今日も昨日のエゴノキ騒動の続きです。
騒動なんて、大袈裟なものでは全然ありませんでしたけれどね。
心が、チョッと、ざわついただけ。
その気持ちを投げつけたのは、当時まだ嫁いでいない娘と夫でした。
もしかすると、妹に、一番多く愚痴ったかもしれませんが、今となっては、よく覚えていません。
隣人の方には、内心、納得できないものがあっても、、平静を装い、いつもと変わらない態度で私は接しました。
私は、余程のことがない限り、心から信頼していない人には、悪い感情を露わにするような事はしない性格ですから。
エゴノキの時もそうでした。
境界線の植栽スペースに何を植えるかを話し合って決めましょうと、隣人のKさんに申しあげました。
ところが、そのお返事は、実に素っ気なく、表現を言い換えるなら無責任極まりないものでした。
「そちらさんで勝手にして下さい」の一言だけ。
何かお気に召さない事でもあるのかしら、と思い、私は、その意外な返事にとても困惑したものです。
植栽をお願いするとき、帯状スペースの自分の敷地半分だけに植えるなんていったみっともないことはできませんから。
結局隙間なくつつじと、5本株立ちのエゴノキ、その樹の下に灌木を植えてもらいました。
支払いもすべて私が済ませ、その半額をKさんにお願いすることもできませんでした。
Kさんがその後、申し出られるかしらと、一縷の期待を懐きましたが、そのようなことは一切なくて。
Kさんの敷地の植栽まで、私の負担になってしまいました。
エゴノキのすぐ傍にある、我が家のアプローチの天使のオブジェ
そのころは、夫も働き盛りで、家計も一番潤っているときでしたから、今、思うほどには気ににならなかったのでしょう。
もし、この出来事が遺族年金で暮らす今の我が身に起きたなら、黙ってはいられなかったでしょうね~。(笑)
こんな経緯がありましたから、エゴノキの伐採を植木屋さんに言われた時は、一時的にとても私は傷つきました。
植栽の時は、まるで権利を放棄したかのような態度で、植栽の支払いを逃れられたKさんです。
それから十数年経過して、自分の敷地だからと、突然権利意識を露わにして、文句を言われる態度が、どうしても納得いきませんでした。
結局は、翌年の年末に、泣く泣く伐採することに。
植木屋さんが、また来られた時に、隣人のKさんが、同様のクレームを、今度は娘にされたのです、
長女のMちゃんに、私は説得されてしまいました。
「ママの気持ちは十分理解はできるけれど、我慢すれば。相手の敷地なのだから」
過去の経緯を思い出し、ぶつぶつ言ってなかなか気が治まらない私でしたが。
娘に説得されては折れるしかなく、しぶしぶ承知しました。
門扉の前にある寄せ植え パンジーでも添えたいです。
でも私は、いつまでもいつまでも根に持って、くよくよする性格ではありません。
このようなつらい想い出は、忘れることは決してありませんが。
私とは肌の合わない、変わった人との印象は、未だに拭えませんし。
噂好きのグループのお一人ですから、気は絶対に許してはいませんが。
Kさんは、80代の後半の年齢ながら、お一人暮らしで頑張っておられます。
脚もお悪いようです。
今はいつも、いたわりの気持ちで接している私です。
三十年以上にわたる隣人とのお付き合いでは、波風が立つ事もたまにはありましたが、ほとんどが小さなさざ波。
にこやかに挨拶を交わせる、穏やかな人間関係の近所づきあいが、今日に至るまで続いてきたと言っていいでしょう。
前記事でもご紹介した、心から信頼できるFさんとIさんという友人に恵まれている私。
それだけで、とても心強く、安らいだ気持ちで、この地に住むことができます。
同じ場所に住む、ご近所の方々すべてとの御縁を大切にする気持ちを、今後も忘れないようにしようと思っています。
わが家のシンボルフラワーのコバノランタナ。
今もまだ、可憐なピンクの小花が咲き続けてくれています。
最後に落ち葉の受け止め方は、人それぞれである実例をお話させていただきますね。
或る時、似たような問題が連想させられる出来事が、わが家の裏のお宅の庭の柿の樹で起きました。
今年の夏の終わりころでしたでしょうか。
その大きな樹が、ほとんど半分近く、バッサリと剪定されてしまったのです。
それに気が付いた時は、目を丸くして驚き、私は、がっかりしたものです。
アプローチの階段を登り切ると、目の前の塀越しに、裏のお宅の大きな柿の木が見えました。
その木は、四季の移ろいを、とてもよく伝えてくれました。
特に青空をバックに、鮮やかなオレンジ色の柿の実がたくさんなった時の姿は、正に日本の秋の光景で見応えがありました。
私の目を、いつも愉しませてくれたのです。
ところがある日の事。
そのお宅にお住いの奥様がおっしゃいました。
「お宅の玄関に落ち葉が落ちているようで、ご迷惑をかけ申し訳ありません」と。
私は、迷惑なんてとんでもないと思い、その謝罪の言葉に恐縮してしまいました。
借景で、心から愉しませてもらい、暮らしの潤いになっていたからです。
(柿の木の画像を、後ほどここにアップします)
わが家に気を遣って切られたのでしたら、それはあまりの誤解で、本当に残念なことですが。
借景として愉しませてもらっていることを、強く申しあげたことがある私ですから。
恐らくそうではなく、柿の木の健康維持のために、幹ごと、大胆に剪定されたのでしょう。
今は、早く大きくなあ~れと言いながら、いつもその柿の木を眺めて暮らしています。
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花のように泉のように