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「うつせみ和尚」のお説教

『うつせみ和尚の日記』二件の事故が元で『(複雑性)PTSD/鬱』になって
闘病、障害当事者として活動している者です。

『フジテレビ系「めざましテレビ」において田中将大についての誤報』ー相変わらずCXの「楽しければなんでもいい」論

2016年11月13日 15時28分33秒 | 日本の「恥部」を晒す

マーくん、トランプ・タワー在住説否定「いつの間にか住んでることに…」

フジテレビが相変わらずの「楽しければ何でもいい主義」で誤報を発した。

『田中将大選手がトランプタワー系列のどこかに住んでいる』ということが

番組内で三択クイズとして『めざましテレビ』内で放送された。

田中選手はツイッター内でその事を否定した。

少々ご立腹のようである。

フジTVは、今の地位にあるのは80年代のバラエティーのヒットを数々出して

今の地位にあるようなものです。

その後、局の姿勢が「情報番組もバラエティーも区別無し」で、

そのような姿勢がたびたび「放送事故」を起こし問題になってきた。

その反省もなく、今まで来た結果の「一事故」という感じだ。

「今回も同じように謝罪だけすれば・・・」と言うような気では、

放送事故を繰り返すだけであろう。

私個人の感じでは、『あまりCXは観ない』

実際のところ『自分の身になる番組がない』ので観ないのだが、

CXは、どの番組も「ひな壇にタレントを並べての『バカ話』」をしているだけで

私には「なにが面白いのか解らない」のである。

それでも観ますか?

 

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『お笑いウルトラクイズ』での差別行為、「知らなかった」では済まされぬ

2016年09月28日 17時49分43秒 | 日本の「恥部」を晒す

かつて、私も大好きだった『お笑いウルトラクイズ』。

この番組で数々のタレントを有名人にしていった。

にしきのあきら(錦野旦)やダチョウ倶楽部など、

その後、テレビ出演が多くなり、この番組の影響力は大(だい)だった。

そんな中で、「ワハハ本舗」の梅チャン!

かの越路吹雪の名曲『ろくでなし』で女装し、鼻から豆を飛ばすあの人です!

彼が、全身金色で覆って「ペニスサック」をして、

伊藤久男さんの代表曲『イヨマンテの夜』を歌って大爆笑を得ました。

私も笑っていましたよ。

これは北海道の「アイヌ民族」の『イオマンテの夜』は熊祭りと男女の恋を歌ったもので、

イオマンテ」とは、宗教儀式のひとつでそれをバカにするような番組は

「差別にあたる」としてお叱りを受けた。

一応、表看板は「ビートたけし」ですから、矢面に立ったようです。

たけしさんはその後、『TVタックル』で、

「だって知らなかったんだもん」と言っていたが

それは言い訳にならないですよ。と・・・

ですから、物事は深く知らないまでも「どんなものか」くらいは知るべきである。

 

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まだまだ研究途中・・・『昭和20年8月15日敗戦』は、明治維新までさかのぼる

2016年09月20日 00時59分22秒 | 日本の「恥部」を晒す

「蛤御門の変」※蛤御門は京都御所の門の一つです。

今、半藤一利さんが日中戦争つまり日本が第二次世界大戦に無謀な参戦をしたのは、

「日清・日露戦争の勝利からだ」としている。

昭和に入って、「五・一五事件」、「二・二六事件」などで党派禁止され、

陸軍の暴走が始まったのはこの二つの事件が軍部の閣内での発言を強くし、

また、閣内人事に陸相を始めとする軍隊が行動を起こして、

政府は事後公認の形で暴走していった。

その背景に存在するのは、明治維新後の戦争で「無敗」で来た奢りがあったのだろう。

明治の初内閣は、要するに「倒幕に走ったもののふの集団」であり、

「韓国併合」は、西郷吉之助(隆盛)が強く進めたものだ。

その西郷ももちろん武士である。

そして、明治政府は江戸幕府を倒した武士集団の「薩摩藩・長州藩」だ。

議会民主主義が進んだ大正時代になっても「平民宰相・原敬総理大臣」は、

在任中に『右翼少年』に殺害された。

武士社会から民主主義社会を目指すが、

「明治・大正・昭和(戦前)まで無敗」という軍の威信があり、

『有史以前からの天皇の神聖化』で、「神の軍隊という誤認」が、

例えば、「天誅」という言葉に象徴されるような「暴力の神聖化」が

結局、「1946年1月1日昭和天皇の『人間宣言』」まで、

「神の国による『特攻作戦』」や人間宣言後も

「三島由紀夫による自衛隊市ヶ谷駐屯地によるクーデターの呼びかけ」など、

右翼、新右翼による事件があった。

私には他の国は知らないが、日本は結局右傾化し、それに心酔するのか!?と、感じる。

私から言わせれば、それは「思考STOP」に似た行為である。

「流される、是も非もしない、傍観する」というのは、

れっきとした『行為』なのである。

おそらくはですよ、三島由紀夫は戦後の日本人は「腑抜けた日本人」に見えたのではないか?

結局、三島は割腹自殺を遂げる、これは「武士の行為」だ。

旧日本陸・海軍軍人は帯刀するのが、当然であったのも「武士」である。

三島の行為は昭和天皇までの天皇の神聖化を信じ続けた「青年・三島」であっただろうから、

「人間宣言」はずいぶんダメージがあったろう。

しかし、今や世は2016年である。

人間の精神世界は進歩しないのか?

私は「人類は生物の霊長である」というのは、ありゃウソだね!

 

 

 

 

 


『日本の「恥部」を晒す』-平安時代の『穢多・非人』は江戸時代のそれと連続性がない

2016年05月07日 23時13分16秒 | 日本の「恥部」を晒す
仕事に復帰して、職場全体の「風景」が変わっていてすっかり「浦島太郎」の空蝉です。




まず、平安時代のと言われた「・(他に呼称はある)」の発生元は

『天皇邸の庭掃除』から始まると言われる。

そこから、天皇家が行幸する前の道路にある死体や動物の遺骸、ゴミなどの清掃までに派生し、

「遺骸を取り扱う賤しいもの」=()が大体のストーリーだ。



江戸時代くらいのの定義は、乞食等の無職の者は当然だが、

例えば、「出雲の阿国」などの踊り手もで、その後「女歌舞伎」として発展したが、

江戸時代に入って「女歌舞伎」がお上によって禁止され、今の形になった。

「出雲の阿国」は、元々出雲出身だが京都の河原で踊っているところを

秀吉に拾われたいきさつがある。

さて、他だが『職能民』というのは細かく職業が上げられていて

その行動も制約が厳しかった。

『』の頭は江戸幕府開闢前に鎌倉にいた「弾左衛門」というのが、頼朝の許可状を持って

江戸に入る家康を品川まで迎えに来たという記録がある。

それ以来、『頭・弾左衛門』として、明治初頭まで代々受け継がれることとなる。

『』は、これも関東に在していた「車善七」というのが、

『頭・車善七』として、江戸幕府から認められ「弾左衛門の直轄組織」として

組み入れられるが、善七はそれを良しとはせず、幕府に数度「独立した組織」として

認めるよう嘆願しているが、却下され『頭・車善七』と言う地位も

取り上げられ、完全に「弾左衛門直轄組織」になってしまう。

江戸幕府崩壊後、庇護してくれる後ろ盾がなくなった「弾左衛門」は、

江戸時代、「矢野・弾左衛門」を名乗っていたが、明治に入ってからは、

最後の当主、弾左衛門(直樹)は名を改め『弾・直樹』と名乗るようになる。

その後、『弾家』は続くのだろうが、私の調べではここまでである。

戦国~織豊~江戸時代と弾左衛門ら『』は皮革職人であったらしいく、

それには、斃牛馬(へいぎゅうば=牛馬の死骸)が必要であり、

また、庶民は牛馬の死骸を忌み嫌った。

特に公家や武家は嫌い、当家から死骸が出た事実をも隠したがって、

密かに『』に連絡を付け、引き取らせた。

『』としては、「生業の原材料」が、タダもしくは安価な値で入るのだから、

需要と供給の利害が成立していたわけである。

皮革製品は鎧の部品をつなぐひもに使われたり、馬の鞍などに使用された。

しかし、明治に入り欧米化した日本軍隊はヨーロッパの革製品(革靴など)を使うようになり、

すっかり下火になり、今現在皮革製品の加工を行っているのは大半がヨーロッパ式であり、

『』とは無縁である。

まだまだ書き足りないが今晩はこれまで・・・







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日本の『恥部』晒す-備忘録メモ

2016年04月22日 22時33分08秒 | 日本の「恥部」を晒す
長いこと書いていなかった気がしますが、一度目の入院は6週間入っていて、

その間に持ち込んだ本やAmazonで買った本を病院着にして、

差別問題をさかのぼって、江戸時代~平安時代まで今行き着いております。

ではでは・・・




現在の『差別問題』は、『職業差別』であったこと。(女性の売春も含めて)

差別の元は『穢れ(けがれ)』を嫌う意識で有り、

そうして、最初は「天皇の庭園の庭の掃除」から始まり、

「平安京のゴミや野ざらしになっている死体の除去、

時代が下ると、牛馬の死体処理からそれから派生する皮革製品の専業・専売を認められ、

その牛馬の死体処理が『専業』が、また差別意識を生んで、

明治維新と共に『専業』ではなくなった。」

さて、女性はどうだったか?

今では「売春婦」などとイメージが良くない名が付いているが、

平安期には「白拍子」・「遊女」と言われて、男性の平安貴族と縁を結んで、

子供を宿せば、その子は正式な貴族の子として扱われ、

産んだ「白拍子」・「遊女」も貴族として扱われた。

そして、所領も与えられ代々女性が土地を継いでも良いとされていた。

その当時は貴族と対等に渡り合えるほど識字率が高く、

『和歌集』に名を連ねる女性も出てくるほどである。

その女性達が「その地位から転げ落ちた」のは、

平安時代の「貴族社会(文化中心)」から、「武家社会(武芸中心)」に移ってから、

女性の地位は下がっていった。

しかし、武家社会の始まりである「鎌倉~南北朝~室町~戦国~織豊時代」になっても

どっこい、「高利貸し」などをして、福々しくなって身動きに苦しむほど

太った女性の図が伝わっている。





今日はこの辺で!!









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