天幕の用に充てる。 こうしてそれは、イスラエルの子らにとって、 あなたがたのたましいに宥めがなされたことに対する、主の前での記念となる。」」

[3] マタイの福音書12章1~14節参照。

[4] マタイの福音書15章1~11節参照。

[5] 使徒の働き21章20節「彼ら(エルサレム教会の長老たち)はこれ(パウロの異邦人伝道の報告)を聞いて神をほめたたえ、パウロに言った。「兄弟よ。ご覧のとおり、ユダヤ人の中で信仰に入っている人が何万となくいますが、みな律法に熱心な人たちです。」」

[6] マタイの福音書16章17節「すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。」、17章5節「彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。」

[7] 26節の「その義務はない」は、「自由であるエリューセロイ」という言葉です。これは、奴隷との対比で語られる、自由人としての立場を現しています。新約聖書の用例:ヨハネ8:33(彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」)、8:36(ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです)、ローマ6:20(あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました。)、7:3(したがって、夫が生きている間に他の男のものとなれば、姦淫の女と呼ばれますが、夫が死んだら律法から自由になるので、他の男のものとなっても姦淫の女とはなりません。)、Ⅰコリント7:21(あなたが奴隷の状態で召されたのなら、そのことを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、その機会を用いたらよいでしょう。22主にあって召された奴隷は、主に属する自由人であり、同じように自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。)、7:39(妻は、夫が生きている間は夫に縛られています。しかし、夫が死んだら、自分が願う人と結婚する自由があります。ただし、主にある結婚に限ります。)、9:1(私には自由がないのですか。私は使徒ではないのですか。私は私たちの主イエスを見なかったのですか。あなたがたは、主にあって私の働きの実ではありませんか。)、9:19(私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。)、12:13(私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。)、ガラテヤ3:28(ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。)、4:22(アブラハムには二人の息子がいて、一人は女奴隷から、一人は自由の女から生まれた、と書かれています。23女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由の女の子は約束によって生まれました。)、26(しかし、上にあるエルサレムは自由の女であり、私たちの母です。)、30(しかし、聖書は何と言っていますか。「女奴隷とその子どもを追い出してください。女奴隷の子どもは、決して自由の女の子どもとともに相続すべきではないのです。」31こういうわけで、兄弟たち、私たちは女奴隷の子どもではなく、自由の女の子どもです。)、エペソ6:8(奴隷であっても自由人であっても、良いことを行えば、それぞれ主からその報いを受けることを、あなたがたは知っています。)、コロサイ人3:11(そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。)、Ⅰペテロ2:16(自由な者として、しかもその自由を悪の言い訳にせず、神のしもべとして従いなさい。)、ヨハネの黙示録6:15(地の王たち、高官たち、千人隊長たち、金持ちたち、力ある者たち、すべての奴隷と自由人が、洞穴と山の岩間に身を隠した。)、13:16(また獣は、すべての者に、すなわち、小さい者にも大きい者にも、富んでいる者にも貧しい者にも、自由人にも奴隷にも、その右の手あるいは額に刻印を受けさせた。)、19:18(王たちの肉、千人隊長の肉、力ある者たちの肉、馬とそれに乗っている者たちの肉、すべての自由人と奴隷たち、また小さい者や大きい者たちの肉を食べよ。」)

[8] プロエフサセン。動詞プロエフサノーは新約聖書でここだけに使われる言葉です。

[9] ともすると、26節の「義務はない」に私たちの目は止まって、27節の「つまずかせないために」は、付け足しのように思うかも知れません。本当は「義務」はないのだけど、角が立たないように、魚を取ってきなさい、と仰ったように思いそうになります。しかし、「つまずき」は大切な問題として扱われていくのです。

[10] 「つまずき」スカンダロンは、どの福音書よりもマタイで繰り返される言葉です。5:29(もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。30もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです。)、11:6(だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」)、13:21(しかし自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。)、13:41(人の子は御使いたちを遣わします。彼らは、すべてのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、)、13:57(こうして彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」)、16:23(しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」)、15:12(そのとき、弟子たちが近寄って来てイエスに言った。「パリサイ人たちがおことばを聞いて腹を立てたのをご存じですか。」)、17:27(しかし、あの人たちをつまずかせないために、湖に行って釣り糸を垂れ、最初に釣れた魚を取りなさい。その口を開けるとスタテル銀貨一枚が見つかります。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」)、18:6(わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。7つまずきを与えるこの世はわざわいです。つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。8あなたの手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろったままで永遠の火に投げ込まれるよりよいのです。9また、もしあなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろったままゲヘナの火に投げ込まれるよりよいのです。)、24:10(そのとき多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合います。)、26:31(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからです。」、33(すると、ペテロがイエスに答えた。「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」)

[11] マタイの福音書17章22~23節「彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは言われた。「人の子は、人々の手に渡されようとしています。23人の子は彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると彼らはたいへん悲しんだ。」

[12] それゆえ、私たちにも「自由」は「仕える自由」として提示されます。ガラテヤ人への手紙5章1節「キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」13「兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。15律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。」

[13] 「キリストの高弟の伝説が残る湖では口に銀貨をくわえた魚が釣れる?」https://crea.bunshun.jp/articles/-/14748

[14] ユダの手紙24~25節「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びとともに栄光の御前に立たせることができる方、25私たちの救い主である唯一の神に、私たちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、支配、権威が、永遠の昔も今も、世々限りなくありますように。アーメン」

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