聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/3/28 創世記3章1-7節「へびのうそ」こども聖書⑨

2021-03-27 12:52:39 | こども聖書
2021/3/28 創世記3章1-7節「へびのうそ」こども聖書⑨

さて蛇は、神である主が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」
2女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。
3しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。
4すると、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
5それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」
6そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
7こうして、ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは、いちじくの派をつづり合わせて、自分たちのために腰の覆いを作った。

 今日は、世界の教会が「棕櫚の主日」と呼んでいる、一年に一度の日曜日です。そして来週の日曜日は「イースター」(復活節)という、一年で最も嬉しい日曜日です。今では日本のあちこちでもイースターのお祝いを見かけます。カラフルな卵や兎が出て来るお祝いです。その前の今週は、イエス・キリストが私たちのために、十字架にかかる、最後の一週間をお過ごしになったことを、覚えるのです。それが今週の「受難週」です。今日は、なぜキリストの十字架が必要になってしまったのかをお話ししましょう。

 神様が作られた世界は、すばらしい、よい世界でした。そこに置かれた人間は、神様を信頼して、互いに助け合っていました。

 そこに、蛇が近づいて来たのです。

ある日、蛇がエバに話しかけてきました。「あなたがたは、庭のどんな木からも食べてはならない、と神は本当に言われたのですか。」「いいえ、庭にある木の実は食べて良いと言われました。ただ、庭の真ん中にある木だけは食べてはならない、それにさわると死んでしまう、と言われました。」「とんでもない! 死ぬもんですか。」とずる賢い蛇は、シューと息を吐きながら続けます。「あの甘い実をあなたがたが食べたら、神のように賢くなることを、神は知っておられるのですよ。」エバはあの実を見つめました。今にも手の中に落ちてきそうです。とても美味しそうに見えました。とうとうエバはその実をもぎとり、食べてしまいました。

 この木の実は、神がアダムとエバに、これだけは取って食べてはならない、と命じておられた木でした。他の木はすべて食べて良いのです。何十か、何千もの木の中で、たった一本だけ、その木の実は食べない、という約束で、神はアダムとエバが神に従うことを学ばせようとしておられました。エバは、その禁止を覚えていました。ちょっと間違っているのは、触ると死んでしまう、などとは言っていなかったのですね。それはエバの間違いか、アダムが伝え間違ったのか、なぜか誤解してしまっています。そこで、蛇は「とんでもない、死ぬもんですか。」と言って、あの実を食べたら死ぬどころか、神のように賢くなるよ、それなのに神はあなたがたに食べるなと言っているのだよ、と吹き込んでいるのです。そう言われてその実を見ていると、とても美味しそうに見えてきてしまいます。エバはその実が食べたくなり、ついに口に入れてしまいました。

エバはこの実をアダムに分け与えました。アダムも一口食べてみました。その途端、何が起こったでしょう。二人は突然、恥ずかしくなったのです。裸であることに気づいたのです。慌てて、葉をかき集め、簡単な服を作り、茂みに隠れました。その時、神様の声が聞こえて来ました。「アダム、エバ、どこにいるのかい?」アダムはこそこそと出て行き、自分たちがしてしまったことを話しました。神様はどんなに悲しまれたことでしょう。神様は、エバを騙した蛇を呪いました。そしてアダムとエバには、この庭から出ていくように言われました。この日からアダムは家族のために一生懸命働かなければならなくなり、エバは子どもを産む苦しみが与えられることになりました。そして最後に死ぬのです。

 蛇の言葉を信じてしまったエバとアダムは、この庭(エデンの園)から出て行かなければならなくなりました。二人はエデンで今までも働いていましたが、これからは今まで以上に汗水流して一生懸命働いて、それでも仕事が回らなくなりました。今までも、エバは子どもを産む役目がありました。でも、その子どもを苦しんで産んで、せっかく産んだ子どもにも悲しまされ苦しみを与えられるようになってしまいました。そして、最後には誰もが死ななければならなくなりました。
 蛇の言葉は本当だったでしょうか。確かに、触るだけでも死ぬわけではありませんでした。アダムとエバが木の実を取って、食べても直ぐには死にませんでした。けれども、食べても神のように賢くなりはしませんでした。目が見えたとき、自分たちが裸であることが分かり、恥ずかしくなって、隠れるようになったのです。神のようになる、なんて嘘でした。それ以上に大きな嘘があります。それは、神様が私たちに意地悪だ、私たちに隠し事をしている、という嘘です。本当はもっと幸せになれるのに、神様はそれをご存じでいながら、教えないのだ、という嘘です。何かあれば、それは神様が私たちを愛していない証拠だ、という嘘です。蛇の嘘の一番大きな嘘は、神様というお方を愛さなくさせる嘘でした。神様の恵みを小さく卑しくして、疑わせてしまう嘘です。そしてその蛇の嘘が今でも、すべての人の中に染みついています。

 けれども、本当の神様は、蛇の嘘よりも遙かに大きく、すばらしく、恵みに満ちているお方です。ですから、この時も、約束を破った人間をお怒りになって、即座に死なすことはなさいませんでした。園から追い出して、苦しみや死に至る生涯を歩むようになったのも、そこにも神様の良いご計画がありました。アダムとエバを園から追放した後、神様ご自身も園から出てこられて、アダムとエバを追いかけてくださるのです。神様から離れていく人間を、諦めずに追い求めて、神様を信頼して、神の言葉に従うよう、求め呼びかけてくださるのです。人間を騙した蛇や悪いものを、しっかりと呪って、疑いや恥ずかしさが入ってしまったこの世界を、完全に元通りにしてくださるご計画が、このあと始まるのです。それがこの後の、聖書の物語です。

 そのクライマックスが受難週とイースターです。

 神であるイエス・キリストご自身が、この世界に来られました。苦しむようになった人間となり、働いて、最後は裸にされて、死んでくださいました。神の子イエス様は、人の苦しみをともに味わってくださいました。どんなに神の愛を疑わせるような言葉を浴びせられても、神の言葉に従い尽くしてくださいました。神のようになろうとして、裸でしかない私たちを、イエスは愛して、ご自身を献げてくださった。それが、本当の神様です。それが、蛇の大嘘とエデンの園での大失敗をもそのままで終わらせなかった、神の回復の物語なのです。今週の受難週、私たちのためにイエスが最も低くなってくださったことを覚えてます。そのイエス様が、私たちを取り戻してくださる。これこそが、嘘ではない、本当の私たちの物語です。

「私たちの主よ、蛇のどんな嘘にも勝り、あなたは真実であり、御言葉は真理です。嘘を信じ約束を破った子孫の私たちを、真理であるあなたと御言葉への信頼へと、恵みによって立ち戻らせてください。主イエスのいのちによって私たちを死から救い、この世界であなたを賛美させてください。主の苦しみと憐れみを味わう受難週としてください」
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2021/3/28 ローマ書5章1~11節「救い主の死の力」

2021-03-27 12:35:18 | ローマ書
2021/3/28 ローマ書5章1~11節「救い主の死の力」

 3それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、4忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。5この希望は失望に終わることがありません。…

は有名です。苦難、忍耐、練られた品性(練達)[1]、希望。とても美しい言葉です。しかし、この言葉だけを取り出すなら
「自分にはそうは思えない。私は信仰が弱いからこんな立派なことまではとても言えない」
と思うことになるでしょう。
 この手紙の3~5章では、「私たち」著者と「あなたがた」読者という区別は一度もせず、ずっと読者も含めた「私たち」と言うのです。つまり、この手紙を読む誰もが、十字架にかかり、よみがえったイエスを信じているなら、罪の赦しだけでなく、
「私も神との平和を持っていて、「苦難が忍耐を、忍耐が練られた品性を、練られた品性が希望を生み出すと知っています」
と言えるのです[2]。どうしてでしょう?
…なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
 そして、その愛がどんなものか、が6節以下に語られていきます[3]。それは、一言で言えば、
6実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。
7正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。
8しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

 6節と8節で重ねているように、神の愛は、私たちがまだ弱かった頃(まだ罪人であったとき)キリストは不敬虔な者たちのために(私たちのために)死なれた。それが、神の愛とはどんな愛か、を私たちに明らかにしているのです。私が正しかったから、善良だったから、ではないし、それを自覚し反省していたからでもありません。まだ、弱かった頃、何も差し出せる強みがなかった頃、神の方からキリストを遣わして、キリストは死んでくださいました。

 今週は主の苦しみを覚える受難週です。キリストの人としての生涯全体が、計り知れない謙りと献身でした。特にその最後の一週間、十字架に殺されるエルサレムで人々に語り、裏切る弟子たちの足を洗い、苦しみへの道を歩まれました。
 手足を釘で打ち、磔にする十字架という人間が考え出した最も残酷な拷問も、人から笑われて誤解され、憎まれて呪われる苦しみも、私たちの経験を遙かに超える最期でした。
 何より、父なる神から見捨てられ、私たちの代わりに罪への怒りを身に負われた苦痛は、私たちの想像を絶しています。そうしてイエスがご自分のいのちを与えきってくださったのは、私たちがまだ罪人であって、罪人だという自覚もなかった時でした。私たちが救われたいと願うとか、救われるに値する何か欠片の資質でもあったからではなく、そんなものが全く持ちようもない時に、先にキリストが死んで下さったのです。
 人間の側からすれば、自分たちが一生懸命憐れみに縋って願えば、神も憐れんで救うぐらいはしてくださるかもしれない、という発想です。だから罪が赦されるだけでも御の字、と思います。しかし、神の側からすれば、人間が願うより先に、キリストのあの苦難と死をも惜しまなかったのです。それは神が、人間の罪を「赦してあげよう」とか、「これだけしてあげたんだから」と恩着せがましくするような事ではない愛です。まず神が、私たちを愛し、赦しと平和と将来栄光にあずからせようと願っておられ、先に行動された神の愛を明らかにしています。
 9ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。10敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。[4]

 「敵」と「和解」。反対の言葉です。「敵との平和」なんて矛盾しています。それが神の愛なのです。敵が降参したらではなく、敵であった時に命を捨てて、敵対(反逆)を赦し、敵をひっくり返して和解し、永遠に平和な関係を下さいました。ですから、私たちは罪が赦されただけでなく、「神との平和」を持っています。また、苦難にあってそれを「愛の神も何かお怒りに違いない」と思ったりせず、キリストが私たちのために苦しまれたのですから、苦難は神の怒りではない、むしろその苦難を通して神は私たちの心を練られて、希望を持たせたいのだと信じるのです。
11それだけではなく[5]、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。
 神との和解! それは私たちにとって、神が喜びとなる出来事です。それは、神がまず私たちを愛し、喜んでおられると知るからです。キリストが、今から二千年前、本当にあのカルバリの丘で十字架にかかってくださいました。本当に、私たちのために苦しみと死を遂げてくださいました。人が赦しや救いを神妙に願うより先に、罪人であり敵対していた時に、でした。
 私たちは、神との平和を持ち、将来、神の栄光にあずかる望みも喜んでいて、苦難さえも希望に至るためだと知らされています。
 キリストが私たちのために、私たちに先駆けて、あれほどの苦しみを受けてくださったことは、神の私たちに対する大きな愛を現しています。
 その光の中で、私たちは、神との平和を持つ者として、どんな苦難をも新しい目で見始めています。

「主よ。あなたの苦難と死は私たちの想像を絶しています。そこで担われた私たちの罪の大きさも理解できません。それ以上に、罪ある私たちを担われたあなたの愛の大きさを、深さを味わい知らせてください。そこに明らかにされた神の愛を、もう一度私たちの心に注いでください。罪の赦しと、神との平和を持つ者として、遣わしてください。罪の欺きから目覚め、あなたの恵みに忍耐と品性を培ってください。この受難週、主を想い静まって過ごさせてください」

こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。2このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。3それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、4忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。5この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。6実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。7正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。8しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。9ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。10敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。11それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。

脚注

[1] 「練られた品性」ドキメーは「練達」と訳されて、長くこう暗記してきた方も多いでしょう。原意は「証拠」です。

[2] 今日のローマ人への手紙5章は、4章最後の言葉を受けて、救いを豊かに展開する章です。ローマ4章25節「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。五1こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。…」と続くのです。主イエス・キリストによって、私たちは神との平和を持っている。

[3] 「ご自身の愛」は、強調形ヘアウトゥー・アガペーです。一般的な「彼の愛」アガペー・アウトゥーよりも強い言い方になっています。

[4] 神は私たちに対する愛を、私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死なれたことによって明らかにされた。それを、私たちは信じるのだ。私たちの信仰が根拠になって、キリストが私たちを救って下さるのではない。キリストが救って下さる愛が根拠になって、私たちは信じる。そこには、神との平和、栄光にあずかる望み、苦難を通しての希望さえ含まれている。

[5] 「それだけではなく」は、3,11節で繰り返されています。こうして福音が、罪の赦しだけでなく、平和・望み・苦難さえも喜び、和解・救いだけでなく、神を喜ぶことさえ含んだ豊かなものであることをイメージさせています。「神との平和」は、単なる「休戦状態」や表面的な和平以上のものです。それが、「神を喜んでいる」という言葉で言い表されています。旧約の「シャローム」という言葉に含まれているのは、繁栄・完全さ・祝福であり、用法をたぐっていくならば、「支払い済み」というニュアンスがあるとも言えます。私たちは、キリストによって、すべての「支払い」がもう済んでいると確信できるのです。考えられないほどの恵みです!

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