聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

夏期学校メッセージ(案) だいじょうぶのかみさま  聖書はしくじり大図鑑!

2018-07-23 18:01:37 | 聖書

だいじょうぶのかみさま  聖書はしくじり大図鑑!

 

 今年の夏期学校のメッセージテーマは「しっぱい」です。いつのまにか子どもの読書ランキングには「ざんねんないきもの」「失敗図鑑」「しくじり歴史人物伝」などが並んでいました。しかも、大人気!

 「しっぱい」なら聖書だって負けません。「聖書」は「聖人」ばかりが出て来て、美談や訓話が集められているかと思ったら、意外や意外。出て来る人は誰もが、ひと癖もふた癖もある人ばかりです。

・    神様との小さなたった一つの約束を破った…アダム

・    泥水…ノア

・    殺されると思い込んで、妻を「妹です」と偽って王様に差し出す…「信仰の父」アブラハム

・    兄のふりで父を騙して、二〇年も家出…ヤコブ

・    カッとなって人を殺し、四〇年後も石に八つ当たり…モーセ

・    戦勝して調子に乗って、次の敵に騙される…ヨシュア

・    怪力の秘密をばらしてつかまってしまう…サムソン

・    不安で二枚舌の嫉妬王サウル

・    不倫と隠蔽殺人…ダビデ王

・    燃え尽き症候群と鬱…エリヤ

・    行き過ぎた愛国主義…ヨナ

・    天使に反論…ザカリヤ

・    優柔不断…ニコデモ

・    相続財産を放蕩…放蕩息子

・    口を開けば順位争い…12弟子

・    ポピュリスト…ピラト

・    献金詐欺…アナニヤ夫妻

・    熱心すぎて悪役に…パウロ

 

※ 「失敗学」では、「失敗」の定義を「人間が関わったひとつの行為が、望ましくない、あるいは期待しないものになること」としています。「望ましくない」と期待するのがだれか、によって「失敗」かどうかの判断も変わります。犯罪は、犯罪者から見るのと、被害者から見るのとでは全く逆の判断になります。その時は「失敗」と思ったものが、後には「失敗」とは評価できなくなることは多くあります(特にキリスト者はこの慰めを持っています)。ですから「失敗」とは「客観的な間違い」というよりも「自分にとって望ましくないという主観的な状況と真理」をどう扱うか、という問題です。 

 こんな例を見ていくと、そもそも人間を作った神様が大失敗したのでは?と思いそうです。もっとましな世界を造って、もうちょっと清らかな人を選べば良かったのではないか、と神様が疑わしくなります。世界は、神様の大失敗なのでしょうか?

 神様は、世界をお造りになる時、絶対に失敗のない「完璧な理想世界(ユートピア)」を作ることも出来たのかもしれません。間違うこともなく、神の命令に絶対服従する、ロボットのような人間を生み出すことも出来たのでしょう。けれども、それは神の方法ではありませんでした。神は「従わない選択」も出来る人間をお造りになりました。その結果、たくさんのざんねんな出来事が起こるとしても、ロボットより人間を作りたいと思われたのです。

 人間は神様ではありません。ですから出来ないことがあります。分からないことがあります。分かっても受け入れられないことがあります。分かったつもりで大きく勘違いしてしまうこともあります。そういう人間が一緒に暮らすと、もっと大変な事が沢山起きます。でも、神様は、そういう世界を造られました。失敗のない世界よりも、失敗の避けられない世界を造ることで、神様のご計画を果たそうとされたのです。

 「失敗学」によれば、「人間は必ず失敗する」のだそうです。人間は必ず失敗する。そのつもりで、ではどう準備していけば良いのかを考えるのです。聖書では端的にこれを「人間は神ではない」と言います。人間は神様ではないので、完璧ではないし、間違えます。だから失敗が悪いのではありません。神ではない人間が失敗したからと言って、神は責めません。「失敗するな」なんて「神になれ」に等しい無理な話です。「失敗しない」がゴールではなく、「失敗から逃げない」が大事なのです。

 ところが、神に背を向けた人間は、おかしなことに「神のようになりたがる」のです。失敗しない自分になりたいのです。『失敗学』の言い方では、「失敗から目を逸らして、隠したり、人のせいにしたりして、もっと大きな間違いをしてしまう」のです。

※「失敗」は三種類あります。

1.   織り込み済みの失敗。ある程度の損害やデメリットは承知の上での失敗。

2.   結果としての失敗。果敢なトライアルの結果としての失敗。

3.   回避可能であった失敗。ヒューマンエラーでの失敗。

 1.と2.の失敗は、「失敗は成功の元」となり得る失敗である。また、この2つの失敗については、状況・結果などがある程度予測できたり、経験からくる的確な判断で対処したりすることができる。

 3.の失敗は、失敗からさらなる悪循環が生まれる失敗である。予想しておけば回避可能であったにも関わらず、予想をしていなかったためにパニックに陥り、ますます、状況を悪くしてしまう。

「重要なのは、不可避である『いい失敗』から物事の新しい側面を発見し、仮想失敗体験をすることで『悪い失敗』を最小限に抑えることである。失敗や事故が隠蔽され、教訓として生かされないまま同じことが繰り返されるなら、社会的な損失は計り知れない」。

Wikipedia「失敗学」 

 イエス様には、十二人の弟子がいました。そのリーダーは、ペテロでした。このペテロが、とてもおっちゃこちょいで、失敗だらけの人でした。頑固で、お調子者で、いばりたがってしまう人でした。いつも弟子たちとの間では「だれが一番偉いか」を話題にするのが好きだったみたいです。イエス様の弟子になったら、格好いいなぁ、イエス様が王様になったら、自分もその次に偉い大臣になりたいと思っていました。他の弟子たちも同じような思いがありましたが、ペテロもそうでした。

 ある時には、イエス様をたしなめて、間違いを教えて上げようとしたことがありました。それは逆にイエス様から厳しく叱られましたが、でもそんな間違いをしてしまうペテロをイエス様は愛されていました。ペテロという名前自体が、イエス様がつけられたあだ名でした。ペテロとは「石」という意味です。石頭とか頑固者、真っ直ぐだけど融通が利かない人ということでしょうか。でもイエス様はそんなペテロの性格もニックネームにしてしまうぐらい、おっちょこちょいのペテロが大好きだったのです。

※ キリスト教は「道徳」ではありませんが、クリスチャンには、なんでも「罪」のせいにしてしまう傾向もあります。しかし、神様から離れる前にも人間は限界を持っていました。つまり、失敗する存在だ、ということです。堕落という大失敗によって、罪は始まりましたが、その前から人は有限な存在でした。そして有限な人間が一緒に暮らすところ、必ず衝突やすれ違いが起きたでしょう。しかしそれは「罪」ではなく、受け入れ、乗り越えていけるチャンスだったのです。堕落以降始まったのは、人間としての限界を受け入れず「神のようになろう」とする行動や、限界に目をつむり「罪」として責める行動、また「恥」て隠蔽しようとする(結果もっと大きな問題を引き起こす)体質です。

 イエス様は、国の偉い人々から妬まれて、最後は捕まって、十字架に殺されました。その直前、イエス様はペテロに、「あなたも私から逃げていくけれど、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われたのです(参照、ルカ二二31以下)。

 ペテロは、自分は死んでもイエス様から離れたり、イエス様を知らないなんて絶対に言わないと断言しました。けれども、イエス様が捕まった時、ペテロは怖くなって、イエス様を見捨ててしまいました。「おまえもイエスの仲間だな」と笑われたら、必死になって何度も否定しました。ペテロは自分が絶対にしたくなかった大失敗をしたのです。でもイエス様は、そのペテロを責めることはしませんでした。ガッカリだとも言われませんでした。そうではなくて、失敗を経験することで、他の人を力づけて上げる人になることを願ってくださったのです。

 教会の最初のリーダー、ペテロは大失敗をした人です。なにしろイエスをたしなめたり、裏切ったりした人です。イエス様は、そのペテロを最初のリーダーにしました。ですから今でも、教会は自分の失敗を正直に認める場所です。安心して失敗して、それでも大丈夫だと、どんな時にも一緒にいてくださるイエス様を一緒に見上げていくのが教会なのです。

※ しかしペテロと同じように、懲りずに間違いを繰り返したり、自分の失敗を認めにくいのも、教会の一面です。失敗事例に学ぶ(逆演算)よりも、成功事例ばかり語りたがる面もあります(順演算)。そうした面にも正直に向き合って、教会の負の面を(「罪の問題」として「悔い改める」だけで解決と思うことなく)誠実に知っていくことは欠かせません。今も、私たちは何かしらしでかしているに違いないのですから…。

 神様は、私たちが神ではないから、沢山の失敗をしてしまうことをご存じです。そういう私たちが、助け合ったり励まし合ったりしていくことを願われるのです。失敗のない生き方ではなくて、助け合っていく世界を、神様は今も造っておられるのです。失敗だらけの人たちの話を聖書に載せることで、神様は私たちをどれほど愛しておられるかを教えて、励ましてくださっています。また、世界を見ると「ざんねんないきもの」や「へんないきもの」がたくさんいますが、人間も「へん」で、「ざんねん」なことをしてしまうものです。そういう人間が、だれも神様になろうとせず、いっしょに生きていけたら、楽しいじゃありませんか?

 最後に、皆さんに知って置いてほしいことを三つ、お話しします。

  1. だれでも失敗します。だから、失敗した人を馬鹿にしたり、自分は失敗したからダメだ、とは思わないでください。神様でない人間は必ず失敗するのです。大事なのは、失敗しないことではありません。失敗してしまう私たちが、一緒に、ワクワクできる世界を造っていくことです。
  2. 「助けて」と言える人になってください。自分一人で何とかしようと思わず、「手伝って」「助けて」と言えるようになりましょう。また、失敗が分かった時にも早く人に相談してください。隠そうとするのは一番マズいことです。正直に相談することが、失敗をカバーする最善の道です。
  3. 「失敗」と思うものも、正直に向き合うなら、神様は必ずそこからすばらしいことを始められます。イエスの御生涯も、最後は十字架に殺され、弟子たちは逃げていき、こんなざんねんな人はいないようでした。でもそれは、神様がどんなにこの世界を愛されているかの証しでした。この世界は神様の失敗作のようにも見えます。でも、そういう世界で人が今日までたくさんのものを想像してきました。ですから、皆さんも、いつも神様に祈って、期待して、決して諦めないで、神様がしてくださることに期待しましょう。

 

 私は小さい頃、忘れ物ばかりしている子どもでした。泣き虫で、運動が苦手な子どもでした。もっと頑張っておきたかったこともあります。50歳まで生きてきて、失敗も神様が受け止めてくださって、今ここにいます。もし、「恥ずかしい、悔しい、失敗した」と思う時があったら、いつでもここに来てください。その気持ちを聞かせてください。教会は、そういう私たちが、一緒におられる場所でありたいと思っています。

(実際の話とは違います)

 

聖書の「しっぱい学」

☀人は神さまではない

☀イエスは「しっぱい」のつらさを知っている。

☀神さまには失敗はない!

☀「うまくやる」より「たすけあう」がだいじ!!

☀ 神はすべてを最善にしてくださる

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

士師記2章11-19節「ざんねんヒーロー列伝 士師記」

2018-07-23 17:58:01 | 一書説教

2018/7/22 士師記2章11-19節「ざんねんヒーロー列伝 士師記」

 今月の一書説教は聖書同盟の通読カレンダーに従って「士師記」です。ちょうど夕方からの夏期学校で「聖書はしくじり大図鑑」とお話しをします。子どもの本やテレビ番組でも「しくじり」「ざんねん」という切り口が多いことを聖書の切り口にもしてみようと思いましたが、士師記はまさに「ざんねんなヒーロー」たちのいた時代を取り上げている書です。

1.士師記の全体像

 週報にも書いたように、士師記は大きく、三つの部分に分けられます。一章二章が導入部、三~一六章が「さばきつかさ」十二人のエピソード[1]。名前だけ登場する人もいますので、詳しい活躍が分かるのは7人で半分ぐらい。しかし、理想的なヒーローは殆どいません。二番目の左利きのエフデがましなほうで、後は何かしら大失態を演じてしまいます。四章のバラクは、優柔不断で、結局ヤエルという女性が手柄を立ててしまいます。

 六章から八章は有名なギデオンですが、彼も最初は臆病で煮え切らない人でした。最後には大勝利を収めるもののその後がいけません。彼は偶像を作って人々に偶像崇拝の誘惑を与えてしまい、その上、大勢の妻を娶ります。彼が死ぬとその子の一人が他の兄弟大勢を皆殺しにして暴君になる[2]

 その後のエフタは、無謀な誓いをして娘を失う過ちを犯して、最後は自暴自棄になってしまいます。

 最後の怪力サムソンは一三章から四章かけて詳しく書かれていますが、怪力で活躍した合間に見せるのは何とも鼻持ちならず、身勝手で、いい加減で、依存症的な未熟さです。最後は美女の泣き落としで秘密をばらして怪力を失って、捕まってしまう。こんなさばきつかさばかりです。

 そして、三つ目の部分、一七章以下は、もうさばきつかさが登場さえせず、二つのとんでもない出来事が記されています。最後の段落の十七6には印象的な言葉があります。

そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。

 これがそのまま士師記の最後、二一25で繰り返されます[3]。この言葉で士師記は結ばれるのです。王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた時代。それが、ヨシュア記で約束の地に入った後のイスラエル民族の見せた歩みでした。士師記の「さばきつかさ」は理想的なスーパーヒーローではありません。残念な人たちばかりです。「神が選ばれたのだからきっと素晴らしい英雄ばかりだろう」と期待したら見事に裏切られます。むしろ人間の弱さ、私たちの陥りやすい弱さ、その結果の悲惨さを、十分に現してくれる人たちなのです。

2.士師記のパターン

 問題なのはその士師(さばきつかさ)たちだけではありません。それは民全体の不信仰や問題を映し出す鏡に他なりません。今日読みました、二章の真ん中はこの後に繰り返されていくパターンを最初にまとめて書いている部分です。イスラエルの民は主の目に悪であることを行い、他の神々に仕える。それは主の怒りに触れて、主は敵がイスラエルを支配するのをお許しになり、民は苦しい思いをします。そうして民が呻いて主に助けを求めると、主は士師を起こしてくださって、敵の手から救ってくださる。民の生活は改善します。ところが、その士師が死ぬと、民はまた主から離れて、前よりももっとひどく道を踏み外し、他の神々に仕えて、それを拝む。主は怒られて、民を放っておかれる。苦しくなった民はまた主を求める。主は民を憐れんで、士師を送って下さる。助かった民はまた主に背いて行く…。

 士師記の中ではこのパターンが基本的に繰り返されるのです。反逆、自業自得、悔い改め、士師の登場、回復、また反逆…です。そういう民の軽さ、甘さ、性懲りもなさが士師記のループなのです。

 この繰り返しから学べることはいくつもあります。まず私たちは人間の愚かさをまざまざと見て謙虚にならざるを得ません。折角入った約束の地でイスラエルの民は、本当に情けない歩みをしました。神から祝福を豊かに戴いても、心に罪や自己中心、甘え、思い上がりがあって、台無しにしてしまうのです。単純な話、「クリスチャンになったから大丈夫」ではないのです。

 でもそういう愚かな人間を、神は決して諦めて捨てたりはしません。イスラエルの民が繰り返して背いても、主は呆れてしまわずに、士師を遣わして下さるのです。本当に何度でも、主は救い出してくださいます。限りなく憐れみ深いお方、何度でも助けてくださるお方です。

 ではそのような繰り返しだけでいいかと言えば、そんなことは士師記は言っていません。「失敗しても悔い改めたら神が助けてくださる」と思ったら大間違いです。もしこのパターンに乗っかって「苦しかったら悔い改めたらいいや」と横柄に構えて甘えたら、それは神の御心とは違います。神が救いを送って下さるのは、神が人間を憐れんでくださるから、赦して再び立ち上がらせて下さるためです。決して、このパターンが今も約束された「法則」なのではありません。士師記の中でもこのパターンは破られますし、神は真剣に人間に迫られるのです[4]。士師記は、神を捨てた民の殺伐とした、やりきれない現実で結ばれます。この「悔い改め・回復」というパターンでは人は悪くなるだけだ、ということを明示する書なのです。

3.本当の「さばきつかさ」であるイエス

 士師記はハッピーエンドでは終わりませんし、ルツ記、サムエル記と続いて、やがてキリストがおいでになる新約聖書に至ります。ですから士師記に答や慰めを無理に見出す必要はないのです[5]。やがて神がキリストを完全な王、全き士師として遣わされます。士師記は、

そのころイスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。

と強調していました。問題は王がいないことだと言われており、ただ「失敗しても悔い改めれば神が助けて下さる」というループでは本当の問題解決にはならなかったのです。この後、イスラエルは王を持つようになりますが、サウルもダビデも

「自分の目に良いと見えることを行う」

王で、旧約はまだまだ坂道を転がり落ちてゆく。でもその末に神が本当の王を遣わしてくださいます。それがイエス・キリストです。

 イエスこそ本当の王であり最高の士師でした。そしてどの士師とも違う士師でした。軍事的で戦闘的な王ではなく、平和的で民族や敵味方を和解させる王でした。力で人の生活を守るのではなく、人の心の闇を照らし、癒やしてくださるお方です。上から統治して掌握する代わりに、イエスは最も低くなって人間とともにおられ、最後には十字架に架けられ、嘲られて殺されました。ご自分の武勇伝を求めるより、私たち人間の一人一人にかけがえのない物語を与えて、その人生をご自分がともに歩む美しい物語に変えてくださいます。イエスという王が来られることで本当の意味で士師記は終わるのです。

 そのような大きな流れの中で読み直すと、士師記は本当に私たちの書だと思えます。坂道をゆっくり転がり落ちる士師記にも、随所で神が働いておられます。ギデオンもエフタもサムソンも、折角の士師の立場を生かし切れない残念な士師です。英雄になろうと背伸びして失敗してしまう。その士師記を読むことで私たちは、もう背伸びを止めよう、失敗のない生き方など目指さなくて良い、自分の限界を見据えてあるがままで生きようと思えます。

 私たちは間違う者です。限界を持つ不完全な存在で互いを必要として助け合い、互いの違いを理解し合い、ともに生きていく。それが主イエスが示された人のあり方です。それを忘れて背伸びをしたり突っ走ったりして失敗をし、時にはひどく悲惨な結果を引き起こしてしまう。そういうしくじりだらけなのが聖書の民であり、教会の歴史です。主は失敗してしまう士師や私たちを愛されて選ばれ、民の失敗をも益に変えてくださいます。取り返しのつかない間違いからさえ、神は新しいことを始めてくださいます[6]。それは私たちが失敗しないようになるためではありません。主イエスの御支配にとって大事なのは、一人一人が間違いなく生きるか、成功するかどうかではなく、主を信頼し、自分に正直になり、互いに愛し合い、赦し合い、助け合うことです。

「私たちの裁き司である主よ。士師記を有難うございます。あなたが今も私たちの失敗を知り、世界の痛みとともに味わい、歴史を導かれている事を励まされて感謝します。主イエスこそ私たちの王です。どうぞ偽りや傲慢を捨て、失敗からも学ばせてください。恵みが世界を覆い、破綻が癒やされ、全ての失敗さえも手がかりとされる主の豊かな御支配を現してください」



[1] 「士師」とは広辞苑ではまず「中国古代の、刑をつかさどった官」と出て来る、官僚を充てた言葉です。新改訳では「さばきつかさ」としました。

[2] 9章。

[3] 19章1節も「イスラエルに王がいなかった時代のこと」と始まります。「王がいない」は、士師記の中心テーマです。後述します。

[4] 6章7-10節、また、10章全体。

[5] 士師記に希望が見えるのは、一つには士師記が終わった後のルツ記においてです。男達が好き放題に生きて滅茶滅茶にしている時代に、辺境のモアブやベツレヘムでルツやナオミ、女性達が何をしていたか、そこに神の慰めに満ちた御業が進んでいた、という所で、殺伐とした士師記も希望に移れます。

[6] また、もっと無名の女性や周辺での出来事にも主が目を留めてくださっていたことが分かります。特に、女性達が男性よりも強くて、男性達は目を覚まさせられます。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする