「うつせみ和尚」のお説教

『うつせみ和尚の日記』二件の事故が元で『(複雑性)PTSD/鬱』になって
闘病、障害当事者として活動している者です。

うつせみ和尚のお説教 「養老孟司さんが解りやすく解説していました『死の臨場感』」

2024年01月29日 16時57分42秒 | 「うつせみ和尚」のお説教
養老孟司さんがTVで「人間はいつ『死』を自分事と考えるのか?」
まっ、「死はいつでも横にあるものと認識する」ということでしょうかね。

養老さんの言葉は以下の通りです。
三人称はニュースや面識の無い人の「死」
二人称は近いし関係、家族や友人、目の前で起こった事故などの「死」
一人称は自分の「死」

人は二人称の「死」に衝撃を受けて、自分ごとに感じる

人というのは、そんなに賢くないことを実感していなくて、いつも「私は賢い」とまで思わなくても「私はバカじゃない/愚かではない」と常日頃考えています。
「『死』のことは解っているし、どうなることも解っている」というわけですが、「二人称の死」を目の当たりにすると「あっ!人間って死ぬんだ!!」と身につまされます。これが「『死』の初めての認知」ということでしょう。よくよく考えれば、次の瞬間の命の保証なんて誰も無い訳なのですからね。どこか「徐々に弱っていって死ぬのだろうから、突然には死なないだろう」という解釈です。
これまた、人間のバカなところは強烈に意識付けられた「死」も時間の経過とともに薄れていって「元の木阿弥」になる。これは人間が正常を保つために辛いことを忘れるという機能が付いているからだ。

文面や会話で出る言葉では「解ったつもり」になっている。

私が考えるに、二人称の「死」だけでは意識付けられることはインパクトとして弱いと思います。自分の体が弱ってくる、体が大きく損傷した、体の機能が失われた、老齢期に入ってくるという「反応促進剤」がないと「死の臨場感の固定」は難しいと思う。
養老さんが強く死を意識するようになったのは、二人称の死と、ご自分が老齢期に入ったという「反応促進剤」があったからだと思う。老齢期に入れば、これを脱することは出来ないわけで、「日常的に死が隣にいる生活」が続くわけで、嫌でも意識付けられるわけです。

養老さんが大ベストセラーである「バカの壁」で『人間の死亡率は100%』と書いていたが、この時は老齢でないので戦争体験も「反応促進剤」だったのかも知れない。




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うつせみ和尚のお説教 「多分再論、確認『幸福論』」

2023年10月31日 21時13分25秒 | 「うつせみ和尚」のお説教
『幸福論』と書いてしまうと哲学書みたいな感じですが、そんな難しいことを書けるような頭ではないので(ご存じのように)、ごく簡単なことですが、意見の分かれるところの話になると思います。ハイ
「幸せ」というと、それぞれ違うと思います。ですが現代日本人においては典型的なモデルがあるように思えます。
「お金」
「社会的地位(出世)」
「結婚(家族・恋人)」
「住居」
「健康」などなど
上記のことで大半は表せているのではないでしょうか?

ここに例としてあげる男性は
「収入が少ない」
「非正規雇用」
「独身/結婚歴なし」
「狭い賃貸マンション暮らし」
「障害者」
「近年手術を数度している/五十代」というお方
みなさんがこれらの条件を見たときに「この人は不幸だ」と思うでしょうか?(どこかで聞いたような人ですが...)
では、この人の「不幸」は誰が決めるのでしょうか?
裁判所?国会?国民の過半数?身内?友達?近所の人?
この人の「不幸」は誰にも決定権はないのです。逆に言うと周りの環境から「私は不幸だ」という、その人の主観ではない所からその人の主観が脅かされるようなことは、本当の不幸というものです。簡単に言うならば「自分は不幸だ!」と考えるようになれば、それで終いです。自分の「不幸」の決定権は自分であって周りの人たちではない。「自分が幸せだ」と思えば、どんな環境であろうと、その人は幸せです。逆に自分は不幸だ」と思えば、例え円満な家族をもって、いっぱいお金を持って、大きな屋敷に住んで、社会的地位があって、健康であっても、その人は不幸なんです
幸せの定義に統一的なものは無いと私は考えます。
世間的に不幸に見えても、自分の心が満たされていれば堂々と肩で風切って歩けば良いのです。例え、路上生活者であっても。
周りは人を自分以外の人間を「不幸」というレッテルを貼りがち余計なお世話ってなもんです。





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うつせみ和尚のお説教 「昨今の『コンプライアンス(法令遵守)』と『言論統制』事情」

2023年09月15日 10時00分39秒 | 「うつせみ和尚」のお説教
昨今、特にTVでの表現は厳しくなっている「ものが言えない世界」。私はお笑いが好きなので、お笑いというのは「人をダシにして、それを笑う」という要素は強くて、解りやすくいうと「人の人との差異を笑う」ということです。落語だとわかりやすく反映されている。現在、TVで放映されている落語も始めるときに注意書きが出ているくらいです。昔の映画をTVで放映するときも注意書きが出ています。今の「TV芸人」はコンプライアンスに敏感になっていて、現在は「最後の砦はラジオ」といわれている。ここまで来ると「コンプライアンス」ではなく「言論統制」というほかない。これはプレッシャーを掛ける一部視聴者がいるからと敏感になったスポンサーと言うことだろう。視聴者に関しては「憂さ晴らし」という一面が強い。昔から時代を先取りするような番組が出るとTV局には事あるごとに「抗議の電話」はあったものの、これほどTV局が敏感になるとはなぜだろう?政治家は「うっかり発言」が野放しになっているのにねぇ…。クレームを言う方は概ね自分の「法令遵守」には甘かったりします。今、ネットでは素人がバンバンいい加減なことを放映したり、書き殴ってたり(オレか?)します。誹謗中傷、罵詈雑言の雨嵐です。また、政治側からは、その時々の政権の強さで紙や映像に圧力が掛かるみたいです。国会では「NHKは政府の宣伝だけしていれば良いんだ!」と平気で言われるくらいです。

まっ、私はどんなコメントが来ようが書き続けますがね。
(と言いつつ気にします)



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うつせみ和尚のお説教 「マウント、善悪、誹謗中傷、デマの流布-そんなことで誰が幸せになる?」

2023年08月30日 12時29分40秒 | 「うつせみ和尚」のお説教
久しぶりの「お説教」です。
最近特に上から目線の発言がネットで多く見るようになりましたね。全くもって残念です。ネット上で顔を公開している人は極少ない。『匿名』というのは私の意識だと「世間に訴えたい真実であるけれども、それを実名で公開すると不利益を被る恐れがある」ということ。あくまで私感です。・・・とはいえ、大したことを書いてないけれども私のブログは匿名です。それは私自身の障害の話しや家族のことを結構赤裸々に書いているから。その割にはFacebookと紐付けしてますけどね。
最近顕著に目立つのは「Twitter(現:X)」では露骨で無責任な誹謗中傷、因縁付け、言いがかり、デマ、私感の押しつけなどなど。著名人や残念ながら悲惨な状況になった人の一部からは「法的報復(処置)」があるけど、極々一部で、ほとんどは泣き寝入り。命を絶つ人もいるので看過できない話しです。更に残念なのはそれを傍観する『外野の民』が真実だと信じて、更なる批判が雪だるま式に増加していくこと。こうなれば「脳みそを持たない巨人」です。これは暴走して誰がその暴走を止めることが出来ず、唯一止めることができるのが「他に批判対象が次に移ること」です。まことに残念で馬鹿馬鹿しい話しです。
9月1日は「防災の日(関東大震災の日)」です。関東大震災当日から数日は悲劇が繰り繰り返されました。その中でも朝鮮人に対する「デマ」で多くの人たちが虐殺に遭いました。中には日本人も虐殺対象になっています。(一見して見分けが付かないため)それはデマが元で当時虐殺対象になっていた朝鮮人と間違われて虐殺されたわけですが、しかし今回問題なのは『朝鮮人に対するデマによる虐殺』です。虐殺の根底のあるものは、一方的に日本が統治した朝鮮に対する後ろめたさ。「いつかは報復に遭うのではないか!?」という不安です。それが関東大震災が引き金になって無実の朝鮮人が犠牲になったわけです。無実の日本人も…。
ネットの誹謗中傷と関東大震災時の朝鮮人虐殺は同じラインです。また、第二次世界大戦時のヨーロッパにおけるユダヤ人虐殺はドイツ国民のみならず、ドイツ占領下の国々の国民からも虐待・虐殺を受けました。しかし、戦争が終われば、ナチス支持者は逆に虐待・虐殺対象になり、人々は「ナチス政権下では仕方なかった」という。ネット社会では「みんなが批判しているから悪い人だと思った」、「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだというのを耳にしたから殺した」。この情報源は根拠に欠けるものや不安感がなせる業なのです。
集団心理こそ疑うべきもの、「大勢が一方に向けばその方が怪しい」という考えが必要です。
賢者になれとは言わないまでも「少しの客観性」と「様々な角度からの検証」は必然だと思います。自分の何気ない行動、発言、投稿で傷つく人は必ずいることを肝に銘じながら情報発信しなければならないと良いことです。もしくは発しないこと。ノートに書く程度にしておくことで留めなければないでしょう。


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読まずに死ねるか!? 「『戦争は女の顔をしていない-アレクシエーヴィチ・スヴェトラーナ』岩波書店」

2023年07月15日 21時23分38秒 | 「うつせみ和尚」のお説教
現在、入院しているのですが落ち着いてきたので、一昨日辺りからスパートを掛けて読了いたしました。
第二次世界大戦でナチス・ドイツに侵攻されたソ連が『徴兵された/従軍を希望した女性』へのインタビューしたものを一冊にまとめたもので、著者のアレクシエーヴィチ・スヴェトラーナさんはノーベン文学賞を受賞して本書は代表する著作とされている。
インタビューはテープに録音されて文字起こししたそうですが、録音件数も膨大で終えたと思うと、人づてに聞いた方からインタビュー依頼が来るほど大変だったらしい。また、題材が戦争であり、体験は一人一人違う凄まじいもので、それを一冊にまとめることの大変さをを思うと労作であったと感じる。
内容は先程書いたように世界大戦の女性帰還兵に対して著者からほとんど質問せずに「問わず語り」で進められている。夫が徴兵され、それに続いた妻。いわゆる国威発揚で掻き立てられて年齢を誤魔化したり何度も軍に押しかけて志願兵になった人。戦場では医師、看護師、衛生兵ばかりでなく狙撃兵や戦闘機のパイロットで活躍した女性たち。自国兵ばかりでなく侵略してきたドイツ軍兵士を治療した医師や看護師。毎日死んでいく仲間を目の当たりにして、その死体たちと過ごすことで「」に関する感覚が鈍麻してしまって、感情を失ってしまった女性。祖国が勝利して戻ったのにもかかわらず、村八分にされた家族。すべて女性帰還兵が雄弁に語ったわけではなく、本書では二行ほどで終わっているものもある。しかし、男性が戦争を美化して話すようなふうには彼女たちは語っていない印象がある。壮絶な戦場を語れる人、語れない人、話すうちに感情が乱れてしまう人。すべては人間が起こした戦争が原因であるのに兵士たちは人間性を失ってしまう。おそらく、インタビューを受けて居ない人の中には精神を病んでしまう人も多かっただろうと想像する。女性ならではの感覚で戦争を語るのにまるで、世界は「戦争には女性を兵士として出していない」とする。日本人的感覚でいうと、なおさらその感覚は強いだろうと思う。太平洋戦争には女性は徴兵されていないからだ。
まだ、多くの著作があり、それを読んでみようと思わせる本だ。今のウクライナやアフリカの戦争や内戦を他人事とせず、自分事として想像力を活発にして考えてみたい、そう思わせる本です。
口語体で書かれているので分量にしては早く読める本だと思いますよ。


ん〜、この本読まずに死ねるか!!