2022/2/20 マタイ伝27章45~56節「言葉を失うほどの」
イエス・キリストが十字架にかけられた最後の3時間の出来事を読みました。直前では人々がイエスを嘲笑い、罵っていたのが、
45節 …十二時から午後三時まで闇が全地をおおった。
嘲っていた人々も黙ったようです。この3時間、闇と沈黙が全地を覆っています。その後、イエスが大声で叫ばれます。
「エリヤ」
と聞き間違えた人たちが誤解してしゃべりますが、その期待を躱(かわ)すようにイエスは霊を渡される。その後の出来事に
「この方は本当に神の子であった」
の告白が響く流れです。騒然さから闇と沈黙になり、イエスの叫びと、短い勘違い発言、最後の告白。動から静へ、そこに響く肝心な言葉。そういう流れを、私たちも言葉を失う思いをもって聞きたいと願います。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」
全地を覆った闇は、神が罪への怒りをもって顕現されたしるしの闇です[1]。真っ暗な中過ごす不気味さ、不安に、笑っていた人々も黙らざるを得なかったでしょう。そして、
46 三時頃、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。[2]
これと同じ言葉が、詩篇22篇1節にあります[3]。聖書の昔から、神に捨てられたと思わずにおれないような痛み、理不尽な力で悩まされる現実があります。それでも、本当に神に捨てられるとはどういう出来事なのでしょうか。怪我やトラウマや心が狂うことも、経験した本人でないと分からないように、もしすべてを支えている神に、本当に捨てられるとしたら、どれほど恐ろしく絶望的なのか。太陽も雨も惜しまない天の父の恵みがすべて取り上げられるのがどれほど悲しいことなのか。私たちには精一杯想像するしかありません。この
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」
は詩篇の言葉そのものでなく、当時の日常語アラム語です。イエスにとっての本心からの叫び、問い、訴えです。堪え難いこと、人間となったイエスには予想できなかったほど心境でした。それでもイエスは「わが神」と求めています。神と神の御子であるイエスの繋がりは永遠です。でもその関係が「見捨てる」という言葉でしか表現できない、最大の痛みを負われました。それが私たちのために神がなさったこと、イエスのささげ物だったのです。
ヘブル九26…しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。
2. すると見よ、神殿の幕が裂け
人々が勝手に期待した、預言者エリヤの登場は起こらず、イエスは死なれました。しかし、
51すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。地が揺れ動き、岩が裂け、52墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。53彼らはイエスの復活の後で、墓から出て来て聖なる都に入り、多くの人に現れた。
一つ目の「神殿の幕」は、祭司だけが入れる聖所の幕か、その更に奥にある、年に一度大祭司しか入れない至聖所の入り口の幕か、どちらかでしょう。いずれにせよ、神殿の心臓部である聖所の幕が裂けた事は、神殿そのものの終わり、神殿を中心とするモーセの律法の時代が役割を終えて、新しい礼拝の時代が始まった事を示します。イエスはこれまでも
「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです」[4]
「ここに宮よりも大いなるものがあります。…人の子は安息日の主です。」[5]
と言われて、神殿も律法も全うすることを言っていました。イエスの死こそ、すべての生贄を終わらせて、すべての宗教を用済みとしたのです。
そればかりでなく、多くの聖なる人々が生き返りました[6]。ここに書いてある以上の事は分からず好奇心をそそられますが[7]、大事なのはイエスの死が死者をよみがえらせた、ということです。イエスが生まれる前、御使いは
「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
と告げていました[8]。それは罪の罰の免除に留まらず、私たちにいのちを与えたい、死よりも強い新しい命をもたらす救いです。神の子イエスが私たちのために死なれた。奇蹟や神々しいドラマを見せたりせず、徹底的に謙り、神に見捨てられて息絶えられるほど、人となられた。その死が、私たちを豊かに生かすのです。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 Ⅰヨハネ4章9-10節
3.「この方は本当に神の子であった」
この出来事を見た百人隊長たちが
「この方は本当に神の子であった」
と言いました。神の民であるユダヤ人ではなく、異邦人である百人隊長と兵士たちです。しかも35、36節でイエスを十字架につけ、衣をくじ引きし、十字架の足元からイエスを
「見張っていた」
あの者たちが
「この方は本当に神の子であった」
と言ったのです。惨めな囚人だ、神の子なら自分を救え、と笑っていたこの人は、本当に神の子だ。
「わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
と叫ぶ絶望に、神の子でなければ発せられない真実な絶望を、聖なる告白を感じ取った。いや、そう思わせたのも神の業としか言えません。イエスの死は、神殿の幕や聖徒たちの墓の岩を裂き、神の民ではない異邦人の心も開いて、異邦人とユダヤ人の隔ての壁も崩しました。
更に55、56節には
「大勢の女たち」
が登場します。今まで登場しなかった無名の女性たち[9]。そもそも女性の立場は低くて、今まで女性の弟子がいたことさえ分からなかった。でも饒舌だった男の弟子たちもクモの子を散らすようにいなくて、イエスを嘲っていた人々も黙った中、この女性たちが遠くから見ているだけではあっても、そこにいて見ている。その彼女たちが、この後、埋葬と復活の目撃者になるのですね。その事も又、イエスの死において始まっている、新しい、驚くべきことです。誰も予期しなかった事が始まったのです。
エペソ二13しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。…
まとめましょう。
一つ、イエスの十字架で、全地が暗くなり「神に見捨てられた」のです。私たちの言葉を持ち合わせない、想像を絶する出来事です。詩篇に託された人間の叫びを、イエスは誰よりもご存じです。誰も体験したことがない真っ暗闇を味わわれました。人が「神から見捨てられた」と思う時も、その私とイエスがいてくださいます。私たちは決して神から見捨てられることがないと知るのです。
二つ、イエスの死の後、神殿の幕が裂け、モーセの律法の時代は終わり、イエスによって神に近づける新しい礼拝の時代が始まりました。私たちも罪の罰を免れるだけでなく、死の後にもよみがえりを約束されています。新しいいのちが与えられたのです。
三つ、異邦人やイエスの処刑の執行者、女たち、当時の神殿礼拝では、聖所に入ることも出来なかった人々が、ここでイエスを告白し、証言しています。私たちの誇りや壁を打ち砕く出来事が、すでに始まっています。
自分の饒舌さを恥じて、十字架の福音の意外な力に言葉を失って驚きましょう。この私のために主が十字架と闇と絶望的な孤独を経られました。多くを語らずに、苦しまれ、深い叫びだけを発して死なれました。そしてその死が、まさかと思う人をも変えました。この事に、私たちの心に築いているプライドの壁も砕かれるのです。私たちの周りのすべてを包んでくださる主がおられることに、希望を見出すのです。
「私たちのために死なれた主よ。あなたの十字架の苦しみを、想えば想うほど、言葉を失います。それは私たちを罪から解き放ち、いのちを与えるためでした。あなたの愛の深さ、御心の豊かさはどんな言葉でも足りません。折々に静まって、主の恵みを想い、味わい、感謝と賛美を捧げさせてください。私たちの心の頑なさ、冷たさ、神にも人にも築いてきた幕を、恵みによって開いてください。主よ、私たちを愛してくださり、有り難うございます。」
脚注:
[1] 出エジプト記10章21節「主はモーセに言われた。「あなたの手を天に向けて伸ばし、闇がエジプトの地の上に降りて来て、闇にさわれるほどにせよ。」22モーセが天に向けて手を伸ばすと、エジプト全土は三日間、真っ暗闇となった。」、アモス書8章9節「その日には、──神である主のことば──わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に地を暗くする。10あなたがたの祭りを喪に変え、あなたがたの歌をすべて哀歌に変える。すべての腰に粗布をまとわせ、頭を剃らせる。その時をひとり子を失ったときの喪のように、その終わりを苦渋の日のようにする。」
[2] ルカやヨハネを見ると、十字架の上でイエスは七回の言葉を残していますが、マタイとマルコが記すのはこの「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」だけです。
[3] 詩篇22篇1節「わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか。 私を救わず 遠く離れておられるのですか。 私のうめきのことばにもかかわらず。」
[6] 「聖なる人々」ハギオス マタイで10回使われますが、他の九回は「聖霊、聖なる都」です。本節以外、聖徒と訳される場所はなく、どう訳したらいいのかさえ、定かではありません。
[7] この「聖なる人々」とは誰なのか、旧約の預言者たちであればなぜ名前がないのか、彼らはイエスの復活まで何をしていたのか、その後、どうなったのか、などなど好奇心は尽きません。
[8] 1章21節「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
[9] 「マグダラのマリア」は有名ですが、マタイではここで初。61節、28章1節と合わせて3回のみ。ガリラヤからついてきて、今まで無名だったが、イエスの十字架と、埋葬と、復活の証人となった、ということだけ。