私は幼年の頃からあまり活発的でなく、TVばかり観ていました。
今、考えると頭の中でいろいろ遊んでいたのかもしれません。
当時、「根暗」で「活発ではない生活」をしていた私は両親の離婚にあって、
その後、お世辞にも裕福でない生活を高校を卒業するまで続きました。
結局、私が就職の都合で大阪・堺市に住まいを移し、
「自分の稼ぎで自分を賄う」生活は気楽でしかも郷里でいたよりも裕福であった。
離婚して郷里を出る間での7年間は回りの人にお世話になりっぱなしであった。
学生時代の貧乏暮らしはそんなに精神を蝕むことはなく、
それは高校の友人や空手道、同時に通っていたスイミングなどで発散できた。
社会人成り立ての頃から、「精神・哲学・宗教・戦争・経済」となにかと本や雑誌を読んでいた。
話しは脱線するようですが、戦争や経済の上昇や下降のパターンを見ていると
ものすごく仕組みは簡単なように思えてきたのです。
そして「なぜ、人間はこのような単純明快な社会を複雑化するのだろう?」と思い始めたわけです。
なにか、一種「悟りという誤解」をしたんでしょうね。
まだまだ「苦労(修行)が足りぬ身」だったのです。
その後は、「死亡事故」、「爆発事故」それぞれの当事者になって尚更、
人生の転変にサラされると解らなくなる。
多分、「森に入っている」のでしょうね、それでも鳥瞰、俯瞰しようとすると
森の中にあっては無理がある。
一度、森を出なければ森全体を俯瞰・鳥瞰は出来ませんからね。
でも、すっかりと「当事者」という沼に
すっぽりと首まで浸かってしまったのでこれは難しい・・・
今はひたすら「第三の眼」を持つべく鋭意努力しております。
しかしね、時々腹が立つこともありますよ、解ったようなことをいう健常者です。
彼らは「統計(データ)・先達の精神分析学」くらいで障害者を計ろうとする。
なんだか、彼らは「いち科学者」という立場を放棄して
「教科書の刷り直し」を地で行っているような気もします。
また言っちゃったよ・・・\(. .)
今、ちょうど大学を卒業した年齢やすでに入社して1,2年という年頃の若者は
「さとり世代」は、積極的な行動はせず、
会社や学校にいるかもしくは自宅にいる時間が長いのだという。
若者よ!
外に出なければ、悟れないよ!!