「うつせみ和尚」のお説教

『うつせみ和尚の日記』二件の事故が元で『(複雑性)PTSD/鬱』になって
闘病、障害当事者として活動している者です。

最近、めっきり・・・。

2010年07月24日 21時24分26秒 | 日日是佛滅
毎年、夏は拒食なので、今年も例外ではなく

でも、去年よりは食べてますけども

体重は緩やかに減少傾向です。

対策としては、のどごしのいいものでも一応、一食とカウントしております。

去年は一日一食とかは、ざらでしたから

最低、二食は食べようと心掛けております。

今日は、今から食べて二食ですか・・・

でも、体重がMAXの時よりも5㎏減ですか、

まだまだです。

あと、15~20㎏減ってもいいくらいです。

食べながら減量、減量。




おらが村にTSUTAYAが来る!

2010年07月24日 14時17分25秒 | 趣味幽々
昨日は12時を回ってからスタバに行きました。

スタバが近くに見えたその瞬間、

手前に建設中の建物の前に「TSUTAYA」の看板が

どうやら新しいビルの1,2,3階にテナントとして入るようです。

前に住んでいた所にあったのですが、

引っ越してから精神的距離ができて、なかなか行く事ができませんでした。

これからは近くなったので誰も借りない重箱の角を突くような

CDを借りようと思います。

今日は午前6時前までおきていたのですが、

13時過ぎに起きてなんだかすっきり

さぁ~て、何から始末しようかな




自己現世利益主義と戦うその二

2010年07月24日 04時36分29秒 | 「うつせみ和尚」のお説教
―――続き―――

結論を言いますと(ここからが隠れた主題)、

団塊の世代前後生まれ(1945年前後生れ)が、

育ち、謳歌した高度成長時代に置いてきた「死生観」が、

自分たちの子供に伝えられる事も無く、今の時代を迎えていることへの

「危機感」を感じて欲しいというのが、ここ二年間の主題だったのです。

それを「インドの輪廻観」や「釈尊の輪廻の認識」等の

オブラートに包んで発表してきたのです。

さてさて、「死」を意識しないとどうなるのでしょうか?

自分の父母の死に直面した時の取り乱し様や無関心につながり、

自分が死に迎えたときに憂うのです。

私の二親は離婚しましたが(もう25年前ほど)、

対照的な「死」への対峙をしています。

母親は7年前に舌癌になり、

「死」に直面していますし(その前に幼少期に二親と死別)、

その事で、「死」の覚悟もしたでしょう。

その反面、父親は自分の母親(私の祖母)が、

数えで90歳の大往生したにもかかわらず、

葬儀の時に取り乱していました、また私が大火傷をしたときも

私の病室へ客寄せパンダの様に親類縁者を次から次に招いて、

私に叱られました。

全く、慮る事のない人間です。

この二人を見ていると、「覚悟の差」が出ているな、と思いました。

どこかで覚悟していると、日々の緊張感から変わってくるでしょう。

まぁ、「そんなに父親を罵ってどうなるのだ」と、

言われる方もいるでしょうが、父親のその要素が

兄貴入り込んでいるのでは、ないかなと、有慮しているのです。

なんでも「物知り顔」の兄がどこまで「覚悟」しているのか・・・。

「覚悟」しているのであれば問題ないのですが、

ちょっと、不安ではあるのです。

閑話休題。

こういうことは、言葉にしてまたは文章にして表わしても

なかなか、伝わらないものですから、

本来、親が子達に「行動をもって指し示す」のがいいのでしょうが、

前述したように「自己現世主義者」達が跋扈する現代では、

難しいものです。

私の死生観の探求はまだまだ続きます。




自己現世利益主義と戦う

2010年07月24日 03時59分35秒 | 「うつせみ和尚」のお説教
久し振りに「日々暴論」であります。

水曜日にゼミ発表を無事終えました

内容は、中国の死生観「鬼(き)」でした。

これは、原題「中国の仏教伝来以前の死生観」

の中の一セクションでありました。

敢えて、仏教学科なのに「仏教伝来以前~」としたのは、

仏教伝来は紀元前2年が、公伝とされているのですが、

仏教伝来後になると、色々面倒なので、

というか、思想に広がりが出てくるので、

長い発表原稿になってしまうので避けたのです。

では、中国の「鬼」とは、何かといいますと

人間の死後の骸、若しくは肉体を離れた精神の事を「鬼」と呼ぶのです。

でもって、何を言いたかったのか、といいますと

現代人の「死」を意識しない、と言うよりは

「今さえ自分さえ楽しめればいい」という、

自己現世利益主義(私の造語:じこげんせりやくしゅぎ)

が、ちまたを跋扈していると思うので、

人間の死亡率は100%だと言うことへの

警鐘の意味をもって今回発表とさせて貰いました。

もちろん、「私の死生観の再確認」の意味もあるのですが、

若い時はさほど、感じなかったことが

60、70歳代になると、嫌でも意識せざるを得なくなって、

遅れ馳せながら悩み、憂うのです。

だったら、早い内に考えておこうと言うのが、

今回の隠れた主題(別に隠してはいないのですが)だったのです。

―――次に移る―――