2015/10/04 ウェストミンスター小教理問答82「目標を目ざして一心に」ピリピ三12~14
先週まで、神が下さった「十戒」を学んできました。「十戒」は、神が人間に求められる律法の中心です。「わたし以外に神があってはならない」「偶像を拝んではならない」「主の名をみだりに唱えてはならない」「安息日を覚えてこれを聖とせよ」「父と母を敬え」「殺してはならない」「姦淫をしてはならない」「盗んではならない」「偽証をしてはならない」「ほしがってはならない」。以上の十の戒めを一通り見た上で、
問82 これらの神の戒めを、だれか完全に守ることができますか。
答 堕落以来、単なる人間はだれも、この世においてこれらの神の戒めを完全に守ることはできず、かえって、思いとことばと行いにおいて、日ごとにそれらを破っています。
面白いですね。十戒を丁寧に解説した上で、「これらを完全に守ることは出来ますか。いいえ、思いと言葉と行いにおいて、日ごとにそれらを破っているのです」と言います。みんな、です。「一生懸命頑張っていないから破ってしまうのです」とか、「本当は救われていない人は破ってしまうのです」ではないのです。「単なる人間はだれも」です。
ここに三つの言葉が添えられています。
「堕落以来」とあるのは、アダムとエバが、神との契約を破って、禁じられていた木の実を食べた時から、です。エデンの園で、アダムとエバが神との関係に背いた時、人は考えも間違って、自分中心の勝手な願いを愛するようにもなってしまいました。でも、それ以前のアダムとエバは、律法を守ることが出来たのです。もともと神は、人間にとって、無理な律法を押しつけたりせず、人間が守れて、自然で喜びである律法を下さっていたのです。律法は人間に守れるものでした。でも、堕落以来、人間は誰も律法を守れなくなりました。神とのシッカリした繋がりがなくなったので、心がさ迷ってしまうのです。神から離れたまま、正しく生きることは出来ません。
もう一つ「単なる人間は」とあります。どうしてこんな言い方をするかと言えば、イエス様は完全な、聖い人間となってくださったからです。イエス様が人間となった時、自動的に、罪の性質も入ったのでしょうか。いいえ、イエス様は完全な人間となってくださいましたが、罪はなかったのです。でも、それ以外の普通の人たちはみな、罪があります。それで「単なる人間は」と言っています。
イエスが人間となってくださったのは、私たち「単なる人間」が罪を犯さずにはおれないから、代わりに神の前に完全な生き方を歩んでくださり、また、人間の受けるべき罰を十字架の上で代わりに受けてくださるためでした。そのイエスが、ご自分を信じる者には、罪の赦しと完全な義とを与えてくださいます。ですから私たちは、十戒を守れなくても、もう罰せられて滅ぼされることはありません。神さまの御心を行えないから、そのうち神さまに怒られるんじゃないか、追い出されるんじゃないか、と心配はしなくてよいのです。三つ目に「この世においては」とあるように、
今は毎日罪を犯しながら生きているのです。けれども、やがて、イエス様がもう一度、世界においでになって、私たちに栄光を着せて下さり、すべてを新しくしてくださったら、私たちは罪から完全にきよくされます。もう罪を犯すことはないくらい、新しい心を戴きます。すべての人が一緒に喜ぶのです。その手前の今、この地上においては、罪を犯してしまうのです。
こう言い切っていることは安心ではありませんか。十戒を破ってしまうからダメだ、と思わなくていい。今は、十戒を毎日破らずにはおれないのが、すべての人間なんだ。神さまも、そういう私たちの限界を今は許しておられます。「何度も言ったでしょう」とか「全くダメだなあ」とガッカリしてはおられません。そうです。天の父は、決して私たちにガッカリしたりはなさいません。だから、私たちも、どんな失敗をしても、自分が嫌いになって、自分を責めるのは止めましょう。そうではなく、失敗に気づいた時、誘惑に会った時、すぐに天の父のもとに行きましょう。そうして、赦しをいただくだけでなく、天の父なる神の恵みに立ち戻りましょう。たとえ、誘惑に負けたときにも、私たちは、神の赦しをいただくことが出来ます。いいえ、いただかなければなりません。
ひょっとすると、こんな声も私たちの中から聞こえてくるかもしれません。「どうせ守れないなら、こんな律法をくれないほうがいいんじゃない?」 なぜ、神は私たちに守れない律法を下さるんでしょうか。また、どうせ守れないなら、守ろうともしなくていいのでしょうか。それは、今まで十戒を一つずつ丁寧にお話しして来た中で、確認してあることですね。
律法は、神が私たちに与えてくださった、いのちの道です。窮屈で、難しいのではなくて、私たちの目を覚まさせてくれるのです。自分が悪かった、間違っていた、そう思わせてもらうことで、ハッとさせられます。頭を冷まし、人と一緒に生きることが出来るようになるのです。律法が私たちを守ってくれるのです。
「行いと言葉と思いとで、毎日罪を犯しています。」
それはやっぱり、私たちにとって、誇らしいことではありませんね。律法がなかったら、私たちは思い上がったまま、自分の中で人を裁いたり、振り回したり、腹を立てたりし続けるでしょう。律法があることで、私たちはそういう勘違いに気づけるのです。私はジョギングをしますが、顎を軽く引き、腕を肩甲骨から前後に回すように振り、お腹は引っ込めながら、膝をやや高く上げながら走る、という理想のフォームがあります。息は口から吐いて、鼻から吸うんです。でも、すぐにそのフォームを忘れます。でも、完全にそんなフォームでは走れませんが、それを意識することで、安定して走れるし、もっと上達したいと思えます。
神が下さった律法は、私たちの将来を語っています。心から神を喜び、他のものにちっとも心を寄せることなく、互いにも愛し合い、違いを受け入れ合う将来がやがて来ます。そこまで、私たちはまだまだ不安定です。傷つけ合ってしまいます。そして、悪いのは相手で、自分ではない、などと思いたくなります。律法は、そういう私たちの暗い心に差し始めた光です。素直に、謙って自分の限界を認め、でも、その罪ある自分が、今、受け入れられ、愛されていて、神が私にやがての完成を約束してくださっていると気づかせてくれます。不完全だからこそ、その目標へ、一心に走っていきましょう。
詩篇一一九24まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です。
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