聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/6/7 コロサイ1章19~20節「万物の刷新」ニュー・シティ・カテキズム26

2020-06-06 14:38:27 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/6/7 コロサイ1章19~20節「万物の刷新」ニュー・シティ・カテキズム26

 前回は、キリストの死によって、私たちが神のものとされたことの中で、私たちのどんな罪も、その妨げにはならないことをお話ししました。小さな罪も、大きな罪も、神が私たちを救うことの妨げにはなりません。私たちはついつい、神様を小さく考えてしまいます。自分の力や、問題や、失敗が、とても大きいように考えてしまいます。神の大きな愛を小さくして、自分の小ささを大きく考えすぎてしまうのです。安心してください。神は、世界を造られたお方です。私たちは、その大きな神の世界の中に生かされています。神に背いた罪は清算されなければなりませんが、それを神はしてくださって、私たちを回復してくださるのです。私たちの罪や不安や間違いを大きく考えすぎず、その一つ一つを一緒に担って、ともに歩んでくださる主イエスを信頼しましょう。

 その事を信頼するためにも、もう一歩踏み込んでキリストの贖いの大きさを思い描きましょう。

第二十六問 ほかになにがキリストの死によって贖われるのですか?
答 キリストの死は、堕落した創造物すべての贖いと刷新の始まりであり、それらは、キリストがご自身の栄光と創造物の益となるためにすべてのものを力強く導くことによってもたらされます。

 キリストが死んだ事は、私たちのためだけではありません。「創造物すべて」、神が作られたこの世界全体が、贖われ、刷新されることの始まりでした。神の子である主イエスが、人となって、十字架で死んだことは、本当に大きな、測り知れない出来事です。それは、ただ、その中の一部の人だけのためではないのです。全創造物を贖うという始まりだったのです。そして、キリストは死んで終わらず、三日目によみがえって、今も生きておられます。主イエスは、今に至るまで、すべてのものを力強く導いておられます。目には見えませんが、目に見えるものすべてにキリストは働き続けておられます。力強く、導いておられます。その事は、今日のコロサイ書でも言われています。
コロサイ一19なぜなら神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、20その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。

 「御子」イエスは、神の神たる溢れるものを宿らせているお方です。そのお方が、人となって、十字架にかかって流された血は、限りなく尊い力があります。その血によって平和がもたらされて、万物が癒やされる。ただイエスを信じる人が救われる、という以上に、地にあるものだけでなく、この世界のすべてのものが、御子イエスによって、和解させられるのです。神が作られた世界がバラバラになっている状態が、イエスによって、和解させられるのです。キリストが私たちのために十字架にかかったことは、私たちの罪がすべて赦されるためだけでなく、万物を和解させるものでした。
 今、新型コロナウイルスの感染を防ぐため、皆が気をつけて、動けなくなっています。この事は大変ですが、コロナで見えてきたのは、私たちがどれほどお互いに繋がっているか、ということです。「誰も一つの島ではない」という言い方もよく聞きます。島が離れているように、人間もお互いに無関係で、孤独で、何をしようと関係ないように思っていたのが、そうではないとハッキリ分かってきたのです。誰かがウイルスを防ごうとしたら、それは周りの人も守ることになり、誰かが「自分一人ぐらい好きにしよう」と感染への注意を忘れたら、自分の家族や大切な人や知らない人にも感染をさせてしまうことになります。誰かが、噂を流せばそれが広がり、親切をすればその親切が拡がります。私たち一人一人が何をするかは、それだけ世界を少し変えるのです。それぐらい、私たちは繋がっていて、お互いを必要としています。誰も「どうせ私一人ぐらい」とは言えないし、誰も「あんた一人なんて」とは言えません。この世界は、そんな繋がりでバランスを保っているのです。でも、それを忘れて、バラバラな生き方をして、人を傷つけたり、社会を壊したり、自然破壊を続けている現実があります。それぞれが島に分かれ住んでいるように思っている。これが、堕落した世界の壊れた問題です。


 この世界に、キリストが来られて、十字架に血を流された事は、バラバラになっていた世界を和解させる始まりでした。私たちと神との和解だけではなく、この世界を本来のつながり、結びつきと回復する始まりでした。勿論、まだ世界はバラバラでもあり、戦いがあります。環境破壊もあり、災害も起きています。しかし、そのことを通しても、私たちがお互いに繋がり合うことの大切さが明らかになります。自分の事だけを考えていれば良いのではないことを、強く教えられています。そうした事を通して、すべてのものを主が力強く導いておられると信じることは大きな力です。主は、この世界をお造りになったお方です。この世界を作られた目的を、神は必ず果たされるのです。それは、主イエスご自身の栄光のためでもあり、私たちや全世界の益のためでもあります。

 私たちにはその完成がどんな平和なのか、今は完全に分かることは出来ません。ただ主が、すべてを治めて、やがて全てを新しくし、完成して下さることを信じています。今のバラバラな状態が癒やされて、新しくなることを信じています。
 それは「将来への希望」というだけではありません。今この時も、主イエスが力強く働いておられることを信じて、ここに生きていくのです。主イエスが働いておられるように、私たちも働きます。主イエスが私たちも用いて、和解のわざをして下さるように、祈ります。暴力や暴動で抵抗するのではなく、どうすれば、本当の平和・和解が出来るのか、一緒に学びながら歩んで行きます。また、問題を見る以上に、この世界のすべてが、主によって贖われて、この自然のあちこちに、主の栄光が現されていることにも励まされていくのです。
 教会の働きは、教会の中だけ、教会のため、ではありません。皆さんが、ここから出て行くすべての生活において、神の和解の業を信頼し、やがての刷新が来る希望をもって生きていくように励まして、皆さんを遣わすことなのです。

「被造物を贖ってくださる主よ、世界はいま堕落し、あなたの御国の素晴らしさを呻き求めています。しかしあなたは決して、このままにしておかれることはありません。終わりの日に、すべてを新しく造り変えてくださることを感謝します。あなたの贖いの御業がすべての被造物にまで及んでいることに、私たちは喜びを覚えます。アーメン」
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2020/6/7 Ⅱ列王記5章1~8節「私は神ではないけれど 一書説教 Ⅱ列王記」

2020-06-06 14:04:19 | 一書説教
2020/6/7 Ⅱ列王記5章1~8節「私は神ではないけれど 一書説教 Ⅱ列王記」[1]

 6月の「一書説教」は、前回の続き。「聖書通読表」で24日から読む列王記第二です。主イエスが来られる前、紀元前九世紀の半ばから六世紀初めまでの三百年弱の歴史です[2]。列王記第一でイスラエルは南北に分裂し、北イスラエル王国と南ユダ王国に分かれました。第二では、17章で北イスラエル王国が遂にアッシリヤ帝国に攻め落とされて、イスラエルの民はアッシリヤや遠方の諸国に連れて行かれます[3]。南ユダ王国も浮き沈みをしながら、最後の24、25章では首都エルサレムが陥落し「バビロン捕囚」に至る。坂道を転がり落ちる悲劇の歴史書です。

 その間に鏤められるのは、前半には、預言者エリヤとその後継者の預言者エリシャの活躍。後半は、信仰的なヒゼキヤ王と預言者イザヤ、その息子の極悪非道のマナセ王、その孫のヨシヤ王の大胆な「宗教改革」といった顛末が書かれます。どれもイスラエルを最終的な陥落から救うことは出来ませんでしたが、それでも、少なからぬ意味はあったと聖書は言うようです[4]。
 今日の5章は「ナアマンの癒やし」を伝えます。アラムの将軍ナアマンは病気で、掠(さら)ったイスラエルの若い娘から、故郷の預言者の名を聞き、会いに行く。その時、イスラエルの王は、
7…私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。…
とやけっぱちになります。「私は神ではない」と。これを聞いたエリシャが、王に言うのです。
8…「あなたはどうして衣を引き裂いたりなさるのですか。その男を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」
 エリシャは神ではありませんが、その神から言葉を預かり、その神、主を証しする預言者でした。王も私も神ではないけれど、神がおられ、働かれている。そう語るエリシャとの出会いから、ナアマンはこの後、ツァラアトを癒やされ、主を信じるようになるのです。
 このナアマンの癒やしを、主イエスご自身が引用している箇所があります。ルカの四章です。
23預言者エリシャのときには、イスラエルにはツァラアトに冒された人が多くいましたが、その中のだれもきよめられることはなく、シリア人ナアマンだけがきよめられました。」[5]
 確かにそうなのです。エリシャは数々の奇蹟をしましたが、奇蹟の力を盾に、サマリアで多くの人を神に導いたり、王や指導者に悔い改めを迫ったり、社会を変えようとはしません。先のエリヤが天から火を下したようなことは何もしません[6]。新約で、イエスの先に登場した洗礼者ヨハネがエリヤの再来だったなら、エリシャはイエスの予型とも言えます[7]。でもそのエリシャは、目立った派手派手しい働きや、力尽くで権力者に迫り悪と闘うことを手放している。むしろ、同僚の家族を養ったり、出会った夫婦に子どもが授かるよう祈り、その子どもが死んだ時、自分の命を重ねてよみがえりを戴いたり、小さな業を大切にすることに徹しています。Ⅱ列王記は、王の悪政や、諸外国との戦争や駆け引きの時代です。災害、飢饉や干ばつも多々起こり[8]、貧困問題もあり、預言者達も借金で汲々としていました。暴力的な政権転覆(クーデター)も度々起きますが、そうした血腥(ちなまぐさ)い革命は必ずまた、同じ悪の路線を踏襲して、最後は暴力的にその座も命も奪われています[9]。でも、その大きな破局への悲劇の中、エリシャ達が、小さな関係を喜び、小さな繰り返しを大事にしている。神の静かな慰めが小さく輝いているのです。
 そうです。Ⅱ列王記には、罪を責める以上の眼差しがある。それは
「やがて本当の王が来てくださる。その来たるべき王にこそ、救いも望みもある」
という聖書全体の主題です。神から離れた人間は思い上がり、失敗し、無理に改善しようとして悲劇を招いてしまう。でも、その人間を、神は憐れみ、導いて、心に神への信頼と、お互いへの愛や恵み、慰めや励ましを育てる神がおられます。神がいて治めておられる、という希望があるのです。
 そして、やがて王イエスが来られました。イエスに、神の力や奇蹟で社会を変えることを期待した人たちもいましたが、イエスが彼らに思い出させたのが、このナアマンの出来事です。
 真の王なる神は、敵のアラム人を癒やす神です。
 イスラエルから連れ去られた少女の優しさを用いる神です。彼女の小さな運命や赦しや勇気が、神の御業を産み出したのです。人には思いも寄らないことをなさる神[10]。神を忘れた人に、自分も神ではないけれど、本当の神がおられる。私たちも「私は神様じゃないんだから」と言いますが、神はおられる。その神はどんな神かが、このナアマンの癒やしにも、物語られています。それはイエスに通じる、待ち望む信仰、小さな愛を祝福される神です[11]。
 Ⅱ列王記の結びは、バビロンに囚われたエホヤキン王が温情を受けた。牢から出され、優しい言葉をかけられた記事です。
「ユダの王エホヤキンが捕らえ移されて三十七年目の第十二の月の二十七日、バビロンの王エビル・メロダクは、王となったその年のうちにユダの王エホヤキンを牢獄から呼び戻し、28優しいことばをかけ、バビロンで彼とともにいた王たちの位よりも、彼の位を高くした。29彼は囚人の服を脱ぎ、その一生の間、いつも王の前で食事をした。30彼の生活費はその日々の分を、一生の間、いつも王から支給されていた。」[12]
 悪い王が最後優しく扱われる。これは、エレミヤ書の結びで、ほぼそのまま書き写されています[13]。涙の預言者エレミヤが捕囚の散々な時代を歩んだ悲しみの記録の結びに使う希望のエピソードは、列王記が結びとしていた出来事です。列王記は、どん底にあって、なお主がおられる、希望はあると語っています[14]。私たちは神ではなく、生ける神がおられる。今ここでもどんな王にも勝る主イエスを仰ぎながら、歩めるのです。[15]

「王なる主よ。列王記を有難うございます。私たちは神ではありませんが、神であるあなたがいてくださり、あなたにしか出来ないことをしてくださいます。人を戒めるだけでなく、あなたがどこにでも御業を為し、世界を癒やし、恵みを注がれます。どうか今も、私たちをあなたを疑って、待てなくなる愚かさから救い出してください。世界に働いておられる良き御支配を待ち望み、小さな良き業を喜ばせてください。世界も私たちの心をも癒やして用いてください」

脚注

[1] 以前から紹介している「Bible Project」が、日本語版の「列王記」を追加してくれました。こちらからぜひ鑑賞して下さい。(もちろん、全部鵜呑みにする必要はありません)https://youtu.be/j0n4ifWAoTY
[2] 前853年アハブの戦死から、586年のユダの陥落まで。
[3] これが、紀元前七二二年の「アッシリヤ捕囚」です。
[4] ですから、道徳的だけにこの書を読んでしまい、「絶望的で反面教師でしかない」というのも違うでしょう。
[5] ルカ4:23~27「そこでイエスは彼らに言われた。「きっとあなたがたは、『医者よ、自分を治せ』ということわざを引いて、『カペナウムで行われたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ』と言うでしょう。」24そしてこう言われた。「まことに、あなたがたに言います。預言者はだれも、自分の郷里では歓迎されません。25まことに、あなたがたに言います。エリヤの時代に、イスラエルに多くのやもめがいました。三年六か月の間、天が閉じられ、大飢饉が全地に起こったとき、26そのやもめたちのだれのところにもエリヤは遣わされず、シドンのツァレファテにいた、一人のやもめの女にだけ遣わされました。27また、預言者エリシャのときには、イスラエルにはツァラアトに冒された人が多くいましたが、その中のだれもきよめられることはなく、シリア人ナアマンだけがきよめられました。」
[6] むしろ、エリシャの働き。エリヤの活躍に比して、地味。だが、「派手な活躍が、回心を引き起こすわけではない」ことこそ、エリヤ、Ⅰ列王が至った結論だったのです。
[7] 名前も、エリシャ(神は救い)とイエス(ヨシュア、主は救い)と似ています。
[8] Ⅱ列王記4:38「エリシャがギルガルに帰って来たとき、この地に飢饉が起こった。預言者の仲間たちが彼の前に座っていたので、彼は若者に命じた。「大きな釜を火にかけ、預言者の仲間たちのために煮物を作りなさい。」、6:25「サマリアには大飢饉が起こっていて、また彼らが包囲していたので、ろばの頭一つが銀八十シェケルで売られ、鳩の糞一カブの四分の一が銀五シェケルで売られるようになった。」、8:1」エリシャは、かつて子どもを生き返らせてやったあの女に言った。「あなたは家族の者たちと一緒にここを去り、とどまりたいところに、しばらく寄留していなさい。主が飢饉を起こされたので、この国は七年間、飢えに見舞われるから。」
[9] 政権転覆は、エフー、アタルヤ、ヨアシュ、ペカ。みな、自分も、クーデターで倒されている。暴力的なクーデターは暴力的に倒され、非暴力のクーデターは長生きする。これは、現代には定説化されています。非暴力革命のすすめ ジーン・シャープの提言も参考に。
[10] 今日の所でも、ナアマンにエレミヤを紹介したのは、囚われていた一人の若い娘でした。掠(さら)われて異国で奴隷になる。当時は少なくなかったのだとしても、その彼女が恨んだり憎んだりいい気味だと思ったりせず、ナアマンの癒やしを願った。そういう小さな働きによって、神の業は確かに前進していったのです。
[11] 今、アメリカの黒人差別への抗議のデモが、暴動や鎮圧する軍隊の出動以上に、非暴力で抵抗しよう、憎しみや暴徒化するより平和的に抗議しよう、といううねりになろうとしています。イエスは悪を責めて追い出すより、罪の赦しと癒やしによって治める王でした。この主を見上げて、待ち望みながら、私たちが自分を差し出していく歩みは、神の希望のご計画に確かに用いられます。そうできるのも、主イエスの御業なのです。
[12] Ⅱ列王記25:27~30
[13] Ⅱ列王記24章18~25章30節、は、エレミヤ書の結び(52章)とほぼダブる。エレミヤは、39:1~10でもこれを強調している。
[14] 同じく、エレミヤに先立つ大預言者イザヤの真ん中、36章から38章も、このⅡ列王記をほぼそのまま書き写しています。
[15] 13:23「主は、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約のゆえに、彼らを恵み、あわれみ、顧みて、彼らを滅ぼし尽くすことは望まず、今日まで、御顔を背けて彼らを捨てることはなさらなかった。」
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