聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/6/21 ヨハネ伝3章16~18、36節「神の御前から」ニュー・シティ・カテキズム28

2020-06-21 14:18:20 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/6/21 ヨハネ伝3章16~18、36節「神の御前から」ニュー・シティ・カテキズム28

 神様は、主イエスを信じる人にも信じない人にも恵みを惜しまれない方です。では、キリストを信じても信じなくても変わらないのでしょうか? 

第二十八問 信仰によってキリストと一つとされていない人々は死後どうなるのですか?  
答 彼らは裁きの日に、恐ろしくも、正しい有罪の判決を受けます。そして彼らは神の良き御前から追い出され、地獄に入れられ、正しく、悲しみに満ちた永遠の刑罰を受けます。

 「地獄」は聖書に出て来て、イエスが何度も言及された言葉です。地獄は、キリストを信じない人が、無理矢理神の前から追い出されて、行かされる場所ではありません。神は私たちを招き、御前にいるように作られたのです。それを人間の方が、神の前から飛び出して、神のいない世界に出て行ったのです。キリストはその人間のために、神の場所から飛び出して、私たちの所に来て下さいました。十字架の苦しみにまで謙って、私たちやどんな人の所にも近づいて、手を差し伸べてくださったのです。罪の赦しと神との和解を差し出してくださいます。それを受け入れる信仰も、神の側からの不思議な贈り物です。「キリストを信じないから地獄に行く」ではなくて、元々、神を退けたことが「有罪」なのです。その「有罪」はキリストを信じなかった、という有罪ではなく、神を拒んだ有罪で、キリストは、そこから救い出してくださる恵みを下さったのです。でも、それを受け入れる事は出来ないくらい、人間の中には、神の前から逃げて、神なしに、自分が神になって生きたい、という妄想が染みついてしまっているのです。

 「地獄」とはどんな場所でしょうか。聖書に出て来る「地獄」とは「ゴミ捨て場」という言葉です。エルサレムの街のゴミ捨て場、ヒンノムの谷はゴミを燃やす火がいつも燃えていました。でも、今のゴミ焼却炉のように超高温の焼却炉があったわけではありません。燃える暑い火でゴミを苦しめて懲らしめるというより、ゴミ捨て場だから火も燃えていたのです。この「ヒンノムの谷」(ゲー・ヒンノム)から「ゲヘナ」、地獄と訳される言葉が出ました。神様から離れたら、人は、どんどん命を失って、最後には、人間としてはゴミのようになってしまいます。神がくださる命も、喜びも、愛も、希望もない。不安や、ワガママでいっぱいになります。自分でも自分が嫌いになり、後悔やごまかしばかりするようになるでしょう。全ての良いものは神様からの贈り物です。その良い物を失った時、私たちはどんなになるでしょう。それはとても恐ろしい事です。



 恐ろしい、と言う以上にここには「悲しみ」と書かれています。そう、愛である神様から離れることは、悲しい事です。ですから、イエス様が私たちの身代わりに十字架にかかって下さる時、イエス様は「私は恐ろしくて死ぬほどです」とは言われず、
マタイ26:38わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。
と言われました。神から離れた状態は、悲しみです。しかし、繰り返しますが、その状態から救い出すために、イエスはその地獄の悲しみを味わってくださったのです。悲しみから救うために、イエスは来られたのです。神は私たちを救ってくださるのです。
ヨハネ3:16~18神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。17神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。18御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。

 神は世を裁くためではなく、救うために御子を世に遣わされました。御子を信じれば救われるのです。でも、信じない人は信じないこと自体が、神の御前に戻るよりも神から逃げていたい、という選択でした。その反逆が最後には成功して、本当に神の御前から遠く離れた場所に行けるのです。そこから救うために命も惜しまなかったイエスですが、無理矢理そこから連れ出すことはなさいません。それは彼らが望まないのですから。

 もう一つ思い出してください。神は良いお方です。私たちのうちに救われるための信仰を下さるお方です。その方が、私たちにも他の人にも、救いを豊かに下さるでしょう。決して、「信じないと地獄に行くぞ」と脅してはなりません。そんな救いなら要らないでしょう。また、「キリスト教」を信じている人でも、「信仰によってキリストと一つとされていない人々」はいるでしょう。逆に、聖書を見れば、イエスが来られる前、キリストのキの時も知らないけれど、神の民とされている人々は大勢います。



 キリストが心に働いて、神への悔い改めを与える業は、見えないお働きです。そして、私たちは、神がどの人にもひっそりと心の内に働いておられる、良いお方であることを信じましょう。

 「地獄の門は内側から鍵がかけられている」
といいます。「地獄とは、成功した反逆者達のいる場所」だとか、「罪人の求める、神からの自立と独立の究極の形です」とも言います。今でも、物凄く不安で、淋しく、悲しいのに、強がって、楽しみに逃げて、人も神も笑っている人たちはいるかもしれません。そんな閉じ籠もった世界の、ゾッとするような楽しみがあるとしても、そんな快楽から救い出されたことを感謝しましょう神の恵みを戴いて、私たちは、頑固に滅びる生き方から救われるのです。本当に有り難い恵みです。今日の言葉は、信じない人を脅すための言葉ではなく、私たちが神に背いたままの生き方ではどうなっていたかを思い出し、謙虚に感謝するための告白です。

詩篇73:23~28
あなたは私の右の手をしっかりとつかんでくださいました。
24あなたは 私を諭して導き 
後には栄光のうちに受け入れてくださいます。
25あなたのほかに 天では 私にだれがいるでしょう。
地では 私はだれをも望みません。
26この身も心も尽き果てるでしょう。
しかし 神は私の心の岩 
とこしえに 私が受ける割り当ての地。
27見よ あなたから遠く離れている者は滅びます。
あなたに背き 不実を行う者を あなたはみな滅ぼされます。
28しかし 私にとって 神のみそばにいることが 幸せです。
私は 神である主を私の避け所とし
あなたのすべてのみわざを語り告げます。

「地上のすべてのものを裁かれる神よ。あなたとの契約のうちにいなければ、どれほど恐ろしい裁きが私たちを待っていることでしょうか。あなたから離れていたら私たちも裁きを受ける身でした。どうか、手遅れになる前に、私たちの愛する人々もあなたと和解し、彼らが受けるべき罪の報いの苦しみを味わうことがありませんように。アーメン」
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