「うつせみ和尚」のお説教

『うつせみ和尚の日記』二件の事故が元で『(複雑性)PTSD/鬱』になって
闘病、障害当事者として活動している者です。

うつせみ 精神世界への誘い(いざない)「死にたがりだった私が考える『死生観』」

2020年12月06日 03時57分00秒 | うつせみの精神世界への誘い
突然ですが、2,3年前までは「バリバリの死にたがり」でしたね。
このブログでも、Facebookでもバンバン書き込んでました。
そのことで私の周りから知人友人が離れていきました。
いわば「振るい」みたいもんで、いまだに付き合ってくれる方々には感謝です。
この「バリバリの死にたがり」が発生したのは、このブログを永らく
読んでいただいている方にはご案内でしょうが、2003年7月に起こった爆発事故です。
その事故で精神状態が不安定になって、1999年5月に起こった空手試合での死亡事故の
「自責の念」が膨張してぶり返してきて、爆発事故での様々な体験も相まって
それ以来「死にたがりの影」に取り憑かれてしまいました。
その当時は「自死」/「死」というのは常に私のとなりにいましたし、
いつでもジャンプすればその世界に行ける「気」がしていました。
冷静に今考えるに、それは「気」がしていただけなのだ、ということです。
その当時は、常々空手の事故で亡くなった方の墓前で割腹自殺することを
考えていましたし、本気の「気」でいました。
繰り返しの話になりますが、「気」でしかなかった。

なぜ、「気」でしかなかった、と言うのか?
それは「実行していない」という現実があるからです。
実行していないということは「気」がしただけなのです。
もしあのとき、主治医に引き留められずに啖呵切って帰省し、
墓前へ行ったとしても私はただただ座って泣き崩れていたのではないかと
考えています。

「死ぬ」ことを実行するには、その瞬間の「覚悟」が要りますし、
「死なない」ことを実行すれば、その後その時々で「覚悟」がいるのです。

「死なないこと」を選んでから10年程経ちますが、本当に「死ぬ」辛さは
わかりませんが、この約10年というものは筆舌に尽くせぬ
混乱と幻覚、錯覚の日々でした。
具体的にいうと、アルコール依存や摂食障害、希死念慮その他様々な依存、
フラッシュバックなどなどに苛まれました。
先ほども言いましたが「死ぬのも覚悟、死なないのも覚悟」の要ることです。
様々なことを体験してきた私に言えることは
『死にたいということは、いっときの錯覚や幻覚である』ということです。
その錯覚、幻覚で実際に亡くなったかたも知っていますし、
私のように錯覚、幻覚の中で生きることを選んだ人もいます。
体験的にいうと錯覚、幻覚の中で「第三者的視野」や「達観」など出来ないのです。
だから、錯覚、幻覚というわけで・・・す。

今、「死にたがり」に取り憑かれている人には、こう言ってあげたい。
「とりあえず、今は止めて明日、ご飯を食べながら考えませんか?」と。




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