2015/03/01 申命記六章「信仰の継承」
主イエス・キリストが、「すべての命令の中で、どれが一番大切ですか」と聞かれて、
マタイ十二29-30「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』…」
と仰いました。それが書かれていたのが、今日の申命記六章、4節5節です。一番大切な律法、神様の命令の一番中心にある柱とも言える言葉を、今日ご一緒に聞きました。特に、これはユダヤ人の間では「シェマー」(聞け)と呼ばれて、最重要な言葉とされてきたものです。約束の地に入り新しい生活を始めようとするに当たって、モーセがイスラエルの民に告げた申命記において、この言葉は主の民に対する中心的な御心を簡潔に、そして力強く言い表しています。
そして、この申命記六章で分かるのは「主を愛する」ことの中身です。6節以下の戒めによって、
「主を愛する」
ことを更に具体的に言い直していたことに気づきます。主を愛するというだけだと漠然とし過ぎていて、掴み所がなかったり、感傷的に捕らえるだけで終わってしまったりするかもしれません。しかし、モーセはここでハッキリと、具体的に教えている。
「心に刻みなさい(6)」
「子どもたちに教え込みなさい[1]、いつも唱えなさい(7)」
「主を忘れないようにしなさい(12)」
「他の神々に従ってはならない(14)」
「主を試みてはならない(16)」。
飛ばし飛ばし読みましたが、そういうことが、「主を愛する」行為ですね。勿論、そういうことをしてさえいれば、主を愛することになるわけではありません。主への愛もなしに、義務を果たしてさえいればいい、ということではありません[2]。でも、主を愛しています、と言いながら、主の命令を行おうともしない、子どもに教えることもない、主を忘れ、他の神々にも従い、調子がよいと主を忘れ、調子が悪いと主を試そうとしはじめる。そんなことはおかしな話です。こうした言葉は、主を愛するという最も大切な戒めが、生活に根ざしたもの、具体的なもの、私たちの生き方全般を方向付けるものなのだ、と改めて教えてくれるのです。
しかし、もっと大事なことがあります。ここで言われているのが、律法を守り行うこと、主を愛するという根本的な命令であるにしても、私たちが何かをすることが大事なのだ、と読んでいるとしたら、聖書の反面しか読んだことにはなりません。それ以上に大事なのは、私たちが主の御業の中にいる、という事です。申命記についての本の中で、ストーリーという言い方をしていました。物語、歴史、筋書き、あるいは旅路と言い直せるでしょうか。それが、最も大切な戒めの最初に言われているのです[3]。
4聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。[4]
主が私たちの神。私たちの神となってくださった事実。それが大事なのです。主は、彼らを奴隷の国エジプトから連れ出してくださいました。そして、ここまでも彼らを真実に導き、今、新しい地に入らせ、戒めを与えられます。それは、ただ従うことを要求されるのではなく、
3イスラエルよ。聞いて、守り行いなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたの父祖の神、主があなたに告げられたように、あなたは父と密の流れる国で大いにふえよう。
と幸せと繁栄、祝福を用意されているお方です。
また、10節では、イスラエルの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた出来事を思い出させられていますね。16節では、出エジプト記十七章に語られている、マサで主を試みた出来事が思い出させられています。再三にわたって主を試みたこと、モーセを殺しそうになったこと、でもそこで主が彼らを滅ぼさずに、ご自身を打たせることによって、水を与えてくださったこと。その出来事を思い出すように言われます。これは、ただその出来事を教訓として思い出して、試みないように、という以上に、その出来事を通ってきた物語(ストーリー)の中に自分たちがあることを覚えるということです。
20節以下でもそうです。後の日に息子から質問された時に、どう答えるのでしょうか[5]。
21…「私たちはエジプトでパロの奴隷であったが、主が力強い御手をもって、私たちをエジプトから連れ出された。
22主は私たちの目の前で、エジプトに対し、パロとその全家族に対して大きくてむごいしるしと不思議とを行い、
23私たちをそこから連れ出された。それは私たちの先祖たちに誓われた地に、私たちを入らせて、その地を私たちに与えるためであった。
24それで、主は、私たちがこのすべてのおきてを行い、私たちの神、主を恐れるように命じられた。それは、今日(こんにち)のように、いつまでも私たちがしあわせであり、生き残るためである。
このように、物語を、自分たちの原点である出来事を、教えるようにと言われるのですね。ただ義務や道徳を教えるのではありません。「規則を守りなさい、礼拝を守り、暗唱聖句をし、献金をしなさい、それが神様の御心だよ」と教えるのでもありません。「神様は唯一で、偶像を拝むことは罪だ」という教理や知識以上のものです。そうした知識や規則、真理や義務ばかりで、神様の御業(物語)が抜け落ちていると全く意味が違ってきます。
世界を創造された神様が、ご自身に反逆した人間の中から、アブラハムに始まる神の民を選び、エジプトから救い出し、約束の地に導いてくださいました。その旅路で、マサだけではなく民は何度も逆らって、主を悲しませ、怒らせてきましたが、主はなおも民を導き、行くべき道、なすべきことを示して、幸いへの道を語りかけ続けるのです。更に、この千五百年後、今から二千年前、主ご自身が、この世に来られ、人となり、十字架に掛かって私たちの罪を背負って死なれ、よみがえり、天に上り、聖霊を注いでくださいました。そして、今、私たちがここにおり、この聖書の約束、契約に与っています。神様の民の長い大きな物語に加えられて、歩んでいます。主は、私たちに祝福を注いでくださり、幸せを与えようと導かれています。
その旅路で、私たちも、祝福を受けていても主を忘れてしまうような勝手な者です。他の神々、力、意見に惑わされて、真の神、生ける真実な愛の神に背を向けてしまうこともあるほど愚かです。生きていく上での困難、悲しみ、紆余曲折があります。主を試みそうになる戦い、主ならぬものに従いたくなる誘惑は付き物です。聖書そのものが、神の民の物語(歴史)をそのような旅路として描いています。今の私たちの、小さな歩みも一つ一つが丸ごと、神の民の歴史の一部であって、そこで私たちが主の御声に聞き従うこと、主を愛することに立ち戻らせていただく物語なのです。そして、最後には、主が幸せを備えてくださっているのです。そのことを忘れないようにしましょう。そして、私たちを愛しておられる主を愛しましょう。
「天地万物の造り主であり今もこれを支え、やがては完成される主よ。そのあなた様の大いなる物語の中に、今私たちは歩んでいます。エジプトから民を救い、十字架と復活を成し遂げられた主が、私たちをも捕らえてくださった、その確かな恵みを感謝します。あなた様の愛に全身全霊で応え、幸いの完成を信じて、置かれた場での歩みを続けさせてください」
[1] 「子どもによく教え込む」は、「子どもが信仰を持たなければ信仰者として失格である」という誤解と混同しないでください。相手が聞くかどうかはまた相手の責任だから、受け継がなかったからと言って親の責任や失敗ということではありません。しかし、親としては、子どもに対して信仰を要求する一方ではなく、自分自身が主を忘れず、試さない、という信仰の一貫性が必要でもあることもここから教えられるポイントです。
[2] 「重要なのは、「従順」という言葉は、神と私たちの関係を表現するものだということです。神が私たちに求めておられる事を聞き、それから応答するのです。子供が親の声に応答するように、私たちも神に聞き従って正しい事を行います。/なぜ従うべきなのでしょうか。聖書は、「従うべきだから」というお決まりの堂々巡りの答を与えるのではなく、さらに踏み込んで私たちの真の姿に触れていきます。従順とは、私たちを成熟させる訓練の枠組みであり、それ自体が目的なのではありません。…[申命記五33、六24、十13を引用]…神が私たちに正しい事をさせたいと思うのは、それによって私たちが成長するためです。…神の指導は、私たちが神のやり方を学ぶことを目的としています。それによって私たちが神に似た者となっていくためです。」(ヘンリ・クラウド、ジョン・タウンゼント『信仰の成長を阻む12の誤解』264-266頁)
[3] 「このように、イスラエルの神信仰は、抽象的な公式によって表現されることなく、神のダイナミックな御業をもって描かれるのである」Thompson, Deuteronomy, TOTC, pp.126。 「律法が規則だというのは、その反面理解でしかない。規則と同じように重要で、規則以上に根本的なものがある。律法のもう一面とは規則ではなく物語(ストーリー)である。…十戒は申命記五6において、物語の要約をもって始まる。」Thomas W. Mann, Deuteronomy, Westminster Bible Commentary, p.49。今日の説教の構造は、上記の注解者に気づかされた視点を多用しています。
[4] 訳し方を吟味する注解書が多い。唯一神論が言いたいのではない、という。「主は「一」なる方」とも。その「一」は上からの統一ではなく、愛による人格的な一致である。
[5] 「教理問答」教育に見えますが、よくある「親が問い、子どもが答えられるようにする」のとは逆になっていることに注意しましょう。親が子どもに「模範解答」を教え込むのではなく、子どもには問わせて、親が答える準備をしておく、と言われています。それが親の責任です。その時にも、道徳や抽象的な教理ではなく、聖書のストーリーをもって答えるのです。力強い、現実的な、リアルな出来事、生きて働き、この世界を、約束に従って導かれるお方を信じ、伝えるのです。