聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ヨハネ九1-14「奇蹟では解決しない」特別集会より

2016-09-18 22:07:18 | 説教

2016/09/18 ヨハネ九1-14「奇蹟では解決しない」特別集会より

 

 今日のお昼には「福祉」や「介護」というテーマで特別講演をしていただきました。

夕拝も特別にして、中澤先生が教えてくれた聖書のメッセージをお分かちします。

 ヨハネ九1-14には、「生まれつき目の見えなかった人」が出てきました。この人がイエスに目を癒やしていただく奇蹟が出てきました。ここには有名な会話があります。

2弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」

3イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。

 そうしてイエスはこの人を癒やされるのです。結果彼は、見えるようになり、最後にはイエスを信じるようになりました。これが「さいわい」だと言えます。

 でも「幸い」とか「健康」っていったい何でしょうか。今日話して下さった中澤先生は世界保健機関(WHO)の「健康」の定義を紹介しています。

「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあること」

をいいます。

 言い換えれば、この人も目が見えなかっただけではないですね。「目が見えないのは誰のせい? きっと本人か親が罪を犯したからだ」。そんなことを言われたら、物凄く責められていることになります。そういう差別や、拒絶された思いもあったのです。そして、18節以下ではこの人の両親も冷たいのですね。生まれたときから目が見えなかった彼を、どう愛すれば善かったのか分からなかったのかもしれません。そして、毎日ここに来て、物乞いをしながら生きる、という人生。働いて仕事をしたり、結婚したり、人と遊んだりはしない一生です。

 皆さんだったらどうでしょうか。耐えられるでしょうか。もっと自分のやりたいこと、生きていて善かったと思える生き方がしたいと堪らなくなりませんか。目が見えない事は変えられません。でも、目が見えないんだからしょうがない、と考えるのではなく、目が見えなくても、精一杯幸せに、自分らしく生きられるように考えられたら、もっと健康に近く生きられたはずです。パラリンピックはそれを教えてくれます。

 これは、WHOが1980年に造った、「国際障害分類」ICIDHモデル、という少し古いものです。

 このモデルで障害とはどういうことなのかといいますと、これは、疾患・変調が原因となって機能・形態障害が起こり、それから能力障害が生じ、それが社会的不利を起こすという図式です。これをシロアムの盲人に当てはめますと目が見えない(ここでは「先天性網膜色素変性症」)は(機能・形態障害)に当たり、その結果、歩けない、字が書けないなど(能力障害)が表れます。その結果、職を失う、社会参加できないなど(社会的不利)に陥るという図式です。

 矢印一方向的です。また、バイパスの矢印があるように目が見えないというだけで差別されるという社会的不利もあるということを表します。したがって、目が見えない人が社会的不利になるのはしょうがないんだという考え方でした。これは、奇蹟でも起きて、目が見えるようになる以外、彼が幸せになることは出来ないし、両親か本人の罪だから仕方ないという図式でもあります。

 しかし、そうなのでしょうか。それでいいのでしょうか。社会的不利は本人の心身の状況のみで決まることではありません。たとえば、歩くことができなかったり、移動することが困難な場合、エレベーターを付けたり、段差を解消したりすれば移動に関する障害が軽減するなど、その人の周りの環境が非常に大きな影響を及ぼします。

 中澤さんはもう一つのモデルを紹介してくれました。同じWHOが2001年に造った、ICHというモデルです。

 ここでは、先ほどのICIDHの変調・疾患ということばは健康状態ということばへと変わり、機能・形態障害としていたものは心身機能・身体構造、能力低下は活動、社会的不利は参加というような表現になっています。つまり、障害とか不利ということばはなくなっているのです。また、その人の生活には環境因子というその人の周りの物・人・制度や個人因子というその人のライフスタイルや価値観も関わっているとしています。そして、矢印はすべてが双方向ですので人の生活はこれらのすべてが関わり合って成り立っているということを表しています。

 生まれつき目の見えなかった人も、イエスが運よくここに現れて癒やされたから、神の栄光が現されて、幸せになれた、ということではないのです。イエスは、そういう考えそのものに挑戦されました。彼は、罪の結果、不幸を強いられた存在ではなく、神の栄光を現すための存在だと、当時の社会の考え方そのものをひっくり返されたのです。実際、イエスがなさった癒やしの結果、周囲の人は彼の存在を受け入れられず、彼を追い出してしまいます。安息日に癒やされたというだけで、彼の癒やしを否定することで納得しようとします。彼は幸せになる所か、社会からはじき出されてしまったのです。

 でも、イエスは彼に出会って、新しい生き方を示してくださいました。尊厳を与えてくださいました。イエスとの関係を与えてくださいました。

 そういう見方をするなら、この箇所から私たちは、また奇跡が起きることを願い、唯一の解決とするのではないはずです。むしろ、医療や介護、職業訓練でサポートが出来ます。職がないのなら役所という環境因子に働き掛けて生活保護を紹介できます。差別をなくすよう、啓蒙活動も出来ます。街中を移動しやすいよう、バリアフリーにする、移動の介助者を頼む。鍼灸マッサージ師の職業訓練を受けたら、収入も得て、仕事の喜びも持てます。私たちはこれを使ってさまざまな可能性を探していくことが必要なのです。

 しかも、ICFモデルでは扱えない、心の悩みやケア、生きる意味の模索も、イエスは差し出しておられます。人の心、魂の深い所にも光をくれ、私たちの考え方を覆してしまわれるのがイエスです。イエスは、この人にも私たちにも、新しい生き方、一方向ではない生き方を示してくださったのです。

 聖書には沢山の奇蹟が出てきます。しかし、奇蹟が幸せにしたのではないのです。主は奇蹟以上のこと、ご自身を下さいました。私たちが、今ここにあることに尊い神のご計画を見て、出来る形で関わる生き方に変わるのです。「奇蹟が起これば幸せになれるのに」ではないのです。イエスが私たちの所に来て私たちの全生活に関わって下さることが、私たちを幸せにするのです。その福音に私たちが目覚めて、仕えることこそ、幸せの始まりなのです。それこそ最大の奇蹟です。

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