聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/6/28 エペソ書章8~9節「いい加減な信仰でも」ニュー・シティ・カテキズム29

2020-06-27 11:17:33 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/6/28 エペソ書章8~9節「いい加減な信仰でも」ニュー・シティ・カテキズム29

 「いい加減な信仰でも」なんていう題でお話をするのは、不真面目かもしれません。真面目でない信仰なんて、と思う人は大勢いるでしょう。そう考えると、聖書の信仰は私たちに、真面目になる事とは全く違う、ビックリする話をしているのでしょう。
第二十九問 私たちはどのようにして救われることができるのですか?
答 イエス・キリストと主の十字架上の身代わりによる贖いの死を信じるのみです。私たちが神に従わず、あらゆる悪を行う傾向があったとしても、私たちが悔い改め、キリストを信じるとき、神は、私たち自身の功績によるのではなく、ただ純粋な恵みによって、 私たちにキリストの完全な義を与えてくださるからです。

 どのようにして救われるのだろうか。良い事をして、悪いことを止めて、礼拝に休まずに来たら、救われる。そう思ったら、ここでは
「イエス・キリストとイエスの十字架の身代わりによる贖いの死を信じるのみ」
というのですね。イエスを信頼する。そのイエスが十字架で私の身代わりに死んでくださったことを信じる。それだけだと言います。更に「私たちが神に従わない」-神に従っているかどうかを言われたら、従わなかったことは言い逃れようがなくても、それでも、それだからだめだ、とは言われないのです。
「あらゆる悪を行う傾向があったとしても」
とは強烈です。怒りっぽい、身勝手、嘘をつきそう、妬んだり、ひがんだり、疑ったりする、そういう傾向が心の中にある。それで、いくら信仰をもっても、そんないい加減な信仰ではダメだ、ではないのです。
 勿論、神に従わないままでいい、あらゆる悪を好きなようにしていい、あるいは、ちょっとぐらいならしていい、と言うことではありません。なぜなら、神に従わないことは、私たちにとって害です。悪を行えば、必ず悲しい結果が生じ、その刈り取りを引き受けなければならなくなります。それは、避けた方が良いに越したことはありません。でも、どんなに避けようとしても、私たちは完璧には程遠い人間です。
 聖書を書いた使徒パウロがそうでした。パウロはとてもすぐれた学者で、ローマ帝国を広く旅した熱心な伝道者でもありました。でも、彼は以前、教会もイエスも憎んでいた迫害者でした。キリスト者を捕らえて殺し、教会を潰そうとしていた人だったのです。
Ⅰテモテ1:13私は以前には、神を冒瀆する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。14私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました。15「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
 主イエスに従うどころか、暴力で反対した、その過去はいつまでもパウロに付きまとっていたことでしょう。だから「あのパウロが救われるなんて信じられない。いくら良いことを書いた手紙をもらっても、どんなに大変な伝道旅行をしても、あんな過去のあるパウロは、認められない。信じられない。救われるなんて思えない」。そういう人もいたかもしれません。確かにそうです。神様に従わなかったパウロが救われることは驚きです。
「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」
という言葉は、パウロのような迫害者、罪人が、イエスに出会って、イエスを信じる信仰、イエスの愛を持つようになったことに、ハッキリと証言されているのです。しかし、それはパウロの過去の事だったとしても、パウロはイエスを信じて、伝道者として生きている今、もう一点の曇りもない、純粋な信仰を持っていたのでしょうか。いいえ、こう言っています。
ローマ7:18私は自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。19私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。20私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。
 パウロは今も、内面には葛藤がありました。良いことをしたい願いはあるのに実行できない。したくない悪を
「あらゆる悪を行う傾向」
がある。私も牧師ですが、自分の心にはたくさんの醜い心があります。誰かが、自分の心の中まで見通すメガネを持っていたら、とても恥ずかしくて逃げ出させてもらいたいです。教会に来ている人、すべてのクリスチャンは、イエス・キリストへの信仰を持ちつつ、
「あらゆる悪を行う傾向」
も持っています。罪を犯さない人ではなく、罪があることを認めて、その度にイエス様に向き直り、その救いにすがるのがクリスチャンです。その時「神は」私たちの信仰や心や悔い改めが純粋だからではなくて、
「ただ純粋な恵みによって、私たちにキリストの完全な義を与えてくださる」。
 私たちの罪を赦して罰しないだけでなく、キリストの正しさが私たちのものであるかのように見て下さって、私たちと和解してくださるのです。
 キリストが私たちのために完全で、十分なことをしてくださり、私たちにゆるし以上の恵みを下さいます。それを信じます。私たちの信じ方の純粋さや、正しさではなく、信じる対象である、主イエスが大事なのです。飛行機が空を飛ぶとき、私たちは勿論、飛ぶことを信じます。でも、搭乗客が「飛ぶ」と純粋に信じているから飛行機が飛ぶのではありません。お客の理解が足りなくても、揺れたときに疑ったり恐怖でパニックになったりしても、飛行機は飛んでくれます。だから、安心して乗ることが出来るのです。

 イエスの救いもそうです。私たちがいい加減でも、行動や心が不純だらけの信仰でも、イエスが私たちを救って下さること、十字架の死が身代わりの、確かな死だったことを信じるのです。それが足りなくて、私たちが何かを付け加える必要はありません。
エペソ2:8この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。9行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
 だからこそ、私たちの生き方は、誇ったり自分を正当化しようとしたり、間違いを隠したりすることが全くない、本当に新しい生き方に変えられていくのです。

「憐れみ深い主よ、私たちは自分の高慢さや見せかけの義を捨て、悔い改めと信仰をもって御前に近づきます。キリストの死によって、私たちにいのちが与えられていることを信じます。あなたが与えてくださった救いを賛美します。アーメン」

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2020/6/21 マタイ伝8章14~17節「病を担う王」

2020-06-27 11:17:33 | マタイの福音書講解
2020/6/21 マタイ伝8章14~17節「病を担う王」

 今日から8章に入ります。丁寧に見るなら、
8章1~4節は「ツァラアトに冒された人のいやし」
5~13節は「百人隊長のしもべの癒やし」
そして、この14節の「ペテロの姑の癒やし」
が書かれています。こうしてまとめて読むと、癒やしが並べられていることに気づけます。山上の説教で群衆を驚かせたイエスは、今度は癒やしの奇蹟によって、人々を驚かせました。
 それは本当に驚きでした。ただ、病気を癒やすという驚き以上の驚きがありました。それは、ツァラアトという「汚れ」と見做されていた病気の人の癒やしから始まった、という驚きです[1]。この病気は「神の罰だ、汚れの現れだ」とされて、触ることも忌み嫌われていた。見た目の悲惨さと、聖書の誤解でひどく差別されていた病気です。イエスは退けたり逃げたりせずに、手を伸ばして触り、きよくされました。
 続いたのは、異邦人である百人隊長です。異邦人(ユダヤ人ではない外国人)はユダヤ人からすれば、選びの民ではない、生まれつき呪われている異教徒、滅びの民と考えられていました。ところが、イエスはその異邦人の百人隊長の願いを聞いて、しもべを癒やされます[2]。これも当時のユダヤ人からすれば非常識なことでした。
 それに続いたのが14節の、ペテロの姑の癒やしです。女性で高齢者というのも、当時の社会では軽んじられていました。今はどうでしょう。女性や子ども、病人や障害者、見た目が変わっている人、外国人・文化や宗教の違う人が、その立場であるというだけで不利な社会であることが今も大きく問題にされています。家を借りることも大変だったり、入試でも就職でも拒まれたり、犯罪の被害を訴えても取り扱ってもらえない。そんなことが、今もまた日本でも世界でも叫ばれています。イエスが癒やされたのは、まさにそういう人たち、差別されている人たちでした。その人たちを率先して受け入れて、癒やされた。それは病気の癒やしだけでなく、癒やされる価値がある、人として尊厳を認めてもらう、そういう癒やしでもありました。
 こうして始まった癒やしが、16節で大勢の人が連れて来られて、癒やされて、17節では、
17これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」
と言われます。預言者イザヤのこの言葉は、イザヤ書53章4節の言葉です。しかし、ちょっと考えるとイエスは人の病気を癒やされたのであって、担ったり背負ったりした、というのは違うような、こじつけのような気もします。病気や悪霊をイエスの権威で癒やされ、近寄らなくても癒やせるほどの権威があった、というのがここまでの病気の癒やしでした。でも、病気の癒やし以上に、これが汚れていると忌み嫌われた病人や、外国人・異教徒と偏見を持たれた百人隊長、そして癒やしを願われることさえなかった姑、そういう病んだ社会への挑戦だったと気づくなら分かります。イエスは、彼らを癒やすことによって、もっと大きな荷物を引き受けられました。そして、最終的にはその分け隔てない愛のゆえに、十字架に殺されたのです[3]。
 マタイの福音書はイザヤ書から、明言されているだけでも6回、その他でも5回引用しています[4]。イザヤはイエスの時代から六百年前の預言者ですが、当時の特権階級に有利な、形式的な信仰のあり方を批判した人です。そして、やがてメシヤが「みどりご」として生まれ、私たちの病を背負い、苦しみを受け、そのいのちをささげ物として、私たちを回復し、治めてくださると預言しました。マタイはイザヤ書を繰り返し引用して、イエスがイザヤの約束した王だと告げています。イエスは病気の癒やし以上に、私たちの生き方全体を回復なさるのです。
 今回のコロナウィルスの事でも、ウィルスと同時に、不安とかデマとか差別が感染してしまうことが検証されつつあります。病気らしい、医療関係者だ、中国人だ、県外ナンバーだ…そういう事で中傷や排除がされる。「病気よりも人間が怖い」と心が病んだ人がいます。これこそ人間らしさを失った、悲しい病気です。イエスは世界に来られて、病んだ社会、差別されている者の苦しみ、差別する者の罪を担われました。病気の症状の癒やしは始まりで、人に染みついている、罪の冷たい病を担って、長い癒やしを続けています。神が治める国、誰もが人として、神の子として生き、死ねる共同体をイエスは始めたのです[5]。それは病気の癒やしよりも困難な癒やしですが、イエスは必ず癒やして、私たちの冷えた心も関係も癒やしてくださる。
 癒やされたペテロの姑は、イエスをもてなしました(欄外「仕えた」)。癒やされることと、仕えることとは、切っても切り離せません。病気が治るだけでなく、誰かを喜ばせたい、誰かを助けたい、「ありがとう」と感謝されたい。そういう渇きが人にはあります。生きているだけでも、誰かが喜んでくれる。そう思えない心は、病んでしまいます。イエスは病気を癒やしただけでなく、姑のもてなしも喜んでいます[6]。病気の癒やし以上の交わりを与えたのです。イエスは、実にここに「天の御国」について教えられたことを、見える形で産み出されました。癒やしの奇蹟は、キリスト者の多くは受け継ぎませんでした。しかし、末期の病人を、自分が感染することも恐れずに介抱するような共同体、神から与えられたいのちを尊び合う共同体が始まりました。教会は医学も発展させましたし、人が人として扱われ、喜ばれて、安心して死ねるホスピスや「死に向かう人の家」を作ったのもその実です[7]。その延長に私たちもいたいのです。

「癒やし主なる主よ。どうぞいのちの祝福で満たしてください。どんな人も、あなたによって尊く生かされ、救いや癒やしを、温かさと生き甲斐を求めている、そんな当たり前のことを見失って、心を閉ざしてしまう私たちの病を癒やしてください。あなたが始められた、神の御国の喜びに、私たちの思いや言葉も新しく、温かく変えて、仕え合う喜びに与らせてください[8]」

[1] この病気が本来どんな病気だったのかは実はハッキリしていません。長らく「癩病」、今では「ハンセン病」と呼ばれる病気と考えられてきました。この病気が日本でも長く誤解され、悲惨な差別を受けて、隠されてきた歴史に、キリスト教会も少なからず荷担してきました。「天荊病」などと呼んで、罪の象徴だと見做してきたのです。
 この説教の前日(2020年6月27日)の徳島新聞1面にあったこの記事は、今日のイエスのみわざと重なって、私たちに迫ってきます。

[2] また、イエスは、百人隊長のうちに、イスラエルのうちにも見たことがない信仰を見た、と仰いました。これも、単なる「立派な信仰」の教えというよりも、屈辱的・言語道断と言える爆弾発言でした。
[3] 「イエスはすべての病気を癒やす」→「どんな病気も癒やされるはず」→「癒やされない病気があるのはイエスのせいではない」→「癒やされないのは本人の罪・不信仰・祈りの欠如」という、本末転倒な論法もないか。
[4] マタイの福音書3:3(イザヤ書40:3~4)「この人は、預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われた人である。」、4:14~16(イザヤ書9:1)「これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。15「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。16 闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」」、8:17(イザヤ書53:4)「これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」、12:17~21(イザヤ書42:1~4)「これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。18「見よ。わたしが選んだわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は異邦人にさばきを告げる。19彼は言い争わず、叫ばず、通りでその声を聞く者もない。20傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない。さばきを勝利に導くまで。21異邦人は彼の名に望みをかける。」」、13:14(イザヤ書6:9)「こうしてイザヤの告げた預言が、彼らにおいて実現したのです。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない。15 この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じているからである。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返ることもないように。そして、わたしが癒やすこともないように。』」、15:7~9(イザヤ書29:13)「偽善者たちよ、イザヤはあなたがたについて見事に預言しています。8『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。9彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』」」、そして、27章の受難記事では、多くがイザヤ書53章を踏まえています。例えば、27:12~14(イザヤ書53:7)「しかし、祭司長たちや長老たちが訴えている間は、何もお答えにならなかった。13そのとき、ピラトはイエスに言った。「あんなにも、あなたに不利な証言をしているのが聞こえないのか。」14それでもイエスは、どのような訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。」、25(イザヤ書53:3)「すると、民はみな答えた。「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に。」、57~60(イザヤ書53:9)「夕方になり、アリマタヤ出身で金持ちの、ヨセフという名の人が来た。彼自身もイエスの弟子になっていた。58この人がピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。そこでピラトは渡すように命じた。59ヨセフはからだを受け取ると、きれいな亜麻布に包み、60岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。そして墓の入り口に大きな石を転がしておいて、立ち去った。」。また、1:22~23(イザヤ7:14)「このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。23「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。」、21:13(イザヤ56:7)「そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている。」」、26:24「人の子は、自分について書かれているとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」、26:56「しかし、このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書が成就するためです。」そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった。」
[5] 山上の説教に照らして、あの教えと反対の状態も、人の病と言えるでしょう。さばき病、思い煩い病、見せるため病、神忘れ病、自己陶酔、憎しみ病。それが悪いのではない、本人の罪とか、親の育て方、ということでもない。「本人でも、両親でもない。神の栄光がこの人に現れるため」と言える。
[6] ツァラアトの人の祭司との関わりも、百人隊長のしもべに対する熱心も、イエスは新しく変えて祝福の交わりとしてくださっている。そう思えてなりません。
[7] マタイが引用したイザヤの言葉もこう続いていました。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。5しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」イザヤ53:4。現代病と言われる「依存症」は、孤独を根底に持っています。薬や治療者によって治せるものではなく、逆に、本人が気づくのを支えていくしかありません。特定のものに依存するのではなく、健全な、多くのものに依存している安心感、責任・応答に気づく以外に「治療」のない、長いつながりによって癒やされる病です。
[8] 癒やしの奇蹟は、教会の中でも、ここに書かれているように教会の外、違う宗教の中でも起きています。主は憐れみ深い方ですから。それを受け止める私たちは、病気や外見、生まれや肩書き、性別や自分との違いで、人を排除する病から救われていきたい。イエスが私たちを担ってくださって、私たちの生き方や社会に染みついた冷たい偏見から救い出して戴きたいと願います 。イエスはこの時だけでなく今も、世界の片隅で働いておられます。私たちの狭い思いを覆すような御業は、続いています。
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