2016/09/11 礼拝①「礼拝する幸い」ローマ十一33-十二2
今日からしばらく「礼拝」について聖書の言葉に聴いていきましょう。私たちは、それぞれに違っています。国籍や言葉、年齢や性別、健康状態も、信仰歴も経済状態も、抱えている問題も性格も違います。けれども、この礼拝に集っています。ですから、この教会の礼拝について、私たちが礼拝に来ているとはどういうことなのか、を共通の出発点として始めたいのです。
1.誰の礼拝でしょう?
私たちは今ここに来て、礼拝に参加しています。勿論、この儀式にただ参列しているだけではありません。ここで、天地を造られた生ける唯一の神の前で、神を崇め、神の言葉に聞き従う。ハッキリとした対象があります。私たちの教会の「礼拝指針」では
「公的礼拝の意義は、三位一体の神が御自身の契約の民に出会われることにある」
と明言しています。神が私たちに出会ってくださる。それがこの礼拝です。私たちはただ自分たちの発案で集まって、自分たちなりの礼拝をしているのではないのです。神が私たちに出会って下さる礼拝に来ているのです。
これをもう一歩踏み込んで言うと、礼拝は私たちのものではなく、神のものだ、ということです。私たちが神を呼び求め、神を礼拝し、上手な礼拝や賛美や素晴らしいお祈りの言葉で神を喜ばせる。そうして、神に祝福をもらったり、願いを叶えていただいたり、心の平安をいただく…。人間の考える「宗教」はそのような発想になります。聖書は、「人間が」という代わりに「神が」と言います。
「初めに神が天と地を創造された」[1]。
「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは、御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」[2]
今読みましたローマ書十一36
「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」
とある通りです。
これが私たちの礼拝の土台です。神が礼拝を主催され、礼拝に私たちを招いてくださり、ここで私たちに御言葉を語ってくださいます。罪からの救いを示して、信仰と悔い改めを与えて下さいます。私たちを祝福し、また送り出してくださいます。
英語で礼拝をワーシップとかサービスと言います。サービスとは奉仕、仕えることです。神に仕えること、ではないのです。まず、神が私たちに仕えて下さる。私たちを招き、迎え入れ、もてなし、私たちの足を洗い、私たちを慰め、悔い改めを与え、新しい心を与えてくださるのです。神が私たちにサービスをしてくださるのです。それも、神がイエス・キリストにおいて、御自身を私たちのための献げ物としてくださった。そのイエスの献げ物という、神の礼拝が先立ってあるのです。[3]
2.キリストのささげ物 三位一体の礼拝
イエス・キリストは神の御子でありながら、私たちと同じ人間になってくださいました。
ヘブル九14…キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになった…
とあります。キリストが、人となって、ご自身をささげ物としてくださいました。この三位一体は私たちの頭では到底理解できない神秘です。難しく考えようとしないで、今日はこう考えてみてください。神の中に、本当の礼拝の交わりがある。父は御子を愛され、御子は父に従い、人となってご自身を生け贄として献げられました。また、御子は、御霊に導かれつつ、愛する御霊を教会に派遣されました。御霊は、御父と御子との間を取りなされます。そういう交わりが三位一体の関係です。いわば、神の中に、礼拝の交わりがあるのです。イエスが、大祭司としてご自身という生け贄を神にお捧げくださった。そのささげ物によって、
ヘブル十14キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。
と言われるのです。その神ご自身の惜しみない完全な礼拝があるのですね。
神は素晴らしいお方です。この広大な宇宙を造り、天の川から蝉や鳴門金時に至るまで、すべてのものを創造され、一つ一つを知っておられます。私たち、文化や言語、見た目も個性も全部違うように造られたお方です。地震や太陽のエネルギー、それ以上の宇宙の壮大さを知れば知るほど、その全部を造り、治めておられる神の偉大さに心を打たれます。そういう賛美や礼拝も、礼拝の一面です。
しかし、それだけではないのです。神ご自身の中に、礼拝が交わされているのです。イエスが完全に父に従われて、ご自身を与えることで礼拝を捧げられました。本当に惜しみない、信頼に満ちた、喜びに満ちたささげ物となられました。それも、神が私たちの罪を裁いて滅ぼすことも出来たのに、この私たちを赦し、罪をきよめ、神の子どもとして受け入れるという父の愛に従われて、ご自身が人となり私たちに代わって十字架にかかり、神への供え物となってくださったのです。そのことにおいて、イエスは、御父の赦しと憐れみの愛に心から同意され、その慈しみを賛美し礼拝されたのです。口先で賛美するのではなく、ご自身がささげ物となることによって、その全存在で、憐れみの神を礼拝なさったのです。その故に私たちは神に受け入れられ、罪の赦しにあずかります。神の子どもとされ、神を礼拝するのです。私たちの礼拝の根拠は、私たちの行為にではなく、イエスの礼拝に根拠があるのです。
3.そういうわけですから、…あなたがたのからだを、ささげなさい
ここで、もう一度、ローマ書十二章に戻りましょう。
ローマ十二1そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
2この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
大事なのは
「そういうわけですから」
です。ローマ書一章から十一章までで
「神のあわれみ」
とはどういうものか、イエスが現された愛、赦し、福音とはどういうものかをずっとパウロは説いてきたのです。その、神の憐れみを踏まえた上で、
「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物として捧げなさい。」
と言われるのです。でも人間はすぐにこの神の「憐れみ」を誤解します。このローマ書の言葉も、私たちはつい自分中心に、人間の頑張りや形式上の正しさを神が求めて折られるように考え出します。私たちが自分で自分の心を一新したり自分を聖別したり、神を喜ばせたりしなければならない、と考えます。それは「神のあわれみ」を忘れた考えです。私たちに最大の憐れみを示して
「私がこれだけ憐れんだのだから、お前も頑張って聖い礼拝を捧げよ」
と言い放つなら、憐れみではなく厳格で、恐怖しか感じません。むしろ、私たちは神の完全な憐れみ、イエスの完全な生け贄という福音に安らぎ、信頼するからこそ、私たちは自分を捧げ、心からの礼拝と献身をして歩むのです。[4]
三位一体の神は、互いに愛し合い、喜び、深く自分を与え合うことにおいて一つです。その神が私たちをもその交わりに、ドラマやダンスとも言える交わりに、招待して下さいます。この礼拝で私たちは、そのような三位一体の神とお会いしています。習慣で来て、神のご機嫌を取って、終わってホッとして帰る儀式ではありません。イエスは、人となられ、私たちの罪も苦しみも人間としての悩みもすべてを知っておられます[5]。聖霊は、私たちの祈りの言葉ばかりか、言葉にならない心の呻きをも残さず聴いておられます[6]。その神が私たちをご自身との交わりへ、そして私たちも自分を捧げる歩みへと招いてくださるのです。
私たちの礼拝が、イエスの犠牲に現された、神ご自身の交わりへの招きである、という大原則をまず確認しました。
「父、子、聖霊の神よ。あなたを礼拝する尊い交わりに与らせてくださり、感謝し、御名を褒め称えます。主の十字架に現されたあなたの限りない憐れみをますます知らせ、私たちの心を開いて、一新してください。神に受け入れられ、喜ばれている礼拝の民としてここから出て行きます。キリストの御霊が先立ち、独り一人を支え、慰め、あなたの御業を現してください」
[1] 創世記一1。
[2] ヨハネ三16。
[3] 今回のテーマに関しては、ジェームズ・B・トーランス『三位一体の神と礼拝共同体』(有賀文彦、山田義明訳、一麦出版社、2015年)が大いに参考になりました。
[4] 別の翻訳で読んでみます。「兄弟たち。神の憐れみに大きく目を開きつつ、あなたがたに勧めます。理にかなった礼拝の行為として、あなたがたの体を神のために聖別され、神に喜ばれる生けるいけにえとして献げなさい。あなたがたが周囲の世界の鋳型に合わせて形造られるのではなく、神によってあなたがたの心を内部から造り変えていただきなさい。それによって、あなたがたに対する神のご計画が善いものであり、神のあらゆる要求にかない、真の成熟という目標に向かうものであることを実際に証明するようになるからです。」『三位一体の神と礼拝共同体』111ページにある、J.B.フィリップス訳からの重訳。
[5] ヘブル二17-18「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。18主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」
[6] ローマ八26「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」