聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ルカの福音書二一章25-28節「からだをまっすぐに」

2015-03-25 19:00:46 | ルカ

2015/03/22 ルカの福音書二一章25-28節「からだをまっすぐに」

 

 体を真っ直ぐにし、頭を上げる。良い姿勢を保ち、笑顔になる。そうすると、気持ちにも自信が持てるようになり、前向きに生きられるようになるというレポートがあります。心が暗くて俯(うつむ)いてしまう時も、顔を上げることで塞(ふさ)いだ気持ちが明るくもなるのです。すべてが解決するのではないにしても、良い姿勢や笑顔を心がけると、血行や免疫力や新陳代謝も向上し、生きる姿勢も変わり、回りにもよい影響を与えるのです。それぐらい体と心は切り離せません。神様は人間をそのようなものとして造られたのだなぁと面白く思います。イエス様は仰います。

28これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです。

 その「これらのこと」とは、今日読んだ25節からの箇所だけでなく、二一章の5節6節以下、ずっと言われてきたことだと考えた方がよいでしょう。エルサレム神殿が崩れることをイエス様が予告されたとき、人々は、そんな世も末の恐ろしい時にはどんな前兆があるのか、と聞いてきたのですね。そこでイエス様は当時の人々も思いつくような「終末のしるし」を次々に挙げられました。「戦争や暴動」、「大地震…疫病やききん…恐ろしいことや天からのすさまじい前兆」「エルサレムが軍隊に囲まれ…異邦人に踏み荒らされる」。そして、今日の所では、

25…日と月と星には、前兆が現れ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、

26人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。

 こう言われているのですね。ただし、イエス様はそういう天変地異や大災害が、終末の前兆だと仰ったのではありません。次の27節で言われるように、

27そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。

と言われるように、キリストがおいでになるのは、誰の目にも明らかに分かる、ハッキリとした出来事なのです。これは、ダニエル書七章にある言葉から引用したもので、「人の子」という呼び方もそこで使われる、メシヤ称号の一つです[1]。キリストが輝かしい栄光を帯びて来られる、素晴らしい時、祝福の時、喜びに満ちた約束があったのです。人々は「終末」を思って、恐れ、不安に陥り、気を失ったりするけれども、実は、本来終末とは、恐怖や絶望ではありません。勿論、その時、神の厳しい裁きがあります。また、自分の持ち物や生活、今の自分の立場、特権などにしがみついている人は、すべてを失います。私たちは自分も含めてすべてのものを、主の支配に完全にお返しするのです。それでもイエス様は仰るのです。

28これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。

 戦争や大地震や、世界も終わりかと思うような出来事が起こり、人々が不安や恐ろしさで気を失うような時、その時こそ、あなたがたは、体を真っ直ぐにし、頭を上げなさい。怯えたり自棄(やけ)になったり、なくなろうとしているものを抱え込んだりするのではない。むしろ、姿勢を正し、顔を上に向けて、栄光を帯びて来られるキリストを迎える備えをしなさい。イエス様は、ご自分の弟子たちに対して、そして、私たちに対して、そう教えられるのです。

 「頭を上げる」という言い方は、詩篇二四篇に出て来ます。

詩篇二四7門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。

 栄光の王が入って来られる。

 8栄光の王とは、だれか。強く、力ある主。戦いに力ある主。[2]

 栄光の王をお迎えする姿勢が、頭(かしら)を上げる姿勢であり、体を真っ直ぐに起こすことなのです[3]。王である、栄光の、力ある主をお迎えする準備をする。力と輝かしい栄光を帯びておいでになる人の子をお迎えする。そういう心持ちを励まされるのです。

 ここに「贖いが近づいたのです」と表現されています。ルカはこの「贖い」を、ここ以外に使っていません[4]。「解放」「救い」という訳もあります[5]。「代価を払われた結果の解放」という言葉です。代価を支払ったという言葉の中に、イエス様の側で、代価を払って下さった。犠牲を払って、私たちのために良いことをしてくださって、その将来を携えて来てくださる。そんな含みがあります。そんな言葉を、イエス様は弟子たちにポンとぶつけられます。詳しい説明はなさいません。ただ「終わりだ絶望だ」と人が騒ぎ立てる中、真っ直ぐに前を向けと言われて、イエス様が犠牲を払って用意された解放、救い、高価な将来を語られるのです。私たちは、あらゆる禍の中でも、それにまさる将来を携えて来られる主を、ますます待ち望むのです。

 聖書の最後、ヨハネの黙示録の一番終わりに描かれている情景は、喜びの祝宴です。主が来られて、国々を終わらせ、悪を滅ぼし、罪から完全に解放してくださるばかりか、結婚式の喜びで表現されるような永遠の慰めが描き出されます。言葉に尽くせない喜びが待っていると告げられます。生ける真の神様が世界をお造りになったことから書き始められる聖書は、その世界が神様の栄光によって完成し、すべてのものが真実で、聖くされる将来をもって閉じます。その永遠の幸いを将来に語るのが、聖書のメッセージです。今は多くの戦いがあります。禍もあり、すべては失われます。でも、すべてを失っても、なお私たちにとって望ましい最後がある。素晴らしい喜びが始まる。主が語られた、ご自身の犠牲を払っての「贖い」に与る。これこそが、私たちにとっての悲願であり、何が起ころうとも顔を上げるに値する恵みです。

 世界には、地震や津波、サイクロンや台風が起きます。戦争やテロ、差別や迫害のように、人間同士がひどく傷つけ合っています。環境破壊や地球温暖化だって、人間のエゴのなせる業でしょう。こういう世界で、ただ自分の家族が健康で幸せであればいいとか、事故や不幸から守られるとか、死んでも天国に行くとか、そういう幻に縋(すが)るのではありません。禍や苦しみがないだけではなくて、もっと根本の人間の醜さ、「自分さえ良ければいい」という思い上がりが完全になくされることから、本当の永遠は始まるのです。人間の罪によって、世界は呻いているのだとパウロは言いました[6]。そして、被造物全体が贖いを待ち望んでいるのだと言うのです。そういう大きな栄光を語られる神様は、全世界の創造主であるとともに、私たち一人一人を愛され、私たちの心と生き方を新しくしてくださるお方です。今なお、私たちは不完全です。罪があり、贖いの完成を待ち望む者に過ぎません。でも、それは私たちの夢や儚(はかな)い希望ではなく、イエス様が語られた、私たちを待っている現実です。その確かな約束を信じて、

…からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。

とイエス様は仰っています。こう言ってくださるイエス様の約束が、私たちの姿勢だけではなく、心も生き方も行動も新しくします。自分の力ではなく、主からの新しい思いによって、私たちの生き方が変えられていくのです。私たちの姿勢も思いも変えて戴こうではありませんか。

 

「主よ。今の生活が守られる事ばかりを願い、夢見がちな私たちですが、何よりも、あなた様が真の王として治めてくださることこそが幸いであり、必要です。そして、私共のための贖いを果たして来てくださる主を、恐れ怯えることなく、お迎えするようにと仰る恵みに、深く感謝します。この希望により、苦難の時にも背筋を伸ばした歩みを、一人一人に与えてください」



[1] ダニエル書七章13節「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない」。これは、ダニエル書が繰り返している、世界の歴史、諸王たちの国際的な盛衰が、最終的には真の王である神の支配によって終わらされ、永遠の支配が始まることを預言したものです。

[2] 同9節10節「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。その栄光の王とはだれか。万軍の主。これぞ、栄光の王。」と繰り返されます。この詩篇全体が、「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むもの」の所有主である「主(ヤハウェ)」を歌い、その神を礼拝する者の相応しさを「手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人」という資質に向けさせています。神の主権性と、その礼拝者の内面性、という徹底した告白が歌われています。

[3] 新共同訳聖書では、「城門よ、頭を上げよ/とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる」としているように、この詩篇と今日のルカ二一28との平行関係は明らかです。

[4] 「アポルトローシス」。語根でもある「ルトローシス」(ルカでは一68と二38。他、ヘブル九12)、動詞「ルトロオー」(二四21。他、テトス二14、Ⅰペテロ一18)も「贖い」と訳されています。

[5] 口語訳は「救い」、新共同訳は「解放」と訳しています。

[6] ローマ書八章18-24節。今日の箇所とかぶりますので、全文を引用します。「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。19被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。20それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。21被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。22私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。23そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。24私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。」

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問40「あなたも分かっているはず」 ローマ二章14~15節

2015-03-25 18:58:55 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/03/22 ウェストミンスター小教理問答40「あなたも分かっているはず」 ローマ二章14~15節

 

 イエス様がそのご生涯で、激しくお嫌いになっていたのは、真面目に礼拝を守りながらも欲張りで、人から平気で巻き上げていた儲け好きの人たちと、自分は正しい、立派だと自惚れて、他の人たちを見下している人たちでした。逆に、イエス様は、正しさからは遠くかけ離れた生き方をしていた、嫌われ者、不道徳な人たちを愛し、そのような人たちがイエス様の回りに集まっていたようです。体を売って稼いでいた女の人たちもいました。触りたくもないと思われていた病人や物乞いたちもいました。そして、イエス様が天に帰られた後、聖霊に満たされて始まった教会にも、たくさんの人たちが集まって、そこには色々な人たちが集まったのだそうです。

 教会は今も、本当は、イエス様の回りに沢山、乱れた生き方をしてきた人たちが集まったような場所でありたいなぁと思います。ヤクザや水商売の人も来て良いのですし、人生に失敗した人も、家庭を滅茶滅茶にしてしまった人も、自分の正体を明かしたくないような人も、イエス様が喜んで迎え入れてくださるのです。

 勿論、そういう人が、そのまま、人の道に外れた生き方を続けても気にしない、というのではありません。イエス様は、私たちに「悔い改めて」神を信じなさい、「もう罪を犯してはなりません」、傷つけ合う生き方を止めて、愛し合う生き方、仕え合う生き方を歩みなさい、と仰ったのですし、聖書は教会のメッセージがそのような聖い命令であることを語っています。でも、そんな生き方を全然してこなかった人、人を大切にすることも自分を大切にすることも、考えたことさえなかったような人さえも、イエス様は蔑んだり怒ったり嫌ったりしませんでした。「今までの生き方で幸せになれたかい?神様はあなたに幸せを下さる。だから神様の掟に一緒に歩んでいこう」と言うのです。

 今日の問は、神様が人間に最初に教えてくださったのが「道徳律法」だと教えます。

問 神は、従順の規範として、初めに何を人間に啓示されましたか。

答 神が従順のために初めに人間に啓示された規範は、道徳律法でした。

 神様は人間に、最初に、守るべき「道徳律法」を与えてくださいました。人の心に、善悪があるという意識を下さいました。今日のローマ書の言葉でも、

二14-律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行いをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。

15彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。-

と人間の心には、その名残があるからこそ、神様が命じるような行いをするのだ、と教えています。でも、それは不完全ですし、うわべだけでもあるのですね。どんなに自分勝手な人でも、他の人からの意地悪や裏切りには、ひどく腹を立てます。それは、その人の中にも、善悪の道徳が残っている証しです。けれども、そのように正しく生きようと願うのではありません。そして、自分は良い人間だ、人よりも立派な生き方をしていますよ、と偉そうにしている人を、イエス様は強く忌み嫌われたのです。

 私たちはきよく正しく生きる義務がありますが、でも、自分はちゃんときよく正しく生きていると言える人はいない。反対に、とても不道徳な、人としての道を外れた生き方をしてきた人も、駄目だとか頑張らなければイエス様に愛してもらえないのではありません。むしろ、イエス様はそのような人をも愛され、受け入れてくださったのです。だから、私たちも、どんなに大きな失敗や、ひどい道に外れてしまっても、そこからイエス様に立ち帰るなら、救って戴けるのですね。

 ですから、今日の所で大事なのは、私たちが神様からの律法を守る、という以上に、神様が私たちに、私たちの道を啓示してくださった。それが、道徳律法だった、という事実なのですね。人間が、どんなに間違った道に走ってしまっていても、神様はその人を、本来、正しく誠実に生きるべき者として見ておられ、造られたのだ、ということです。そして、神様は、今も私たちが、その聖い道を歩むことを願っておられるのです。

 最初に神様が道徳律法を啓示してくださったのも、一つではなく、二つの方法によってでした。それは、人間の心に律法を書きしるすということと、言葉による啓示でした。

創世記二16-17「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

 今も神様は、聖書の言葉を通して、聖霊によって私たちの心に、神様の御心を教えてくださっています。それによって、神様は私たちが、正しく生きるように、神様の御心に相応しく生きるように、と願っておられます。私たちが出来なかったら「なんだ、駄目だなぁ」とガッカリしたり怒ったりはなさいません。また、「あの子は頑張ったのに、君はまた失敗か」だなんて、競争させたり比較なさったりもしません。何よりも、神様は、私たちのことをよくよくご存じです。私たちが自分の力では正しく歩めないこと。せいぜい正しく何かをしてみたとしてもそこですぐに人と比べたりし始めてしまうこと。そして、神様の基準には到底届かないこと。だから、私たちは神様の助けが必要です。神様も私たちに、「わたしが助けてあげるから、わたしの助けを求めなさい。自分の力や知恵で頑張ろうとせずに、わたしの言葉に聞きなさい。わたしの助けを祈りなさい」と何よりも願っておられるのです。

 「アメイジング・グレイス」で知られる「驚くばかりの」という讃美歌がありますね。あの歌詞を書いたジョン・ニュートンという人は、奴隷商人でした。黒人をひどい船に詰め込み、ひどい環境で大勢の黒人が死んでも平気で生きていた悪人でした。そのニュートンが、24歳の時、嵐に遭って死にかける経験を通して悔い改め、やがて牧師になり、書いた詩の一つが「アメイジング・グレイス」なのですね。驚くばかりの恵み、こんな見下げ果てた自分さえ救ってくれるとは、という歌です。奴隷商人さえ、救い、喜びに溢れた牧師にしました。神様が私たちに、正しい道に生きることを願ってくださり、今もそのように生まれ変わらせ、力を与え、導いてくださるとは、素晴らしい恵みです。

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